第34話 涼 29歳 春 日本へ

 次の日の朝、涼は監督の部屋を訪ねてエリクサに電話をかけた。

「はい、エリクサでございます」

 伊那の声が少し遠くでした。

「もしもし、伊那さんですか。涼です、こんにちは」

「あら、涼さん。どうしたの、アメリカから?」

 伊那の声が少し弾んだ。

「いえ、アメリカじゃなくてモンゴルです。あの、実はこちらで、ロウさんの知り合いだという人に出会って」

「・・・ロウの?そう」

 伊那は何かを察したようだった。

「ロウはいまここにいないのよ。家にいると思うから、折り返しで電話をかけてもらえばいいかしら?」

「はい、お願いします」

「じゃぁ、電話をいったん切って、そのまま待っていてね」

「わかりました」

 涼はいったん電話を切った。隣で監督が息を詰めて緊張しているのがわかった。


 ほどなく、電話の呼び出し音が鳴る。ロウからだった。

「やぁ、涼くんか。そっちはどうだい?」

「実は、こっちで映画に出ることになりそうです。それで、その映画の監督が、どうしてもロウさんと話したいと言われていて」

「そうか。誰かな?」

「アメディオ・グラツィアーニ監督です」

「わかった」

 ロウは淡々と受け止めていた。こうなることを予想していたのかどうか、涼には判断がつかなかった。

 涼は監督と電話をかわった。

「ロウ!」

 監督はそう一言だけ言って、感極まってしまったのだろう、そのまま言葉にならなかった。ロウが電話の向こうからいろいろ語り掛けているようだったが、その声は涼には聞こえない。

 監督は電話口でほとんどイタリア語のSi,とNo,つまり、はいといいえしか言わなかった。途中で涼のほうを振り返り、英語で「一緒に日本へ行ってくれるかい?」と許可を求めるように涼を見た。涼は驚いたが、異存があるわけではなく、黙ってうなずいた。監督と一緒にアメリカからはるばる長野までロウを訪ねていくことになるのか。当分、ロウと伊那には会えないと思ってアメリカに来たのに、すぐに再会することに縁の不思議を感じていた。


 監督は撮影のスケジュールを組みなおし、涼と日本へ旅行する期間をとった。

 涼は日本の事務所にお願いして、空港に愛車トゥアレグを回してもらった。アメリカに行くと決めたとき、車も売ろうかと思ったのだが、深い思い入れがあり、どうしても売ることができなかった。涼は、車を売らずにいてよかったと思った。これで、空港からエリクサまで、監督を乗せていくことができる。


 空港から東京までの道は、標識も多くさして難しくなかった。東京からエリクサまでの道中は走りなれた道だ。監督が、国際免許を持っているから、運転を変われるよ、と言ったが、慣れた道だから平気ですよ、と返事をした。


 監督は久しぶりにロウに会うことで緊張しているらしく、やたら多弁だったり、かと思うと黙り込んでしまったりした。監督にとって、ロウは今でもスターなのだと涼は実感した。涼もいまではロウの正体を知ってはいるが、それでも「長野で出会ったロウは、実はもとオペラスターだった」と思うのと、「オペラスターのロウが、長野に暮らしているのだ」と思うのとでは、まったく違うのだろう。


 ついに車は、エリクサへ通じる最後の山道を上がり始めた。看板を発見し、涼がそのことを告げると、監督は大きく深呼吸し、両手を頬にあてた。

 エリクサに到着し、涼は監督と自分のスーツケースを降ろすために、駐車場ではなくて玄関口に車をつけた。二人とも車から降り、スーツケースを降ろそうと回り込んだところで、ガチャ、と玄関の扉が開き、ロウその人が姿を現した。


「ロウ!」

 監督が叫んで立ち尽くす。ロウは笑顔で監督に近づいてくると、両手を広げて監督をハグした。ハグしたままで、ロウが監督に声をかけ、監督がなにか答えている。だが、すべてイタリア語なのだろう、涼にはまったく聞き取れなかった。

 涼は二人分のスーツケースを降ろして玄関まで運んだ。開いたままのドアの奥から伊那が姿を現した。

 涼は伊那と二人でスーツケースをリビングまで運んでから、車を駐車場にまわしたが、ロウと監督は玄関先で話し込んだまま、なかなか中に入ってこなかった。


 しばらく待ってから、ようやくロウと監督がリビングに姿をみせた。

「イナ、彼がアメディオ・グラツィアーニだよ」

 ロウはそう英語で紹介し、続いて監督に向かって

「彼女がサイトウイナだ」

 と紹介した。伊那と監督が挨拶をする。

「はじめまして、サイトウイナです。いつも映画を拝見しています」

「はじめまして、アメディオ・グラツィアーニです。噂はいつも聞いていました。お会いできて光栄です」

 そう挨拶を交わすと、お互いに西洋風の挨拶のキスを交わした。

 涼は、そうだ、伊那はフランスに暮らしていたのだった、と思い出した。伊那が西洋風の挨拶のキスをしているのを見るのが初めてで、なんだか不思議な感じがした。


 伊那は、ごゆっくりなさってくださいと声をかけて厨房にいったん入った。戻ってくると、二人分のお茶をロウと監督の前におく。それから涼に近づいてきて日本語で言った。

「しばらく二人にしておいたほうがいいと思うの。涼さんのお部屋に行ってもいいかしら?」

「いいですよ、もちろん」

 伊那と涼は二人をおいて、リビングを出て涼の部屋に向かった。

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