第4話 二人だけの音楽室

 学校に天音くんが転入して来て、私の周囲が一気に賑やかになってしまってから、もう一週間が経っていた。

 天音くんは相変わらずクラス中の―—…と言うより学校中の話題の的で、毎日ラブレターを貰ったり、告白されたりで忙しそうだ。

 私は…と言うと、彼を囲む人の群れに自分から飛び込んでいく勇気はなく、遠巻きに眺めることしか出来なかった。

 …けど、私が気を抜いて油断している時に限って、彼はいつの間にか近づいてきていて、不意に頭をぽんっと叩いて去って行ったり、先生に頼まれて運んでいたノートを半分持ってくれたりと神出鬼没だった。

 その度に私は、驚かされたり照れさせられたりとドキドキさせられるので、段々と少しばかりの悔しさまで感じ始めていた。

 彼が私に思い出せって言ってたことは、まだ全然思い出せないんだけど…。

 私は彼に一体いつ会っていたんだろう…?…私と彼の間に何があったんだろ…?なんて、つい授業中にまでぼーっと考えてしまって、私はやらかしてしまった。


「今日の授業はここまで。指定のページまで終わらなかった者は、今日中に終わらせてから帰るように」


 授業中にぼんやりしていたせいで、放課後居残りをしなければいけなくなってしまった。

 いつもより帰宅が遅くなってしまうから、お母さんにあれこれ事情を聞かれてしまうのも憂鬱だ。

 クラスメイト達は皆真面目に課題を終わらせていたようで、教室には私が一人だけ…。

 窓の外からは運動部の掛け声なんかが聞こえてくるが、校内に残っている人はまばらなのだろう。なんとなく一人ぼっちになってしまったようで寂しくなる。


 何とか課題を終わらせ、先生にノートを提出した後、私は音楽室の前を通りかかった。ドアがちゃんとしまっていなかったのか、その隙間から、ピアノの旋律が聞こえてきた。


「……この曲……」


 演奏の邪魔をしないように…と、私はドアを音が立たないようにゆっくり開けて、中を覗き込んだ。

 開いた窓から吹き込むそよ風が、そよそよと白いカーテンを揺らしているのが見える。

 そして、その手前にあるグランドピアノを弾いているのは…、天音くんだ。

ピアノの発表会の時に見たのと同じ、とても真剣な表情。

 あの時はただ、その演奏に圧倒されて、胸にこみあげてくる切なさや懐かしさに戸惑うことしか出来なかったのだけど…。今は……。


「……あれ…花音?」


 曲が終わり音楽室が静けさに包まれてから多分数分くらい。曲に聞き入ってしまい、その余韻に浸っていた私を現実に引き戻したのは、天音くんの声だった。


「あ…」

「堂々と入ってきたら良かったのに」


 きっと私が「見つかっちゃった…!」みたいな顔をしていたんだろう。天音くんの声は、まるで悪戯がバレた小さな子供を安心させようとするみたいな優しい声色だった。


「だって、邪魔しちゃ悪いと思って…」

「そっか。…どうだった?」


 おいでおいでと手招きをして私を呼びながら、軽く首を傾ける。


「どうって?」


 私は聞き返してしまう。


「感想。俺が弾いてるの、聞いてたんだろ?」

「…う、うん」

「この間の演奏の感想も、まだ聞いてなかったからさ」


 天才ピアニストなんて言われるような凄い人でも、他人からの感想なんて聞きたいものなのかな?なんて思ったりもしたけど、彼が心から興味津々と言った感じの眼差しを向けてくるものだから、私は正直に感想を伝えることにした。


「…不思議なんだけど…、なんだか…すごく懐かしい気持ちになったんだ」


 天音くんは一瞬目を見開いてちょっとだけ驚いたような表情をした。


「あとは……えっと…。私も、なんだかピアノ弾きたくなっちゃうなぁ…なんて…」

ぽろっと自分の口から零れ落ちた言葉に、今度は私の方がびっくりしてしまった。

 それは本当に無意識だった。だって私は、ピアノをもう辞めたいと思っていたくらいなのだ。


 自分からピアノが弾きたい…なんて。

 もうずっとずっと思ったこともなかった感情だったのに―――…。


「……なんでかな?…真似なんかしたって、私じゃ天音くんみたいにうまくなんて絶対弾けないんだけどね…!」


 つい、正直に話してしまぅったのだけど、私みたいなへたくそにこんなこと言われたら、天音くんは不愉快に思うかもしれない…。凄く失礼なことを言ってしまったかも知れない…と、私はとても心配になってしまった。

 恐る恐る視線を上げた私の目に映ったのは、怒っている彼でもなく、悪戯っぽく笑う彼でもなく……。

 …………想像もしていなかった。

何故かとても切なそうに眼を細め、私を愛おしそうに見て微笑む彼の姿だった。


「………」

「………」


 夕暮れ時のオレンジの空。窓辺で風に揺らされる真っ白なカーテン。

会話が途切れた音楽室には、カーテンが風に揺れる音だけがしていた。

夕日に照らされる天音くんは、まるで絵画に描かれたワンシーンみたいに見えた。


「…弾いてよ、花音」

「え?」

「俺さ、花音の演奏、好きなんだ」

「……ちょいちょい音が飛んだり跳ねたりしちゃうのに?」


(演奏が…と言うのはわかっているけど)好きだなんて言われて、ちょっと動揺して、それ以上に照れ臭くなってしまって、つい憎まれ口をたたいてしまった。

それを聞いて、天音くんは妙にバツが悪そうに苦笑をしていた。


「花音のピアノはさ…別に、楽譜通りなんかじゃなくてもいいんだよ」

「?」


 天音くんのその言葉の意味はよくわからなかったけれど、

私は結局その後、天音くんがそれまで座って居たピアノの椅子に座らされて、ピアノを弾くことになってしまった。


 自分でも言った通り、私はやっぱりちょいちょいとミスをしてしまって、音は飛んだり跳ねたりあっちいったりこっちいったり…。

 レッスンの先生にも落ち着きがない演奏だってよく怒られてしまうのに、今、私の隣で演奏を聞いている天音くんは、ただただ楽しそうに…懐かしそうに私の演奏を聴いている。

 全然上手じゃないのに。むしろへたくそなのに。

 どうしてこんなに嬉しそうに聞いてくれるんだろう?

不思議で仕方なかったけど、私はその時間が終わってしまうのがなんだか勿体ない気がして、

半ばムキになったみたいに鍵盤を叩き続けていた。



 ―——そして、もう鍵を閉めるから出ていけと、鍵当番の先生に叱られて追い出されるまで、二人きりの演奏会は続いたのだった。






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