序奏

第2話『希望を磁北の右に向け』

 六限目の終わりを知らせるチャイムが鳴った。今日の最後の授業である。

 数学の教師の西にし数記かずきは、ホームルーム委員のたいら与夏よかに挨拶を促した。

「ありがとうございましたー」

 少し気だるそうにだらんとした号令に、皆は釣られて輪郭のない言葉を発した。生ぬるいような残響が余るなか、西は詰まった業務と部活という名の残業に追われてそそくさと一年D組を後にする。

 既に入学式から一週間が経とうとしてはいるものの本人たちにしてみればまだまだ学校は始まったばかりである。そんな気まずい雰囲気が教室を支配するなか聞こえる音は微かで、無駄に重苦しさを感じさせた。しまわれる教科書と大きな方形の化学繊維のバッグが擦れる時の雑音、そして薄い繋がりの友達とひそひそと話す本当に小さな声くらいが、教室を満たすのだった。

 勿論、クラスに友達が一人もいない副島は誰とも話さずスマホのブルーライトを浴び続けていた。椅子に座ってユーチューブを開き、これでもかとあくびしてイヤフォンを耳に捩じ込んでから配信のアーカイブを再生し始めた時、

「真黒ちゃんを救う会へようこそ~。チリンチリ……」

 スマホのスピーカーから音が流れてしまった。ぎょっと驚いた副島は刹那雷が落ちたように震え、冷や汗をどばどばかきながらスマホ側面の音量を下げるボタンを強すぎる程に押し続けた。その間、副島は教室中の人間から見られているような恐怖を味わった。白い目を幻視していた。もっとも、どこの話し声も途切れていなかったのだが。

 そんなことに注意を向けていなかった副島は逃げるようにして机に伏せた。

「あだっ」

 でこをぶった。


 伏せたのはいいものの、寝てしまっては誰も起こしてくれないから目を開けていた副島には、帰りの会までのちょっとした時間がひどく長く感じられた。他の人にとっては寝てない自慢をし合うだけで過ぎ去るような時間。

「あ、副島が寝てる。誰か起こしてやってくれ」

 担任の声がしたのは副島にとってあまりに唐突なことだった。足音も無しに、教卓のところに立って後ろから二つ目の席に伏す副島を見つけていた。

 副島はさっきまでの無窮からのその急な展開にパニックを起こし、自分で目を醒ますタイミングを逃してしまった。だからといって誰かが肩を揺さぶってくれる訳でもなく、妙な無音の時間が流れた。

 その沈黙の雰囲気に副島は耐えられず、皆が見つめるなかゆっくりと顔を上げた。一応寝起きのように目を擦っておく。

 一年D組の担任である御堂地みどうち音氏ねしは教卓の上に置いてあったプリントに目を通しながら口を開く。

「えー、じゃあ連絡始めるぞー。おい、そこ、飯田いいだ。連絡中はスマホ触んなよ」

「ちゃんと生徒のことは名前で読んでくださいよー」

 御堂地は名簿に目を落とす。そこには「飯田 櫓尼啞」の文字。御堂地はしばらく目を細めて凝視する。

 しまった、ふりがなを付けることを忘れてしまっていた。……まあ、いいや。

「知らん。お前は飯田だ」

「ちぇーけちー」

「それじゃ連絡だ。今朝配ったこの健康診断のプリント、土日を挟むが忘れないように。それと昨日言った通り、今日から部活の見学が始まる。取り敢えずいろんな所に行ってこいよ」

 副島は長い溜め息をつく。今日も早く帰れると思ってゼルダの伝説をやる気満々だったのに、部活見学のために予定を壊されてしまったからだ。見学をせずに帰ってもよいとはいえ、流石の副島も初日から見学しないのは気が引けた。

 キーンコーンカーンコーン。

 チャイムが鳴った。

「んじゃまずは掃除行ってこーい」

「すいません先生、調理室ってどこですか?」

 既に御堂地はいなかった。

 副島はそのまま少し進んで壁に貼り付けられた校内地図を見る。見取り図のようなそれは、とてもわかりづらい。


「ここ……か?」

 副島はやっとの思いで調理室と書かれた扉の前にたどり着いた。しかしその決定的な証拠があるにも関わらず、副島が疑問形の独り言を呟いたのには訳がある。

 五人いる筈の掃除仲間が一人しかいなかったのだ。それに鍵も開いていない様子だった。副島が調理室を見つけるまでにある程度時間を要したのに、だ。

 取り敢えず副島は壁にリュックを任せてもたれる。

 もたれる。

 もたれ、もた……。

 気まずい!!!

