第26話 涼 26歳 春 次の朝

 次の朝、窓から外を見下ろすと、三月なのに少し雪が降ったようだった。山も大地も、うっすらと白い光がかかっている。

 ダイニングに降りていくと、今朝も暖炉が煌々と燃えていた。厨房から伊那が顔を出し、明るい笑顔でおはようございます、と声をかけてきた。もう疲れている様子は見えず、涼はほっと胸をなでおろした。ロウが厨房からお皿とコップを持って現れた。


「伊那に面白がっていると怒られそうだが、スペインの朝食だよ」

 そう言って涼の前においた。トーストにトマトがかかっているようだ。

「スペイン人は、一日に五回も食事するんだよ。朝一番には軽く食べる」

「五回?なんでそんなに食べるんですか?」

「そりゃ働きたくないからじゃないかい?」

 ロウがそう言って笑った。

「そう言うと、スペイン人が怠け者みたいだが、人生で何を大事にするかの違いだな。日本では働くことが大切だが、スペインでは人生を楽しむことが大切なのだ。ゆっくり食事を楽しむ、家族や大切な人とじっくり過ごす、たっぷり眠る、仕事はただ生きるために必要だから仕方なくする。そんなところかな。もっともスペイン人には素晴らしい芸術家が多い。ゆったりした時間が感性を育むのかな。

 君の情報によれば私は前世、スペイン人だったらしい。それは初めて聞いたから、これから探求してみようと思っている。楽しみだよ」

「わかったら教えてください。その後どうなったのか、僕にもわからないので」

「そうだな。君が次に来るときまでにはわかっているだろう」

 ロウは続けて食事の説明をした。

「この飲み物は、スペインではカフェ・コン・レチェ、というが、カフェオレの牛乳が多いもの、というところだよ。こっちのトマトとオリーブを乗せて焼いたものはパン・コン・トマテという。目覚めたときに簡単に食事して、次は十一時頃に二度目の朝食、昼食は十三時過ぎてから、かなり豪勢なものを食べるのがスペイン式だよ。昼食にはたっぷり時間をかけて、そのままシエスタに入る。シエスタはだいたい十六時までだ。つまり、勉強も仕事もその間はしない。だが、EU統合されてから、スペインでもシエスタは中止されつつある。他国と調整をとらなくてはいけないからね」

 伊那が、伊那とロウの分の食事も運んできた。涼に出したものと同じ、スペインで朝一番に食べるという食事だ。いただきます、と声をかけて、三人とも食事を始めた。


 涼はロウに聞こうと思っていたことを思い出した。

「ロウさん、どうやって前世の音楽を聴くんですか?」

「聴くのは私じゃない。伊那だよ」

 やっぱり、と涼は思った。では伊那は、昨日涼に見せた方法でロウに見せるのだろうか。

「それは、伊那さんが聴いた音を、昨日僕に送った方法でロウさんに送るということですか?」

 涼の問いかけに、ロウではなく伊那が答えた。

「涼さんの前世をロウに体験させるのは、いくらなんでも不可能よ。三つ目の前世のように、ロウがそこにいたのなら、その前世をロウに見せることはできるわ。ロウがそこにいない前世の場合、私はロウにイメージを送るの。音楽には・・・音楽だけじゃないけど、どんな芸術品にもエッセンスがあるのよ。そのエッセンスのイメージを送ることはできる。私が音楽のエッセンスを伝えることができれば、あとはロウがもともとの音楽に戻してくれるのね。音楽のエッセンスって、オーロラのような光の帯なの。そして詩のエッセンスはひとひらの花びらのようなものね。私は、ロウが再現してくれる音楽を、もっと感傷的に、とか、もっと優しく、とかイメージで違いを伝えて、だんだん近づけていくの」

「それは、たいそうな作業では?」

「いや、楽しいよ。失われた国の、遠い昔の音楽を再現するのはとても楽しいことだ。伊那がいなければ、こんなことはできないからね。最初は伊那が伝えてくれる音楽のエッセンスの意味がよくわからなかったが、だんだんわかるようになってきて、それもまた楽しいんだよ」


