3-3 今日だけでいいから

 転機、とでも言えばいいのか。

 少なくともヤナギの生活が急変したのは、その日の夜のことだった。

 特に何か特別な日だったとか、そういうことでは全くない。ただテストが終わって、うっかりアマツマが告白されるところを見てしまったというだけで、それ以外は普通の日だった。

 家に帰って溜まっていた洗濯物を洗って、夕飯を作って食べて、風呂に入って――眠るまでの残りの時間は、何をしようとしていたのかさえ覚えていないような。そんなどうでもいい、いつもどおりの日の夜更け。

 そろそろ寝ようかと思った頃、それは唐突にやってきた。


「……あん?」


 ――ピンポーン、と。

 そっけなく響く、ドアベルの音。来客を知らせる合図に、ヤナギは怪訝に眉根を寄せた。時刻は深夜……とまではいかないが、それでも人が来るには遅すぎる時間だ。セールスですら、こんな時間には寄り付かない。

 眉間にしわを寄せたまま、ただ待つ。と、五秒ほどの時間をおいて、さらにもう一度ドアベルが響く。聞き間違いを疑っていたのだが、それもない。

 本当に来客らしいが――

 どうも短気らしい来客は、唐突にドアベルを連打し始めた。

 ピンポンピンポン鳴り響く騒音に、ようやく誰が来たか気づく。こんなことをするのは一人しかいない。

 慌てて駆け出して、蹴とばす勢いでドアを開け放った。

 思わず叫ぶ。


「ふざけろタカト! てめえいきなり来やがってなにしくさる――……?」


 だがすぐに語勢は失速する。

 きょとん――というよりはぽかん……と、ヤナギはその来客を見つめた。

 端的に言えば、来客はタカトではなかった。もっと言うなれば身長は高めだがむさくるしい顔ではないし、タカトと比べればあまりにも華奢だし、さらに付け加えるなら男でもないし……いつもの笑顔も浮かべていない。

 訪問客を迎えるにしては長い沈黙を挟んでから。ようやくヤナギは相手の名を呼んだ。


「……アマツマ?」

「…………」


 訪問者――アマツマは、呼ばれても何も言ってこない。ただうつむいて、黙りこくっている。

 その出で立ちも、なんというべきか奇妙な格好だった。雨も降っていないのにカッパを着こんでいる。それも、以前ヤナギが貸したカッパだ。

 フードまで目深にかぶって、まるで家出のような……

 と、思ったのとほぼ同時だった。


「――泊めて」

「……はあ?」

「お願い、泊めて。今日だけ……今日だけで、いいから……」


 顔もあげぬまま、ぽつりと。か細い声で言ってくる。

 だがヤナギは素直に顔をしかめた。こんな時間の来訪もだが、言われた内容も内容だ。珍しく――といって相手を熟知するほど親しい仲ではないのだが――弱々しいアマツマの様子からして、この前のような冗談とも思えない。

 いまだに視線を合わせてこない彼女に、眉間にしわを寄せたまま言った。


「泊めろっつったってお前な……家出かなんかか? いろいろ言いたいことはあるが、男んちに泊まりに来るのはなんか間違ってるだろ。友達んちは?」

「みんな、家族で住んでるから……」

「だから俺んちってのもな……」


 アマツマの言いたいことを察してうめく。つまりは、迷惑のかけやすさの問題だ。

 ヤナギなら一人暮らしだからヤナギだけにしか迷惑がかからないが、ほかの人たちには家族がいる。家出してきたから泊めてくれと頼りにくいのだろう。

 あるいは単に、大事にしたくなかっただけか。ヤナギだけを黙らせるのと、友達とその家族を黙らせるのと、どっちが楽かなど考えるまでもない。

 もしかしたら、ほかに理由があるのかもしれないが――だがどれにしたって、承諾できるかというと別の問題だ。


「まあそっちの言い分もわからんではないけど、だからってこれはない。何があったか知らんが、男の家に女子泊めるなんて普通に考えたら――」

 そんなヤナギの言葉を、悲鳴のように遮って。

 

「――今日だけでいいから!」

「……!?」


 唐突に声を荒らげたアマツマの声は……だが次の時には力を失って、弱々しく地面に落ちた。


「……お願い。今日だけで、いいから……」

「アマツマ……?」


 その異様さに、呆然と名を呼ぶが。

 遅れて、はっとヤナギは気づいた。目深にかぶったフードの下。わずかに覗いた頬を一滴、雫がつ……と落ちていく――


「……泣いてんのか?」

「…………」


 アマツマは、答えない。身を縮こまらせて、ただ弱々しく黙りこくるだけだ。

 困惑したまま、ヤナギは後頭部をがりがりとかいた。

 普通に考えたら、どう頑張ってもこれはない。どんな事情があろうと、年頃の女子を年頃の男の部屋に泊めるなどという選択は。普通だったらありえないし……もし仮にこれを親が知ったなら、噴飯ものだろう。

 常識で考えれば、泊めるなどという選択肢は絶対にありえない。

 だが……と食い下がる想いがあったのは、目の前で静かに泣くこの少女が、あまりにも小さく見えたからだ。

 学校では“王子様”などと呼ばれていたアマツマだが、今では見る影もない――いや、見る影がないのはここではいつものことではあるが。


(これを見捨ててぐっすり眠れそうかっつーとな……)


 うんざりと観念すると、ヤナギは深々とため息をついた。


「わかったよ。あがれ。一日だけだぞ」

「……え?」


 ヤナギの言葉に、アマツマはばっと顔を上げた。

 フードに隠れていた目元が赤いのは、ここに来るまでに泣きはらしていたからか。じっくり見るものでもないと判断して、早々にヤナギは背を向けた。

 と、その背中を追いかけてくる、か細い声。


「……いいの?」

「お前が言い出したんだろ。とっととあがれ。冷えるだろ」


 振り向きもせずにぶっきらぼうに告げると、ヤナギはそのまま部屋へと戻った。

 その後を重い足取りで気配が追いかけてくるが。


「……ヤナギ」


 呼び止められて、ヤナギは振り向いた。

 視線の先にいたのは、当然アマツマだが。フードを外した今も、普段からは考えられないほどに暗い顔をして、うつむいている。

 視線すら合わそうとしないまま、彼女はぽつりとこう囁いた。


「ごめん」

「……そういう時は“ありがとう”だな。謝られると気が滅入る」

「……ごめん」

(重症だなこりゃ……何があったらこいつがここまでへこむんだ?)


 ひっそりとため息をついて、ヤナギは空き部屋の準備に取り掛かった。

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