 副島は強くそう思った。無駄に見通しのいい廊下に二人、手持ち無沙汰。話しかけられればなんてことないのだが、相手は女子、しかもホームルーム委員の人だ。これらの属性から考えるに、多分、陽キャ。

 それにしても、掃除仲間も来なければ担当の先生も来ないではないか。全く、どうなっているんだこの高校は。などと感情で遊んでみるも虚しく暇になり、一応扉も確認してみるが鍵が閉まっている。ちらとホームルーム委員の人を一瞥するも、彼女はスマホをフリックしていた。スマホを叩く時の音は軽くて小気味良く飽きないのだが、

 気まずい。

 何しろ、気まずい。

 副島は堪えかねてユーチューブを開いた。勿論、二回もイヤフォン接続になっていることを確認した。

 すると階段の上の方から降りてくる足音がした。

「あー、ちょうどよかった。三年B組ってどこか分かる?」

 上から喋りかけてきたのは飯田だった。副島が問いに答えようと記憶の地図を辿って四苦八苦していると、ホームルーム委員の人が平然と答えた。

「ここの廊下をグラウンド側へ行って、突き当たりを左にあるよ」

「ありがとー。えーと、名前なんだっけ」

たいら。平凡の"へい"で平」

「下の名前は?」

与夏よか。夏を与えるって書く」

「おっけー。てか、与夏たちはなんでここにおんの?」

 平は扉の方に一度視線を投げた。

「掃除場所の鍵が開いてなくて、人も四人来てないの」

「え、調理室は今日掃除無いって言ってたぞ」

 これには平と副島二人とも目を丸くする。

「誰が?」

「俺が言ってた」

 平は驚いて損したと言わんばかりに溜め息をついた。

「いやいや違うんだって! ちゃんとクラスラインで誰かが言ってたから!」

「え……」

 という情けない声を出したのは、副島だけでなく平も同じだった。

「クラスライン入ってない」

「うぉまじか。じゃあここで交換しといて、後で追加しとくわ」

「ありがと」

 そう言って飯田は階段を登っていった。

 平もいなくなっていた。

 きっと、副島が階段の空間を見つめていた間にどこかへ行ったのだろう。副島はそう思った。視界の隅で見えてしまった平のスマホには、大代真黒と同じVチューバー事務所所属の山白音玄の姿が映っていた。

「あの人、あさぎり高校好きなのか。平、与夏……」

 忘れないように名前を反芻した後、副島はラインを開いた。「櫓尼啞」。なんて読むかは分からないけど、高校で初めてのライン交換だった。

 そういえば三年B組でやってる部活ってなんなんだろう。

 そう思って副島は部活動一覧表を開く。一度揺らしてピンと張り、目でしらみ潰しに見ていく。……っと、副島の目が止まった。

 えーと、「囲碁サッカー部」、顧問「銀七ぎんなな先生」。あ、思い出したぞ。確か出場校数一校にも関わらず万年二位をとっているあの囲碁サッカー部だ!

 一応二位ではあるから集会で表彰されて恥ずかしい思いをするあの囲碁サッカー部だ!

 そんな副島の目に飛び込んできたのは、「文芸同好会」の文字だった。


 しかし副島は部活動紹介の紙を見ながら半径一メートルの円周をぐるぐる歩くだけで、一向に移動しようとはしなかった。文芸同好会はどうも木曜日のみの活動らしく、金曜日の今日では見学することは叶わないのだった。だからこうしてどの部活に行こうか思案していたのだった。

「え、まだいる」

「わ」

 平がいた。副島が振り向いた目と鼻の先。「いつから見てたの」と聞きたかったが、返答によっては外を出歩けなくなってしまうのでやめた。悶々とする副島に習うように平は至極難しそうな顔をしていた。

「文芸同好会ってどこでやってるか分かる?」

「今日やってないよ」

「はえっ!?」

 平は目をこれでもかとかっっっぴらく。よほど驚いたらしい。平は斜め上の天井を見上げ、斜め下を睨むのを何回か繰り返してから、見つめる訳にもいかず平の奥の方に視線を向けていた副島を凝視する。

「えーと……」

副島そえじま悠衣ゆい

「悠衣はどこ行くん? 暇だし、ついてく」

「文芸同好会に行く予定」

「え」

「でも無いからどうしようってな感じで、ここにいたわけ」

 今度は二人で上の隅見つめて下向いて考えた。

 よく考えてみれば二人ともなんの部活があったかよく覚えていなかったので、結局二人で部活が載った紙を覗き込んだ。

「あっ、これは?」

「取り敢えず行ってみるか」

 そこかしこで掃除が終わって人通りが増えてきた。その人の川を掻き分けて進む平のつむじを目から離さないようにして副島もついていく。中に入ると蒸し暑くてたまらない。

 人の川の頭上を、途方もなく小さく軽い御堂地は下っていた。流れに身を任せて職員室へ。

 それにしても何処からこんなにも人が湧いてこれるのか。と副島は思う。

「ケツがぎゅうぎゅうだよ……」

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