【短編】クマとリョウ

天田れおぽん@初書籍発売中

第1話

 山の朝は、早くて遅い。


 人いきれからは遠く、命の騒めきは近い場所に、リョウはひとり立っていた。


 向かいの山が朝日に赤く染まりながら姿をゆっくりと現すのを眺めながら、彼女は深く息を吸い、そして思い切り吐いた。


 息は白くたなびき。

 

 ゆっくりと消えていく。


 葉からこぼれ落ちる露の音と、風が木々を揺らす音。


 腹をすかせた鳥の声が、騒めきを高めながら混ざり合う。



 静かだ。



 リョウは思った。


 他人の思惑が働かない場所は、天候の荒ぶる日であってすら穏やかだ。


 ましてや、静かな朝であれば、なおのこと。


 静か、と、しか言いようがない。



 彼女の真っ黒なショートヘアを、新鮮さと厳しさを秘めた風が揺らしながら駆けてゆく。



 寒くはない。



 女らしい曲線を覆い隠す黒いダウンジャケットは、風からも寒さからも守ってくれた。


 太陽は、山の隅々にまで光を届けるように昇ってくる。


 その山の隅々にまで濃い影を作るのも、また太陽だ。


 リョウは自然が持っている不器用さが、嫌いではなかった。


 砂利の敷き詰められた道を行けば、足元では軽くて重い音がする。


 女ひとりでも危なげなく過ごせる山には、人の手が十分に入っていた。


 元は獣道だったとしても、枝は払われ、むき出しの土は砂利の下。


 寒くなり始めの山に降りた霜は、スニーカーのゴムにやられて簡単に溶けた。


 この程度の寒さなら我慢できる。


 だが、じきに雪の季節が来る。



 その前に帰らないと。



 鼻の奥にツーンとした寒さを感じながらリョウは思った。

 

 ぬかるんだ道に、足元が砂利ごと軽く沈む。


 アスファルトで舗装されているわけではない道は、所々、むき出しの自然が顔を出す。


 だが、子供のころからお世話になっている道だ。


 時折、沈み込む足元の感覚もリョウは嫌いではなかった。


 歩みを進めながら、小さな頃からの思い出が、走馬灯のように頭をよぎっていく。


 賑やかに過ごした山の別荘。


 誰かしらが傍にいて、暖かさも、寒さも、分かち合った時代は過ぎ。


 今はひとり。


 状況は変わった。

 

 この先をどうするのか、考えなければいけない。


 リョウは思考を巡らせながら、自分だけのものになった山小屋を目指した。

 

 あまり選択肢はない。


 が、考えなければいけないし、やらなければいけない事もたくさんある。


 義務でしかない、心が湧きたたない作業の類は、なかなか進まないのが世の常だ。


 道から目を上げれば、向かいの山肌が視界に入る。


 デカ過ぎて不細工に見える鉄塔や、増えすぎた竹で荒れた林や、崩れたまま放置されている部分があったりするが、これもまた人間と共存する自然の姿だ。



 美しいままでは、いられない。


 いや。


 美の基準すら変化する。


 変化は緩やかでも、確実に訪れる。

 

 止まることのない時間の流れのなかで、ささやかに、あるいは大胆に、変化していく。


 様々なモノが。


 変わっていく。



 私は……どう変化していくのだろう?


 

 リョウは溜息を吐いた。


 変わらなければいけない自覚はある。


 だが。


 現状の自分はどうだろうか。



 しっかり自分の足で歩いているようでいて、フワフワと半分浮き上がっているような中途半端さを、リョウは感じていた。



 このままではいけない。


 それは分かっている。


 でも。


 今は自然の中で何も考えず、ただ生きていたい。



 許されるならば。



「リョウちゃん、おはよー」


 振り向けば。


 見覚えのある白い軽トラの窓から、見覚えのある顔がこちらを向いて手を振りながら笑いかけていた。



 許されなかったようだ。


 