 ロウはそう言って、伊那を見て微笑んだ。伊那があとを続けた。

「涼さん、これでみっつの前世になったわけだけれど、あこがれの吟遊詩人とのつながりを少しは感じたかしら」

「えーと・・・僕が前世から音楽を愛していたことはわかりましたが、まだつながりがわかるというところまでいかないです」

「伝説には失われた背景というものがあるのだよ」

 ロウが横から答えた。

「ただ音楽を愛しているということだけではなく。昨日、君に言ったことだが、本来いるべき場所から引き離された望郷の念が、人の心を打つ歌声になる。それこそが、伝説の吟遊詩人と同じことなのだ」

「それは、その吟遊詩人のことですか?」

「そう。ただ、彼が引き離されたのは、本来いるべき故郷の土地ではなくて、本来いるべき故郷の星からなのだが」

「それは、星のルーツの話ですか?」

「そうだな。君が最初にこのペンションに来たときに話は遡るが。君は天界の扉を開き、永久に歌声が変容してしまった。君の歌声は、ただ人に向かって歌っても、同時に人の世を越えた世界に届き、宇宙に響いていく。そうした能力を持つ歌手だけが、聴き手の心を日常から遠ざけ、日々の苦痛を忘れさせ、安らぎや愛や平和で胸を満たすことができる。歌手というのは、歌声で人を鼓舞したり宥めたりすることのできる能力を持つ者のことだ。

 だが、この地球のルールとして、引き換えのない能力は存在しない。光が強いとき、闇も同時に強くなる。あの伝説の吟遊詩人は、この星がまだ幼く弱かったときに、乞われてこの星にやってきた。光と闇。そして忘却という新しいチャレンジをするこの星のために、光が強すぎるときに心を宥め、闇が強すぎるときに心を鼓舞するための歌声を持って。

 そしてまだ幼いこの星に生まれた幼い魂たちが、いつかただ生き延びるだけではなく、もっと遠く、もっと彼方へ、もっと永遠へ意識を向けることができるように。命を越えて、魂の世界を垣間見ることができるようになるために。

 彼はそのために、ふるさとの星に、家族も友達も恋人もおいてきた。そして、彼の望郷の念こそが、人々を、動物たちを、植物たちを、すべてを癒す歌声になって、彼の肉体が滅びてしまった後も、永遠にこの星の空気の中に漂っている。そして時空を超えて彼の歌声を聴く力を持つ者達が、歌で、楽器で、作曲で、演奏で、この星を癒す音楽を奏で続けているのだよ。

 伝説では、彼が年老いて滅びるのをおそれ、神々が天界にさらったことになっているが、そうではない。彼は、この星で生きるということは、年老いて滅びる運命なのだということを承知してこの星にやってきた。彼の魂は、いまでもこの星の大気の中に漂い、この星に音楽という贈り物を届け続けているのだ。それがインスピレーションとなって、作曲家や演奏家の魂に届き、新しい音楽が生み出される。新しく生まれ、そして滅びていく音楽家たちの魂も、大気の中に漂う彼の魂に重なっていく」


 暖炉の中で、木のはぜる音がした。朝の光の中で、星と音楽について語るロウの輝く声が、まるで歌っているようだった。しばらく誰も口をきかなかった。


 ロウが再び口を開いた。

「今日は雪が降ってしまったから、朝一番に裏山に登ることはできないな。昼までに登れるかもしれないが、天気次第というところか。今日は何時に帰るんだい?」

「昼過ぎには帰ろうと思っています」

 涼はそう答えた。裏山に登れないのは残念だったが、これからは時間ができればすぐに来るつもりだから、また一本角の鹿に会いにいけばいい。それに山の神にも。

「裏山には行けないからな・・・なにかしたいことがあるかい?」

 ロウがそう聞いてくれた。もちろんロウの歌が聴きたいという思いもあったが、ロウがピアノを弾けることを思い出した。


「そういえばロウさんは、小さい頃にピアノを習っていたって言っていましたよね。ロウさんのピアノは聴いたことがないので、聴いてみたいです」

「いいよ。何を弾こうか?」

「ラフマニノフのパガニーニ・ラプソディがいいです」

 涼はヴァイオリニストであるパガニーニの曲を選んだ。

「パガニーニ・・・」

 ロウが呟いてふと気遣わしげに伊那を見た。涼はロウのそんな顔を見るのは初めてだった。

「どうかしましたか?」

 伊那は何事もなかったように微笑んで答えた。

「パガニーニもモーツァルトと同じように扉を開くから、ロウは心配しているのよ。もっともパガニーニが開くのは天界の扉じゃなくて、地獄の扉かもね」

「ああ、パガニーニは悪魔って言われていましたからね」


 天才ヴァイオリニスト、パガニーニはあまりにも超越したヴァイオリンの技術ゆえに、ヴァイオリンの能力と引き換えに悪魔に魂を売ったと言われていた。同世代の誰一人として、パガニーニの技術を習得することはできなかった。パガニーニは同時に、誰にも決して自分の技術を盗まれないよう、決して教えることもなく、超絶技巧をこらした楽譜も渡さなかった。

