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「やれやれ、お前は本当に半人前だねえ」
アイーダは声のした方を振り返った。朱色の花の汁を溶かして塗ったような唇が、悔しそうに結ばれている。
「それはいくらしたと思ってんだい?」
空色や紅色の糸で縁取りされた、身の丈を覆う深い森の色をしたスカートの足元には、ひとめで高価なものと知れる白石の壷が粉々になって散らばっていた。
「ちょっと手元が狂ったのよ」
アイーダはすばやく言い返すと、床に膝をついて、ひとつひとつ拾いはじめた。
「この壷ってすべるのね。奥の棚に運ぼうと思ったのに。あったまきちゃう」
「嘘をつくんじゃないよ」
コンドリーサは樫の木を切って組み立てたテーブルに肘をつき、五色の指輪で細長い指が全部埋まっている両手を絡ませ、その上に優雅な線をえがいている顎をのせた。
「お前はまだひよっこのくせに、今魔力を使おうとしただろう。村一番の魔女の前で、しょうもないことするんじゃないよ」
アイーダは顔をあげて母親を睨んだ。しかしいつもならば魔法のように言葉があふれ出る唇は、封印された扉のようにひらかない。どうやら図星のようで、口答えができないらしい。
「お前の目はもう暗闇の女王の衣が見えているのかい? お前の耳には夢魔の貴婦人たちをのせた馬車の車輪の音が聞こえているのかい? よおく、窓の外をごらんよ。木漏れ日のご婦人方は、まだ語らっているんだよ」
格子窓から入ってくる光は、コンドリーサの家の居間を明るくしている。
「わかっているわよ」
アイーダは後ろの石棚にあった布袋の口を広げて、壷のかけらを入れていった。その腕の動かし方は、まるでゴミでも拾っているかのように荒っぽい。
「まだ、黄昏の乙女たちも目を覚まさない頃だわ。でも西風の将軍が、愛馬の蹄をとどろかせて空を駆けて行ったのよ。おかげで雲ひとつなくなったわ」
「だから何だい」
アイーダは肩をすくめた。やはり母親には適いそうもない。
「半人前が月の魔力をひきだそうとしたってわけかい」
コンドリーサは容赦がなかった。
「お前は、まだ
「そりゃそうだけど」
アイーダは「力」で動かそうとして失敗した壷の残骸に、目を落とした。もっと安物にすればよかったと唇を噛む。
「いくら空が掃除されて、月の邪魔者が失せたからといって、夜にもなっていないのに、ひよっこが使えるわけないだろう。いい加減におし!」
ぴしゃりと言うと、アイーダは憤然と立ち上がった。
「だって、かあさまは何とも思っていないの!」
「何をだい」
「閉ざされし地のことよ!」
アイーダは散らばったかけらに背を向けて母親に詰め寄る。
「ちょいと、その壷は高かったって言ってるだろう」
「ちゃんと拾うわよ! それより、かあさまはあたしをひよっこだって言ってるけど、そのひよっこだって感じているのよ! あの呪われた大地が血と肉をもったことを!」
「そんな大声で言うんじゃない」
コンドリーサは静かにたしなめた。
「だって、村の言い伝えがあるじゃない! 闇の翼が舞いおりたとき、その大地は魂の形を変え、恐るべき息吹をあげる。それは、すなわちブラッディー……!」
アイーダは突然両手で唇を押さえた。そのまま身体が弓形に反り返る。まるで背後から強く引っ張られているかのように、背中を大きく曲げたまま、ぴくりとも動かない。スカートの縁から覗かせる靴は、小刻みに震え、叫びとも悲鳴ともつかない苦しげな声が、手と手のすき間から洩れる。
「その名を口にしちゃいけないってことは、この世に生まれた赤ん坊がまっさきに覚えることだよ。お前はひよっこにもなっちゃいないねえ」
まもなくパチンと指を鳴らす音がして、アイーダは床に勢いよく落ちた。したたかにお尻を打ちつけ、痛っと呻きながら、荒い息を整える。しかしすぐに母親へ抗議の視線を向け、さあ何て文句を言おうかと緋色の瞳が勢いづいたが、それを制するように、コンドリーサが口をひらいた。
「いつからだい」
「……何が?」
「お前がそれを感じるようになったのは、いつごろからだい」
アイーダは床に座り込んだまま、母親を不思議そうに眺めた。
「……それって、閉ざされし地のこと?」
「そうさ」
アイーダは少々俯き加減になって考えた。
「確か……数日前ぐらいだったと思うけど」
「どんな感じなんだい」
アイーダは怪訝そうに顔をしかめた。かあさまは知らないって言うの?
「どうって……そのとおりだわ。影も形もないけれど、どういうわけかわかるのよ。あの呪われた大地のはっきりとした息遣いが。心臓が動いている。血がかよっている。いまにも目をあけて動き出そうとしている。まるであたしが閉ざされし地の住人になってしまったかのように、膚で感じられるのよ。あたしは輝かしき神が讃歌を歌った、月の魔女たちの村に住んでいるのに」
からだがぶるっと震えた。その大地の吐く息が、自分の頬に触れたような感覚を思い出した。
コンドリーサはわかったように頷くと、自分の前に座るよう手招きをした。
「お前はそれが怖ろしくなって、まだ月が満ちていないのに、なんとか魔力を使おうと頑張っていたんだね」
アイーダはお尻を押さえながら立ちあがり、母親の目の前に座った。胡桃の木で作られた椅子は、丸い形で、腰を下ろす部分と背もたれに厚地の布地を張っている。父親が作ったというが、アイーダは一度も会ったことがない。魔女の夫は、娘が生まれたならば、村を出て行かなければならないからだ。それが村に呪いをかけた妖精王との約定だった。
「わかっていると思うがね、あと三日の夜を過ごせば、お前は月が満ちる」
アイーダは神妙に頷いた。この村では十八歳になることを、そう言うのだ。
「そのときに行われる儀式をおえたら、お前も月の魔女だよ」
コンドリーサは少しだけ目を伏せた。
「よくお聞きよ、アイーダ」
母親の言葉に、アイーダは背筋を伸ばした。お前、ではなく、アイーダ、と呼ぶのは、必ず何か重大なことを喋るときの母親の癖なのである。
「お前は、閉ざされし地の息吹を感じると言ったねえ。血と肉をもったとも言ったねえ。この村でそれを感じているのは、おそらくお前ひとりだけだろう。この私も含めてね」
アイーダは始め冗談かと思ったが、相手はにこりともしないので、顔つきを変えた。
「だって、かあさま……」
「いいから、よくお聞き、アイーダ」
コンドリーサの声の響きが、母親のものから、村一番の魔力をもつ月の魔女のものへと色合いを変えてゆく。
「私の予言の力はそう強くはないけれど、おそらく新月の儀式で、見届け人はこう言うだろう。赤い月の魔女コンドリーサの娘アイーダは、たったひとつの扉しか持たぬ者だと」
「……なに、それ」
「儀式の時に、言われるのさ。アウレリアから、運命の扉をいくつ持っているかってねえ。その扉は、自分の明日、未来、行くべき道を示しているのさ。あたしたちはみな、多くの扉をかかえている。アウレリアはそれが見える魔女なんだよ。どの扉を選ぶかによって、運命は決まり、変わるのさ」
囁くような声が、アイーダの耳を震わせる。それは不思議なことに、ひとつひとつの言葉がまるで己の意思を持っているかのように、アイーダの心に沁みていき、その水面を深く染めてゆく。
アイーダは瞬きをした。目の前に座る母親の背後に、頑丈そうな鉄の大扉が見えたような気がした。
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