 リョウは笑みを浮かべ、手を振りながら、


「おはようございます、上山のオジサン」


 と言いながら白い軽トラに近付いた。


 見知った顔は覚えているものよりもシワが増えて、白髪が減っていた。


 だがリョウにとって、上山のオジサンであることに変わりはない。


「いま卵を届けようと思ってさ。要るかい?」


 人懐っこい笑顔を浮かべた老人の提案に、


「ハイ、欲しいです。下さい」


 と、リョウは即答した。


「じゃ、コレ」


「ありがとうございます」


 差し出された白い卵が山盛りになったカゴを、リョウは有り難く受け取った。


「まだコッチに居るのかい? 若いお嬢さんが1人で山小屋じゃ、物騒だろう」


「もう若くもないですよぉ。三十超えましたし」


「はっはっはっ、三十代なんて子供だね。まだまだ若いお嬢さんだよ」


 ガハハと豪快に笑う上山のオジサンは幾つなのだろうか、と、疑問に思いつつ、リョウも豪快に笑って返事とした。


「あ、そういえば、昨日の男は大丈夫だった?」


「昨日の男?」


「リョウちゃん家を聞かれたんだよね、昨日。熊みたいにでっかくてヒゲもじゃの男に」


「ヒゲもじゃ……」


「幼馴染だって言うし、コトちゃんに住所を教えて貰ったって言ってたから。大丈夫だと思って。道を教えたんだけどさ、コンビニあたりで。大丈夫だった?」


「……大丈夫、じゃないっ」


「えっ、大丈夫じゃないの? 銃いる?」


「オジサン、物騒。そーゆー意味じゃなくて、家に辿り着いてないっ」


「おや、迷子か。それは困ったね」


「とぼけた奴だから、変なトコに迷い込んでると困るっ。大人だから大丈夫だと思うけど……あぁっ、探さないと。じゃ、オジサン。ありがとー」


 リョウは左手で卵を掲げると右手を上山のオジサンに向けて振って、来た道を急いで戻っていった。


 山道は分かりにくい。


 コンビニまで来ていたなら、山小屋までは一本道だ。


 でも他の道に、脇にある細い道へと入ってしまったなら。


 その道はどこに繋がっているか分かったものではないし、そもそも先があるかどうかも分からない。


 リョウはキョロキョロとあたりを見回しながら戻ったが、何の痕跡も見つけることができなかった。



 近くまで来ているといいけど。



 リョウは焦っていた。


 万が一にも見逃しがあっては困ると、じっくりと慎重に周囲を確認しながら山小屋を目指す。


 変な所に入り込んで迷子になっていたら困ったことになる。


 それに、こんな場所で遭難騒ぎになったら新聞沙汰だ。


 巻き込まれて赤っ恥をかくのは避けたい。


「もうっ、大人なのに心配かけてっ」 


 不満を口にしつつ山小屋の裏手に出たリョウが目にしたのは、こんもりと盛り上がった寝袋だった。


「いたっ!」


 コレだ。コレが、きっとそうだ。



 リョウは寝袋にそっと近付くと、足先でチョンチョンと突いた。


 寝袋に入ったソレは、フギャ、とも、フギュ、ともつかない変な声を上げてモソモソと起き上がる。


 眠そうに目元をこする生き物は、リョウの見知った顔をしていた。


「クマ。お前、こんなトコでナニしてる?」



 端の方とはいえ、砂利道の上に寝袋広げて寝るなんて。



 ナニしてるんだと呆れて聞く以外に選択肢はない。


 少なくともリョウにとってはそうだった。


「リョウ~居た~良かったぁ~」


 デカい体にくっついたヒゲもじゃの顔は、野太い男の声を使って無邪気な子供のようにフニャフニャと喋ると、またフニャフニャと寝ようとした。


「あ––––、ダメ––––、寝るなぁ––––––」


 慌ててリョウはデカい体を背中から受け止めると、殴る勢いでゆすり起こして家の中に運び入れた。



◇◇◇



「で、クマよ。なぜに幼馴染くんがココに?」


 部屋に通したヒゲもじゃ大男に向かって、リョウは問うた。


 クマこと熊田は、彼女の幼馴染だ。


 彼は室内をキョロキョロと見回している。


 初めて来たのだから無理もない。


 都会育ちにとって、山小屋とは存在そのものが物珍しいのだ。


「ん……、コトさんに聞いたから」


 コトさんとは、二歳年上の幼馴染である女性だ。


 リョウとは、学校も、会社も、同じなので付き合いが長い。


 女同士の気楽さで、休みのときにはリョウの父が所有する、この山小屋へも遊びに来たりしていた。


 なので、山上のおじさんも、コトさんのことは知っている。


 クマとコトさんも幼馴染だ。付き合いは長い。

 

 だが、男女となると気楽さには限度がある。

 

 だから、山上のおじさんは、クマのことは知らない。 



 –– だからって、いきなり来る? –– 



 その理由に、心当たりはある。


 が、だからって。


 いきなり来るのは、ルール違反にも程があるだろう。

 

 リョウは、溜息まじりに呟く。


「全く。コトさんはクマに甘いから」


「そこ、甘いとかは関係ないから」


「関係ある」


 すかさず突っ込むクマの言葉を、押しつぶすようにリョウは言った。


 コトさんがクマにしていることは、厳密に言えば意地悪なのだ。


 だが、コトさんがクマを気に入っているのも確かで。


 クマをからかって遊ぶのが、コトさんはことのほか好きなのだ。


 それは、リョウも知っていた。



 –– 今回もさぞや楽しんだことでしょう、コトさん –– 



 リョウは心の中で突っ込んだが、クマは全く気付く様子がなく無邪気にしゃべくった。


「だってさー、オジサンがあんなことになって。彼氏にもフラれて。仕事も辞めて、山に籠っていると聞けば、オレでなくても心配になるでしょ?」


「私を分かってないなぁ。生まれた時からお隣さんの幼馴染なのに」


 クマが心配するのも当たり前。


 と、頭では分かっていてはいても。


 素直にソレを認められないリョウなのであった。

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