 いま残っているパガニーニの曲は、同時代にパガニーニの演奏を聴いた音楽家たちが、パガニーニ亡きあとに楽譜を記憶から再現したものだ。パガニーニは亡くなる前、楽譜を焼き捨てるという徹底ぶりだった。もちろん、誰にも自分の音楽を再現できないようにするためだ。だが、結局、音楽は残った。


「私もロウのピアノが聴きたいわ」

 伊那がそう言った。

「そうか・・・」

 ロウは少しためらいがちにそう言うと、立ち上がってピアノの右奥の位置にある楽譜棚に向かった。

 伊那は立ち上がり、三人分の食器を片付けて厨房に戻った。


 小さな演奏会のように、ロウのピアノの後方に伊那と涼は座った。アップライトピアノは壁に向かっておいてあるため、前方に座ることはできない。

「なんだか照れるな」

 ロウが珍しくそう言った。

「僕がここに来てから、ずっとロウさんは竪琴を弾いていたから、ピアノを弾くのは伊那さんだと思っていました」

「私も少しは弾くのよ。ロウほど上手じゃないけれど」

 伊那はそう言って涼を見た。

「やっぱり上手なんですね!」

 涼はそう言った。歌といい、竪琴といい、あれだけの音楽性を持っているのだから、当然ピアノも美しいに違いない。

「プレッシャーを与えないでくれよ。パガニーニ・ラプソディをピアノで弾くなら普通ⅩⅧだが、それでいいかい?」

 ロウが肩をすくめながら言った。

「もちろんです」

「君はこれをヴァイオリンで弾けるのか?」

 ロウが涼に振ってきた。

「はい、まぁ・・・一応は」


 話題が自分に戻ったので、涼はぎくりとした。弾けることは弾けるが、十五才でヴァイオリンをやめて以来、真剣に練習したことはない。もちろん十五才のときにパガニーニ・ラプソディは弾けたし、あの頃は同年代では誰にも負けないという自負はあったが、もはや十一年前のことだ。日々の訓練が大事なヴァイオリンで、まともな音が出せるのか・・・。うっかり、こんなに音楽性の高いロウにヴァイオリンを教えるとか言ってしまったが、はたして教えられるのだろうか。いくらロウがヴァイオリンを弾けないと言っても、下手な耳障りな音を出すわけにもいかないだろう。

 涼の東京のマンションには、ヴァイオリンはオブジェのように飾られている。最後に弾いたのがいつだったのかも覚えていない。東京に戻ったら、ヴァイオリンの練習に行く必要があるかもな、と涼は考えた。


「次に君が来たときは、パガニーニ・ラプソディを合奏しよう」

「それはとても楽しみだわ」

 伊那が涼を見て笑った。涼はなんだか冷や汗が出てきた気がした。


 ロウは深呼吸すると、ゆっくり鍵盤の上に両手を掲げた。

 パガニーニ・ラプソディⅩⅧのなだらかに滑るようなせつない旋律が始まる。その音にかぶさっていく美しい主題の旋律。

 繰り返す左手の旋律が波のように寄せてくる、その静かな美しさ。

 右手で奏でられる主題が、少しずつ姿を変えていく、息をすることさえ忘れそうな、胸を衝かれる情感。

 一音、一音が空間に醸し出す、ノスタルジーのような繊細なエナジー。


 この人、ピアニストなのか?!


