春にさよなら
れなれな(水木レナ)
第1話
今、わたしは神社をぐるっととりまく、桜の木の下にいる。
ここ横浜の桜は三月の雨で一回散った後、すぐに満開を迎える。
袴の上にダウンジャケットを羽織った宮司さんがやってきた。
「桜は下手に傷つけると、そこからばい菌が入って腐ってしまいます。今後はやめてくださいね」
せっかく今日まで心のよりどころにしていたのに……。
「桜を腐らせないで印をつける方法ってないでしょうか」
「いえ、神社の木を傷つけられること自体が、困ったなさりようなんですが」
「でも! 私のお友達が、きっとここへ来て懐かしがると思うんです」
「困ります。いいかげん、やめてください」
そう言われて途方に暮れた。中でも細い若木を見つめる。
「あれ? 腐ってない」
「それはこちらで発見した当時、殺菌消毒して保護剤を塗ったくったんです。若木でしたから、一時は本当に危ぶまれたんですよ」
ほう!
「そんな方法が……」
「いや、ろくでもないことを考えるの、やめてくださいませんか」
桜の幹に傷を刻むのには、殺菌と保護剤が必要なのね。
「よし、わかった」
「お待ちなさい。その様子ではちっともわかっていないでしょう」
「ちゃんと道具をそろえてからまたきます!」
「ですからね!」
宮司さんには悪いけど、私にとってこれだけは外せないんだ。
当時から背丈のあったナツが数年前に残していった傷を、今の私ならゆうに超えている。
さあ、殺菌に必要な道具と保護剤を買いに行くぞー!
私は百二十センチくらいの高さに残した最初の傷を、昨年は百五十センチに更新した。それでも今のナツにはかなわない。だって遠目で見ても百七十センチくらいあった。
ええい、いっそありえないところに傷をつけてやろうか。
「百八十五センチ……とかだったら、驚くと思うんだよね」
ナツは、私がそんなことを考えてるなんて、思いもしないに違いない。
散った桜の上をてってってーっと駆けてって、社務所のところまで行く。
「宮司さん、必要な道具ってどこで買えますか? 教えてください」
「そんなこと、あなたに教えるわけがないでしょう」
断わられてしまった。
でもちょっとググったら、植栽のHPが見つかり、私はメールで質問した。
返事には、桜はデリケートなため、専門家に任せた方がいいとあった。
専門家の人が絶対嫌がるから、質問したんだけどな。
ナツが海外へ行く――ブラジル人の恋人についていくって、風の噂できいた。当分帰ってはこないだろう。
ブラジル人になっちゃうかもしれない。
ナツは身長あるから、その点ブラジル人でも違和感ない。
けど、私はそれは嫌だ。一生、私のもとへ戻らないってことだ。
ケータイアドレスだって変わってないのに、ずっと音信不通だったんだ。
ナツは私の番号を知ってるはずなのに、連絡してきたことは一度もない。
それだけ疎遠になってしまっているのに、わざわざこちらから出向いて何になるだろう。
けど、ここならば。
この地元の神社になら、ナツはきっとくる。
日本からブラジルへ立つことを、神様に報告するはずだ。
だから、当時から目立つところに植わっていたこの一番の若木に、目が行くはず。ま、ちょっと今はフェンスに囲まれちゃって傷はつけづらいけれども。
うん、きめた。
私は心が狭いから、飛行場までお見送りに行ったりはしない。
だけど、最後のメッセージとして、ここに残しておきたい。
――と、思って三日後。
神社にお花見にきている人が、がやがや集まっていた。
私は近づき、人々の頭の上にそれを見た。
宮司さんが、手に保護剤を持って、フェンス横にたてた脚立の上で、それはもう、怒っていた。
「あのー、どうしたんですか?」
宮司さんはキッとして桜の木を示した。
「やめてくださいと言ったのに!」
宮司さんの示したところに、真新しい傷が――わあ! ここにある道具はまだ未使用でー!
春の終わりに。
その傷は三百センチの高さに刻みつけられていた――
了
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