第4話 ボタンの掛け違い
午後十時三十三分
岡島が買ってきた小豆のアイスを舐めながら、捜査員用のマンションのあるブロックと隣のブロックをだらだらと岡島と歩いている。
「まだ硬い」
「これ、凶器になりますよね、絶対」
「仕事増やすのやめて」
葉梨には『加藤を風呂に入れろ、ただしヤるな。二十分で戻る』と伝えてマンションを出た。
暑いだろうからと小豆のアイスを持って出たが溶けない。歯型が付くだけのアイスを岡島と見せ合って二人で笑っている。
岡島が葉梨と加藤が付き合っていると知ったのは今年のバレンタインだった。
葉梨経由で渡された加藤からのバレンタインチョコには果し状のような手紙が入っていて、交際報告の文面は筆で書かれていたという。
警察学校時代に岡島は加藤を好きになり、卒業間近の時に告白をしたが膝カックンをした事を理由に断られている。くだらない失恋話だなとは思うが、同期として仲良くやっているから、岡島は葉梨との交際を応援している。
「お前、離婚して何年経った?」
「えっと……八年、かな?」
「再婚は? 女はいねえの?」
岡島は二十四歳の時にデキ婚したが、俺と同じで家にほとんど帰らない生活をしていたから嫁が子供を連れて実家に帰ってしまった。
子は十歳になった。別れた嫁は再婚していない。
だが月に一度、岡島の実家に二人は来るという。出来る限り岡島はその日の予定を空けるようにはしているが、無理な時もある。
「子供、いますから。それに向こうも再婚してないですし」
子供の気持ちを考えれば、父親が家庭を持って幸せになるのは憚られるのだろう。
岡島の別れた嫁は隣県の同業の娘だった。だからといって組織に理解があるとは言えない。娘と妻では立場が違う。
当時二十代前半だった彼女にとっては我慢ならなかっただろう。
初めての妊娠出産子育て、制約の多い官舎住まい、帰って来ない夫。無理だ。
「須藤さんは再婚しないんですか? 子供いないし、問題ないじゃないですか」
「俺は結婚に向かない」
今の官舎に越してきて三年が過ぎたが、荷解きしていないダンボールは積み重なったままだ。
服をクローゼットに入れただけで何も困らない。
部屋にテーブルと布団しか無いが何も困らない。
ただ、部屋に誰もいないという現実に耐えられなくなる時が増えてきた。
「あの、須藤さん、相談があるんですが」
「なに? カネなら無えよ?」
「違います、カネじゃないです」
何とか噛めるようになった小豆のアイスを齧りながら岡島の話を聞いていたが、想定外だった。
葉梨の妹から好意を寄せられています――。
「えっと、それで?」
「付き合ったら、絶対に結婚する事になります」
「……嫌なの?」
「俺、子供いるし……」
子供に対する責任、か。
俺は子供がいないから岡島が求める答えを出す事は出来ない。
「付き合ってさ、現実を見せてやればいいんじゃない?」
「えっ?」
「給料安い、養育費がある、月イチで別れた嫁と子供に実家で面会してる、家に帰って来ない。女にしてみりゃ最悪だろ?」
「あの……それがですね……」
葉梨の両親は全て織り込み済みで、その上で交際して欲しいと両親から言われたと。
――逃げ道塞がれてる。
「じゃあ付き合ったらいいんじゃない?」
「でもー」
「どうせデートはドタキャン、デートの途中で呼び出し、遠出出来ない、会えばヤるだけ、だいたいそれで着拒ブロックされるだろ?」
「……葉梨の妹、誰とも付き合った事が無いそうなんです」
――マジかよ。
二十八歳になる末娘の年齢を考えて葉梨の両親は見合いを勧めたが、葉梨の妹は岡島が好きだと両親へ伝えたという。
これまで交際どころか誰かに恋をした事すら無かった娘の想いを知り両親は喜んだ。
岡島の人柄を良く知っているから両親は賛成していると言う。
「あれか、手を付けた瞬間にアウトか」
「アウ……はい、そうです、アウトです」
「顔は? お前のタイプなの?」
「うーん……」
「ふふっ、葉梨そっくりとか?」
「いえ、似てません」
葉梨の妹は可愛い系だという。
岡島はお調子者だが真面目で優しい男だ。きっと葉梨の妹の事も大切にするだろう。
――羨ましいな。