 ロウのピアノの美しさに感動しながら、涼はそう疑っていた。子供の頃に聞いた、先生のパガニーニ・ラプソディⅩⅧに勝るとも劣らない音色。ピアノもヴァイオリンも、毎日の訓練を必要とする楽器で、ただピアノを習っているだけでは、決してこんな音色になることはない。


 パガニーニ・ラプソディⅩⅧの最後の音が余韻を残しながらやがて消えていった。

しばらくおいて、伊那も涼も拍手を送った。ロウが照れくさそうに振り向いて笑った。涼は思わず聞いた。

「ロウさんはピアニストですか?!」

 ロウは肩をすくめた。

「ピアニストのなりそこないってところかな。ピアニストになる夢をみたことはあるが、なれなかったのだ」

 そうなのか、と涼は思った。涼はピアノを習ったことはなく、決して詳しいわけではないが、本物のピアニストかと思うような美しい音色だった。

「ほかの曲もリクエストしていいですか?!」

「いいよ。ただし、弾けるとは限らないよ。なにしろなりそこないだからな」

 ロウはそう言って快活に笑った。

「じゃあ、私もリクエストするわ」

「伊那までリクエストするのか?」

 そう言いながら、ロウはまんざらでもなさそうだった。それから涼は、自分が知っているピアノ曲を思い出してリクエストしてみたが、ロウが弾けない曲などなかった。涼が知っているピアノ曲は、有名な曲ばかりだから、ということもあるだろう。伊那がリクエストする曲は、涼が知らない曲がほとんどだったが、どの曲も美しかった。伊那がピアノを弾けるから知っているのか、それともロウと一緒にいる間に覚えたのか、きっとその両方なのだろう。


 そんな風に午前中を過ごした後、ロウが二度目の朝ごはんにしよう、と言い出し、三人でわいわいと食事を作って食べ、涼は帰宅することにした。最後にもう一度伊那が言った。

「涼さん、契約のことについては、ゆっくり考えてみるから、涼さんももう一度考えてみてね」

「はい」

 涼はそう言ったが、ここを自分のもうひとつの別荘、あるいは家、あるいは部屋にすることは、もう揺るぎなく決心が固まっていた。伊那とロウと三人で過ごす時間は、他では変えられないものだと思っていた。ロウが、次はヴァイオリンを教えてくれ、と最後に言い、涼は内心焦りながらわかりました、と答えた。


 帰りは伊那が車のところまで送ってくれた。買ったばかりの白い4WDが待っていた。伊那が車について聞いた。

「素敵な車ね。なんていうの?」

「トゥアレグです」

「トゥアレグ?」

 伊那が首をかしげ、しばらく考えていた。

「どうかしましたか?」

 伊那が涼を見上げ、微笑んで言った。

「だって、涼さん自身がトゥアレグだもの」

「どういう意味ですか?」

「涼さんのふたつめのモロッコの前世ね。私はベドウィンと書いたけれど、ベドウィンのほうが世間的に有名な単語かな、と思ってその表現を選んだの。でも、あの部族の名前は、本当はトゥアレグ族よ」

「えっ・・・」

 涼は一瞬絶句し、そのあとで感心しながら言った。

「すごい、偶然ですね!」

「もちろん、偶然なんかじゃないわ」

 伊那は首をすくめ、それから歌うように言った。

「荒れ果てた荒野を力強い意志を持って縦横無尽にかけまわること、それがトゥアレグ族の誇りであり、この車の名付け親の願いなのよ。おそらく、この車の名付け親はトゥアレグに魂のルーツを持つ人なのでしょうね。

 時空を越えて魂の願いが呼応する、それが本当の引き寄せなの。

 この閉じられた世界の中で、お金や恋を呼び寄せることなんて、本当の引き寄せではないわ。涼さんの魂が、魂の呼び声が、この車を引き寄せたのよ」


 涼は茫然としながら、自分の真新しい愛車を見た。

 いくつか欲しいと思う車はあったが、この車にもっとも心惹かれた。好きな車を選んだだけだと思ったが、もっと深い意味があったのか。僕の魂が、この車を必要としていたんだ。

「涼さん、契約のことは関係なく、またいつでも来てね」

「わかりました」

 涼は伊那に別れを告げ、エリクサを後にした。愛車トゥアレグは、今までも大切な相棒だったが、もっと深く涼の心を捉えていた。

 僕の魂、僕の愛。ずっとずっと昔から僕のそばにいた、僕の大切なパートナー。

 涼はまるで大切な恋人に接するかのように、トゥアレグのハンドルをさばいていく。自分がもっともっと自由になった気がした。車は道路を走っているが、涼の心はまるで空を駆けているかのようだった。

 トゥアレグは、涼の体と心と魂をのせながら、涼が願い、思うままに応え、軽やかに東京までの帰路を走りぬけた。





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