1-4 人をこんな目に合わせておいて

 休み明け、月曜日の朝。

 いつもの時間、いつものアラームに起こされて、ヤナギはもそもそとベッドから這い出た。時刻は八時二十分。半年間の通学で見切った、ホームルームに間に合うギリギリの時間である。

 朝食は時間がもったいないからほとんど取らない。パンにバター塗ってかじる暇があるなら寝てたほうがマシというのがヤナギの考えだ。冷蔵庫にゼリー飲料があれば、それが朝食になる時もある。

 だが今日、冷蔵庫の中身はすっからかんだった。


(不健康な生活してんなあ……)


 とは自覚するものの、直そうという気にはどうもなれない。眠気と気だるさを堪えて、ヤナギは準備を済ませると外に出た。

 生憎と天気は曇天――それも、雲の色は真っ黒。まだ雨は降っていないが雲は厚く、もはや秒読みといった様相。

 雨に濡れての登校など面白いものではなく、カッパを着るのも煩わしい。だからヤナギは急いで――

 と、駐輪場の前ではたと気づいた。


「……そうだった。自転車ねえんだった」


 休み前に、怪我したアマツマに貸したままだ。アマツマが今日の通学に使って、放課後回収する予定だったことを完全に忘れていた。

 時刻を確かめる。自転車なら間に合うが、歩きでは絶対に間に合わない。

 面倒なのは、担任の先生が生徒の遅刻をカウントしていることだ。遅刻した生徒は罰として、カウントの分だけ学期末清掃に付き合わされる。既に一学期で体験した苦行だ。

 それだけに絶対に遅刻は避けたいが……走っても間に合う時間ではない。

 ので、早々に割り切った。


「……どーせなら休んじまうか」


 とっとと諦めると、ヤナギはSNSアプリを起動した。担任に『風邪引いたから休みます』と一報を入れる。もちろん嘘だ。単なるズル休みだが、テストが近いせいで今日の授業は半分近くが自習になっていたはずだ。休んだところで影響は少ない。

 気になるのは、アマツマに貸した自転車のことだが。


(……まあ、明日回収すりゃいいか。学校に置いといてくれるだろ)


 もしかしたら帰りにマンションまで持ってくるかもしれない――とも思ったが。まあそこまでする義理はアマツマにはないだろう。

 その程度に考えて、ヤナギは自分の部屋に戻った。

 担任の返事は『あいよー』だった。




 そのすぐ後に、雨は予想通りに降り出した。雨足は強く、ざあざあと降る雨の音が部屋の中に届いている。

 学校をズル休みしたヤナギが何をしていたかというと、マヌケなことに答えは勉強だった。

 休みなんだからわざわざ勉強しなくても……と自分自身思うのだが、どうもズル休みの罪悪感に負けた。同級生は今頃勉強してるんだよなあと思うと、負い目のようなものを感じて素直に遊べなかったのだ。

 だから授業の時間に合わせるように自習していたのだが。


(そろそろ……飽きてきたな)


 昼前ともなると、流石に集中力が切れてきた。教科書を睨む目よりも、遠くの雨音を聞く耳のほうに意識が行ってしまい、頭に何も入ってこない。

 諦めてシャーペンをノートの上に放り投げて、椅子の背もたれを軋ませた。

 と、放置していたスマホにタカトからのメッセージ。『ズル休みか?』という質問に、ヤナギは『正解』とだけ返した。


「飯でも作るか……」


 時計を見やれば11時。少々早いが、勉強に戻る気にもなれない。眉間を揉みながら立ち上がると、重たい足取りで部屋を出た。

 ヤナギの借りているマンションは2LDK。本当なら1K程度で十分だったのだが、親に勝手に決められた。あまり物欲があるわけでもなければ、友人が多いわけでもないヤナギにとって、この広さは正直余分だ。広いだけあって、掃除が面倒なのだ。

 だから広い部屋は嫌だった。

 だが今こうして一人でリビングに立っていると、別な理由で広い部屋を嫌いになる。

 感じるのは静かな虚無感だ。“ここにいるのは自分だけ”。それを痛感する。

 それは寂しさとは違う。ただ独りでいるという現実を突きつけられているだけだ。それは寂しさとは違う……


 思考を振り払うようにため息をつくと、ヤナギは冷蔵庫を開いた。朝確認したが、中身はほとんど空っぽだ。ゼリー飲料はもとより、ろくに食材が入っていない。

 元々この冷蔵庫に食材をぎっちり詰めることもないのだが。ヤナギなりに培った独り暮らしのコツだ――食材を買い過ぎるな。ろくなことにならない。


(帰りにスーパーに寄る予定だったんだっけか、そういえば)


 だが今日はズル休みだ。加えて言えば自転車もないし、この悪天候である。諦めると、ヤナギは冷凍庫を開いて冷凍うどんを取り出した。これもヤナギなりのコツだ――冷凍食品はストックしておくべし。空腹で泣きたくないのなら。

 レンチンした後水で締めて、かけうどんにしてリビングに持っていく。テレビをつけてチャンネルを回したが、面白い番組はやっていない。結局つまらないニュースを見ながらうどんをすすった。


(なんつーか……ひっでえ生活だよなあ……)


 学校をずるけて雑に作ったうどんをすすりながら、一人ぼっちで、つまらないテレビを退屈しながら見ている。遠くから聞こえる雨音とテレビの雑音が、殊更に自分が今独りであることを訴えてくる。

 普段は考えないようにしていたことが、一人の時だと頭によぎる。考えたのは将来の自分だ。中年になった時、自分はどんな生活をしているのか。

 仕事はしているだろう。だがそれ以外は? どんな仕事をしているかなんてどうでもいい。生きていくために働かなければならないのだから、何かをしているのだろう。それはいい。

 気になったのはそんなことではなく……例えば、そう、今日のように。仕事が休みになった時、自分はどんな生活をしているかだ。

 想像は簡単に出来た。つまり、今と変わらない、だ。

 一人で時間を潰している。退屈そうにしながら、その退屈を空気のように受け入れて。十年後、二十年後、三十年後。きっと変わらない。そこにいるのは自分だけなのだから。

 きっと、今日と変わらない。ずっと一人で、ぼんやりと――……


(哲学者ごっこのつもりか? バカバカしい……気分が滅入ってる? 雨のせいか?)


 自嘲すると、テーブルの上に空っぽのどんぶりを放った。暗くよどんだ思考にうんざりとするが、それが自分だ。どんぶりのようには手放せない。

 ならばせめて、意識だけでも捨ててしまうか――そんな益体のないことを考えながら、ヤナギはソファに寝転んだ。そこまで強い眠気を感じていたわけでもないが、不思議と疲れてはいた。テレビを消すのも億劫だった。

 一時間ほどの仮眠のつもりで目を閉じて。そのまま意識を手放した。


 それからどれほどの時間が経ったのか。

 暗闇から浮上するように、意識が目覚めた。夢は見なかった、と、思う。だから自分がどれだけ寝ていたのかもわからない。

 ただ覚醒を意識させたのはそれらではなく。

 ――頬をひたと、何かが触れた。

 ひんやりと冷たく、しめった――だけど、柔らかい何か。小さくはない。頬を包み込むように触れている――得体のしれない何か。


(……なんだ、これ?)


 本気でわからず、その冷たさに起こされるようにヤナギは目を開いた――


「……はっ?」


 そしてそのまま、絶句した。


「――人をこんな目に合わせておいて、随分と快適そうじゃないか……ねえ、バンビーノ?」


 水に濡れた美しい“王子様”が、覗き込むようにしてこちらを見ていた。

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