第4話 一本だけ、投げさせて
俺は無造作に、柔道着の袖を掴まれた。
「ねえ、月山君」
柔道少女は、身体の向きを変えずに俺の袖をつかんだまま、横顔で話しかけてきた。
小柄な女の子なのに、その袖をつかむ力はとても強く感じられた。
いやな予感がするなあ。
うん、間違いない、これは、柔道部に勧誘される。
部員が少ない部活の新人勧誘の必死さは、入学時にいやというほど味わった。
アニメ鑑賞部とかがあればそりゃ少しは考えたかもしれんけど、残念ながらそれ系の部活もなく、野球部だのサッカー部だのボート部だの書道部だの文芸部だの応援部だの、襲いかかる数々の勧誘を断り続けたんだ。
もちろん柔道部なんてごめんだ。
俺は、絶対に断るぞ。
いやまあそりゃさ、結構かわいいなって思っていたクラスメートと部活だなんて、青春の一ページとしては悪くない気もするけどさ。
でも、こいつ、黒帯の使い込みようからして、どう考えてもガチっぽいし。
キャハハウフフの甘ったるい目的不明な謎のクラブ活動ならともかく、汗と涙にまみれた燃え上がる青春系筋肉系部活動なんて、ごめんだ。
そう固く決心した俺の袖を掴んだまま、羽黒が小さめの声で、おずおずと言った。
「あのさ、月山君、柔道、やってみない? さっきはああ言ったけど、やっぱり練習相手はほしいんだよね」
ほらきた。さ、俺はこんなの、さらりと断るぞ。
「いや、興味ない」
「あ、そう。じゃあいいや」
あれ。思ったよりもあっさりと引き下がるんだな、と思ったところで、羽黒は続けて言う。
「あのさ、月山君、さっきまで野上先生に受け身、教わってたんだよね?」
「ああ、腕がしびれていてえよ」
「じゃ、大丈夫だよね」
なにが、と問う暇もなく。
気がついたら、羽黒は小さな身体をするりとすべりこませて、俺の正面に立っていた。
少女の右手は俺の襟を持ち、左手は袖を絞り込むようにして握っている。
羽黒の身長は俺より頭一つ分低い。
俺を見上げてくるその瞳は、本当に黒くて、輝いていて。
突き刺すような視線でまっすぐ見据えてくる。
「ごめん、一本だけ、投げさせて。ケガはさせない」
「いや、おまえの体格じゃ無理だろ」
控えめに見ても体重差は十キロじゃきかないだろう、もしかしたら二十キロは違うかもしれない。
「大丈夫、痛くはないと思うから」
「え、冗談だろ」
「ごめんね」
羽黒は俺の襟をもった右手首をくいっとひっぱる。
小柄な女の子の力だ、そんなに強くは感じられないはずなのに、あまりに瞬間的に襟をひっぱられたせいで、俺の身体は反射的にバランスをとろうとする。
俺の意志とは関係なく、俺の身体の重心は、反対方向へ動いた。
次の瞬間。
俺は、思い出すことになる。
昔遊園地で乗ったジェットコースター、そのレールの頂点から一気に下るあの感覚を。
自分自身の身体から重力がなくなる、その瞬間を。
小柄で力もそんなになさそうな羽黒が、身体全体を使って俺の身体を斜め上方向へとひっぱり――重心を動かされていた俺はなすすべもなくつま先立ちになる――そして、羽黒は消えた。
いや、消えたんじゃない、背中を向けて俺の懐にすっぽりもぐり込んだのだ。
上へと誘導されて思わず重心を低くしようとする俺。その俺の身体の動きにあわせるかのように羽黒は腰を落とす、羽黒の頼りないほど小さな背中に多い被さるような姿勢になり、あ、俺この子を押しつぶしちまう、と思って、なのにそこにあったはずの羽黒の背中はすでになく、いや違う、ひねりを加えた重心の移動によって俺の身体がくるりと回転させられたのだ、今はもう俺の身体は畳の上にあった。
見えるのは、天井と、そしてこちらを見つめる羽黒の……きれいな、黒い瞳。
電光石火の背負い投げだった。
痛みなんか、ぜんぜんない。
投げられた、というよりも、なにがなんだかわからないうちに回転させられてふわりと優しく畳に置かれた、そんな感じ。
信じられない。
なにが起こったっていうんだ?
「ね、大丈夫だったでしょ?」
まだ俺の襟と袖を持ったまま、少し嬉しそうな笑顔で羽黒が言う。
「へへ、久しぶりに人を投げたよ。気持ちいいね」
教室では決して見たことのない、屈託のない笑み。
羽黒は俺の胴着から手を離すと、あふう、と息を吐き、
「やっぱ、人を投げるのは、いいね、んー……あはぁ、ほんっと……きんもちいい……快感だぁ……」
と言った。
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