第2話 小さな人影は回転し続ける
ドタン。
バタン。
畳が、揺れる。
うるせえな、ゆっくり眠れねえだろ。
そう思うけど、耳許で鳴る音は止む気配がない。
あれ、ここどこだっけ。
そうだ、学校の武道場だ、ついつい眠っちゃったんだな。
俺は目を開け、上体を起こした。
武道場の、開け放されたままのドア、そこからの西日がまぶしい。
音がしているのはそちらの方からだ。
ドタン。
バタン。
音の主が、そこにいた。
柔道着を身につけた、小さな人影。
太陽が作り出す逆光のせいで、顔はよく見えない。
突き刺すような西日の中、そいつの輪郭だけが浮き出ているように見えた。
その輪郭が、俺の目の前で、小気味よい音をたてながら小さな身体をくるくると回転させている。
マット運動の、飛び込み前転に似た動き。
くるりと身体を回転させ、腕を畳に打ちつけ、そして立ち上がり、また打ちつける。
激しい動きなのに、背筋に芯の入った姿勢は揺らぎがなく、一つ一つの動作がきびきびとしている。いや、しすぎていて、人間の動きじゃないんじゃないか、とすら思わせる。
――まるで踊っているみたいだな。
俺は寝起きのぼんやりとした頭でそう思った。
夕日の強い光で俺は目を細める。
その襲いかかる光から逃れようとしているかのように、小さな人影は回転し続ける。
映写機が映し出す影絵みたいだ。
俺、今夢でも見ているのか?
いや、夢じゃない。
だって日の光でこんなにも目が痛い。
それに、この動きは俺も知っている。
さきほど体育教師に何度もさせられていたやつだ。
柔道の、前回り受け身。
立っている状態から前転するように片手から畳に飛び込み、一回転して受け身を取る。
俺がやると、陸にあげられた魚のようにみっともなく畳の上でビチビチとのたうちまわるだけの運動だ。
だがそいつの受け身は、俺のとは違って流麗で滑らかで、なんていうか、馬鹿みたいな表現だけど、美しさすら感じさせるものだった。
右腕から畳に向かって飛び込む、一回転する、バン、と小気味よい音を響かせて受け身を取る、そのまま勢いをつけて立ち上がり、今度は左腕から。
ドタン、バタン。
それが、音の正体だった。
ふーん前回り受け身って、こんなに綺麗にできるもんなんだなあ。
感心しながらしばらく眺める。
と、そいつは、俺が上半身を起こしているのに気づいたようだ。
受け身の練習をやめてそばにやってくる。
西日は強く、逆光のままで顔はやっぱり見えない。
俺の他にまだ補習を受けるやつがいたのか、と思った。
だけど、すぐにそうじゃないことに気づく。
強い日差しの中、光を吸収する色――つまり、黒――だけが、くっきり見えたのだ。
それは、帯だった。
黒い、帯。
確か、柔道で黒帯を締めることができるのは、初段からのはずだ。
授業の時だけ柔道をやるような生徒は、黒帯なんか普通持っていない。
つまり、補習ではなく、部活ということだろう。
近くで見ると、その黒帯はところどころ布がほつれて、中の白い生地が見えていた。よほど使い込まれているのがわかる。
しかし、丈夫そうな作りをしているのにここまでボロボロになるとは、どれだけの間この黒帯を締めて練習してきたのだろう。
柔道の帯ってのも使い込むとこうなるのか、などと思いながら目の前の黒帯を眺めていると、
「目、覚めた?」
黒帯の主の声が聞こえた。すっきりとしていて、心のまっすぐさが感じられる声。俺は慌てて答える。
「あ、す、すいません、邪魔でしたよね、柔道部の練習……」
「違う。柔道部は廃部になってるでしょ」
「え、でも……その黒帯……部活じゃないんですか」
「これは中学の時とったの。……柔道部がなくても、練習はしてもいいっていうから。ま、危ないから乱取りは禁止って言われたけど、相手がいなくちゃ乱取りのしようもないからね。っていうか。同じクラスになってもう一ヶ月も立つんだし、同級生相手に敬語はいらないと思う」
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