第29話 ◆胸を締め付ける愛欲

 関玿かんしょうは力ない足取りで部屋へとたどり着くと、そのまま寝台へと倒れ込んだ。

 上質な掛布が肌を心地よく撫でるのだが、正直まだこれには慣れない。

 地方兵だった頃は家でもゴワゴワの掛布が当たり前だったし、反乱軍を率いるようになってからは野営ばかりで、そうなると掛布などないのが普通だった。

 皇帝とは、この世の権力の頂点に立ち、全てを手に入れることができる人物とされている。


「ハッ……何が全てだ……」


 感情の整理が追いつかない。


「こんなことになるなら、最初から後宮になんか行かなければよかった」


 安永季あんえいきの小言から逃げるための、ただの証拠作りだった。

 しかし、後宮に行ったから彼女と会えたのも事実だ。もし、正式な手順を踏んで後宮に行っていれば、一生その存在を認識しないままだったはず。

 ごろりと仰向けに転がり、腕で目元を覆う関玿。


 いつも暗闇の中に浮かび上がるのは、白い髪の彼女だ。

 幻影の彼女は、紅玉がはまった歩揺をこちらに差し出して、「挿してくださいますか」と控えめな視線を送りながら尋ねてくる。

 あれは間違いなく彼女の心だった。

 迷惑だったかと聞いた自分への、いじらしい返答。目尻を薄らと色づけた彼女が可愛くて、愛くるしくて、清らかで。あの時、紅林を抱き潰さなかった自分を褒めてやりたい。だが、結局は我慢できず……というより、『自覚させないと』という衝動に駆られてしまった。


 紅林はよく目立つ。

 他にも紺や亜麻色、黒など様々な色の髪の女はいるが、彼女は色が目立つというより存在が目立った。

 真っ直ぐに伸びた背筋に、細く長い首。抱けば折れてしまいそうな柳腰は、歩く度に艶美に揺れ、挙措は楚々として、着るものが違えば妃嬪と見間違うような気品があふれていた。とても流民だったとは思えない。

 そうなると当然、欲をもって彼女を見る輩も増えるわけで……。


 特に、紅林が市に現れてからは、よく衛兵達の雑話にのぼっていた。あまりにもくだらない話の種に紅林が使われているのを聞いたときは、全員、獄にぶち込んでやろうかとも思った。

 彼女は、自分に向けられる視線は全て負の感情のものと思っているようだが。ここに、それ以外の感情を抱いて見ている奴がいるというのに。あまりにも危機感がなさすぎるし、気付かなさすぎる。だから、彼女を想う者がいることを分からせてやりたかった。

 特に、自分がそれだと。

 不意打ちと言えど、昨日の口づけに抵抗は見えなかったから、てっきり自分を受け入れてくれるものだと思っていたが、今日は拒まれてしまった。


「たちの悪い女人に捕まってしまったな」


 何を気にしているのか、まあ、理解はできる。

 彼女は自分の正体など知りもしないのだから。

 だが、知らないおかげで、あんな台詞を聞くことにもなったのだが。


「……嫌い、か……どうしたものかな」




 

 関玿は胸の痛みから気を遠ざけるように、折り曲げた指の背を額にコツンコツンと落とし思案していた。

 すると、部屋の外から入室の声がかかる。

 聞き飽きた声に、関玿がおざなりな許可を出せば、やはり姿を現したのは安永季であった。


「あら、珍しいですね。どこか具合でも悪いんですか?」


 日が高いうちから牀に寝転ぶ関玿を見て、安永季は目を瞬かせ早足で近寄る。


乞巧奠きこうでんはもうすぐなのですから、体調は万全にしていただかないと。侍医じいを呼びましょうか」

「いや、病ではないから大丈夫だ」


 関玿は身を起こし、牀の縁に腰掛けた。


「では、やはり乞巧奠が原因ですか? しかし、こればかりは後宮の行く行かないと違い、宮中行事なので出てもらいませんと」

「まあ、それは納得して……」


 関玿は途中で何か思ったように言葉を切った。


「永季、乞巧奠ではどのくらいの女人が宴殿に上がれる」

「夜空の下で儀式が行われるのが乞巧奠の目玉ですから、宴殿の中に席を設けられるのは、陛下と四夫人。あとは宴殿の正面の広場に祭壇や舞台を整えますので、その周囲に残りの妃嬪と、従五品以上の各部省官といったところでしょうか」

「女官や宮女は」

「給仕などで宴殿に入ったりはしますが、座を与えられることはありませんよ。それに陛下への直接の給仕は四夫人がしますから、陛下が直接女官以下の者と関わられることはないかと」