親公認で結婚を前提にした付き合いが出来るなんて幸せじゃないか。
岡島のようにきちんと相手を思いやって行動出来る男は貴重だと思う。岡島の背中を押した方が良いのか。だが子供の存在が岡島を躊躇わせている。
――子供、か。
惚れた女がいつか俺の子供を産んでくれると思っていた。でも出来なかった。
子を望む嫁はそのうち排卵日前後にだけ帰って来れば良いと言い出して、俺を精子供給元とみなす女に俺は勃たなくなった。
もう私を解放して下さい――。
子が欲しい女は俺の元から去った。
俺の子を望んでいたのでは無かったから。
もっとやれる事はあったと思う。
でも、その時の俺には出来なかった。
「お前さ、葉梨の妹の事、嫌じゃないんだろ?」
「……はい。そうです」
「ふふっ、恋愛感情抜きで人として付き合えばいいんじゃない? ああ、あれだ。『お友達から』ってやつ」
「あー……」
「そういう存在って、絶対にお前の為にもなるからさ」
奈緒美さんと出会って間もない頃、『真っ暗な家に帰るのは嫌だ』と言った事がある。まだその頃は奈緒美さんに恋心は抱いてはいなかったから、奈緒美さんと結婚したい事をほのめかしたわけではない。そのままの意味だった。
奈緒美さんは、「私もですよ。家に帰ったらお風呂が沸いてて、お風呂上がりにビール飲んで、夕飯が出て来るって、いいですよね。お風呂掃除も料理も皿洗いも洗濯も掃除も何もしないであとは寝るだけ。そんな生活したいです」と言った。
俺は予想外のカウンターパンチにたじろいだ。それに働いている女性だって男と同じ事を考えると思い至らなかった事を恥じた。
でももし奈緒美さんがその時、しなを作り媚びるような事をしたら、言ったとしたら、俺は奈緒美さんを好きにならなかったと思う。
「松永にも相談した?」
「はい」
「何て言ってた?」
「えっと、『子供と私、どっちが大切なのよ、とか言ってくる女なら捨てろ』と」
「あー、なるほどね……あのさ……」
その女は子供が一番だと理解している。でも言いたい事は別にある。それを見誤ってはいけない。
「お前、それで離婚してるだろ?」
「えっ……」
「ふふっ、俺もだけどね。要はね、女は自分の存在を蔑ろにされてると感じてるから、そういう事を言うんだよ」
「あー……」
「子供も女も、仕事も女も、どっちも大事なのにな」
岡島は気づいた。きっと岡島なら大丈夫だろう。
――幸せになれよ。
俺はこの先ずっと一人で生きていくのだろう。でも、それはそれで構わないと思っている。
奈緒美さんは仕事と趣味で充実した生活を送り、心には亡くなったご主人がいる。
それでも好意を寄せている俺がそばにいても良いと思ってくれている。
こんな俺だけど、居場所が出来た。
相変わらず家には誰もいないけど、心に奈緒美さんがいてくれるなら一人でもいい。
◇
午後十時五十分
マンションに戻ると、洗面所のドアが開き葉梨が出てきた。
「おかえりなさい」
「おう……なんでビチャビチャなの?」
水色のワイシャツを着る葉梨の胸元から下が濡れていた。だが……
「加藤さん、風呂で倒れてしまいまして」
「えー。奈緒ちゃん大丈夫なの?」
「大丈夫です。今、歯磨きしてます」
俺たちはリビングに入ったが、葉梨は男性用仮眠室で着替えている。
本当は飯倉と一緒に戻るはずだった葉梨だが、飯倉を岡島に変えたのは加藤と一緒に風呂に入らせる為だった。
足元がふらつく加藤を一人で入らせるわけにはいかない。加藤は嫌がっていたが、俺たちが不在なら良いだろうと思って外に出た。だが葉梨は一緒に入っていないとほのめかした。
――ワイシャツのボタン、掛け違えてたけど。
「ふふっ、葉梨、気づきますかね?」
「どうだろうな、ふふっ」
俺と岡島の配慮を無下にしなかった合図なのか、単に恥ずかしかったからなのかは分からない。
加藤はリビングに顔を出したが、風呂に入ったからなのか、葉梨がいるからなのか、明るい表情をしていた。
――みんな幸せそうで何よりだ。
「そろそろ行くよ」
着替えた葉梨、加藤と岡島に見送られて、俺はマンションを出た。
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