 そうか、と関玿は背を丸め、足の間に安堵の息をこぼした。

 さすがに、給仕役で自分の酒を注がれた日には間違いなくばれてしまう。


 ――いつかは、ばらさないといけないんだろうが。


 その時、彼女はどんな反応をするのだろうか。

 知らないうちに皇帝の寵を得ていたと喜ぶのか……いや、彼女の場合そんな浅ましい思考はしない。それどころか、皇帝の寵などほしくないとハッキリ言ったのだから。


 ――どうして彼女は皇帝が嫌いなんだ。


 確か、同じ流れで紅林は『後宮を焼きました』と、皇帝を責めていた。何千人もの女を殺したとも。女子供すら焼き殺す非道の冷帝。やはり、その印象が強いのかもしれない。

 どうして自分はさっさと世間に全てを公表しなかったのだろうか、と今更ながら後悔してしまう。では大人しく諦めるか、と自問するも当然、否という答えしか出ない。


 ――いざという時は、無理矢理にでも妃にしてしまおうか。


 今の自分にはその力がある。


 ――だが、もし泣いてやめてくれと懇願してきたら……どうしようか。


 宮に閉じ込め、毎日食事時に訪ねては、わんかゆ一匙ひとさじずつ与え、喉が渇いたと言うなら水を口づけで飲ませ、髪をき頬を撫で、沐浴では頭の先から足の指一本一本まで丁寧に洗うのもいい。甘い言葉を耳元で囁き続けながら寝堕ちるまで抱き続け、繻子しゅすの掛布で包んで腕の中に閉じ込めよう。


 ――そうしてドロドロに甘やかして、いかに愛されているか分からせ、俺なしじゃ生きてけないよう――。


「陛下、何か楽しいことでもありましたか?」

「……っは? 急になんだ」

「いえ、お顔が笑われておりましたから」


 安永季の言葉に、関玿はハッとして口元を手で覆った。


 ――笑っていた、だと……。


 ハハッ、と関玿は自嘲した。

 自分の中にも、このような浅ましく黒い感情があると知れば笑わずにはいられなかった。自分は権力には無欲で、少なくとも今までの皇帝とは違うという自負があった。むしろ高尚こうしょうであるとすら思っていた。


 しかし、これでは末喜ばっき媛貴妃えんきひにうつつを抜かしたの王達と同じではないか。狐憑きなど単なる昔話だと思っていたが、もしや本当に……とすら思ってしまう。果たして、自分は妖狐に『魅了』されてしまったのか。


 ――馬鹿馬鹿しい、これは俺の感情だ。彼女は関係ない。


 だが忌々しいことに、傾国に溺れる気持ちが多少なりとも理解できてしまった。


「あ! 分かっちゃいましたよ。ふふふ、ずばり歩揺の姫のことでしょう!」


 関玿の心の内などつゆ知らず、突如、したり顔で陽気な声をあげた安永季。


「歩揺の姫? なんだそれは」

「ほら、紅玉の金歩揺ですよ。陛下があれを贈った相手ですって。手元になさそうですし、一体どこのどなたに渡したんですぅ? もし、妃嬪以外の方でしたら、今すぐにでも冊封さっぽうを、城外の町娘でしたら入宮の手続きをしますよ!」

「……阿呆らし」


 ふひひ、と気色悪い笑いを漏らす安永季を湿った眼差しで一蹴し、関玿はその話は終わりだとばかりに手を振った。


「それより、内侍省から失せ物に関しての報告は何かあったか」

「やはり、侍女易葉の時とは違い、証拠品がないもので犯人の特定はできないということです」


 仕事の話になると、途端に安永季も声色を変える。


「……予想通りか」

「え、何か仰いました?」

「独り言だ」

だいを入れましょうか」


 後宮内の犯罪については、内侍省が捜査権と逮捕権を持つ。しかし、ことが大きいものとなれば、宮中全体の犯罪を取り締まる専門部省である大理寺に頼ることもある。


「いや……内侍省の面子もあるし、大理寺を入れて後宮内部を騒がせたくない。引き続きこの件は内侍省に一任する」

「かしこまりました」





 その後、いつも通り各部省の報告を終わらせ、安永季は部屋を立ち去ろうとする。すると、関玿から待てとの声がかかった。


「永季、名を交換しろ」


 今までの会話からかけ離れた突然の提案に、安永季は思わず「はあ!?」と、旧来の口調を出してしまった。


「思いつきで横暴になるの、やめてもらっていいでしょうか」

「お前の名ばかり呼ばれて腹が立つんだよ」

「私の優秀な頭脳を持ってしても、仰っている意味がまったく分からないのですが」


 彼女が名を呼んでくれていると言っても、所詮は偽りの名。

 名乗るとき、とっさに一番身近な者の名が口を突いて出てきてしまった。安永季に罪はないと理解してはいるものの、彼女に様々な声音で名を呼ばれ続けているのは腹立つ。

 こうなるのであれば、まったく別の名か、同姓同名だということにして自分の名を伝えるのだった。


「お前の名は今からただのあんだ」

「理不尽過ぎますって」

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