二章 子捨ての川

 地獄からの帰還。

 アンドレアにとってこの三年間はまさに、そう呼ぶにふさわしいものだった。

 深夜。

 明りひとつないアパートの一室。

 そのなかに響き渡る悪魔の歌。

 アンドレアはベッドの上で頭からシーツを被り、耳をふさぎ、なんとかその歌を聞くまいとしていた。しかし――。

 「くそっ……!」

 途切れることなく響きつづける悪魔の歌にとうとう根負けした。騎士学校あがりらしい荒々しい罵声をあげてシーツをはね除ける。鬼の形相で立ちあがる。明りをつけ、ズカズカと音を立てて悪魔の歌を奏でる張本人のもとへと向かう。

 ベビーベットの柵にガッ!、と、荒々しく手をかけて、かなをのぞき込む。そこにいたのは黒い産着にくるまれた赤ん坊。

 アート・アレクサンデル・アンドレアス。

 そう名付けられたアンドレアの息子。

 アンドレア、そして――。

 レオンハルト国王レオナルドの息子。

 この赤ん坊こそが悪魔の歌を奏でているのであり、悪魔の歌とは赤ん坊特有の甲高く、時間も、場所も、一切わきまえることのない理由不明のギャン泣きのことだった。

 「いい加減にしろっ! いま、何時だと思ってるんだ!」

 アンドレアは赤ん坊に向けて怒鳴った。

 赤ん坊相手にそんなことを叫んでみたところでなんにもならない。

 一〇歳にもならない子供でもわかること。しかし、いまのアンドレアにはそんなことすらわからない。わかるだけの余裕がない。ベビーベッドの柵をガクガクと揺さぶりながら叫ぶ。

 「おっぱいもやった、おしめもかえた、抱っこもした! なのに、なんで泣く⁉ なにが気に入らないんだ、言ってみろ!」

 そんな言葉が赤ん坊に通じるなら苦労はない。

 赤ん坊は母の怒声にますます刺激されたのか、ますます大きく、激しく泣き出した。

 「くそっ……! 赤ん坊がこんなにやっかいなものだったなんて……」

 これなら、いつでもぶった切れる分、魔物の方がずっとましだ!

 アンドレアはその場をはなれた。気分を落ち着かせるように部屋のなかをウロウロした。頭をかきむしった。気を落ち着かせようと思ってもちっとも落ち着かない。むしろ、苛々は募るばかり。

 「早く寝ろ! 寝てくれったら! わたしは仕事があるんだ、ゆっくり寝たいんだ!」

 泣きつづける息子に怒鳴りつける。

 こんなやり取りが毎晩のことになっていた。

 アートは泣く。

 とにかく泣く。

 時間もなにもわきまえない。真夜中になるほど激しく泣く。

 その泣き声のせいでまともに眠れない。ずっと寝不足がつづいている。

 なんで泣くのか。必要な世話は全部、しているはずなのに。

 理由がわからない。

 意味がわからない。

 そのことがさらに苛々を募らせる。

 これで、朝になると隣の部屋の住人が『毎晩、うるさい』と文句を言ってくる。アンドレアも文句を言われておとなしくあやまるような性格ではない。

 言い返す。

 寝不足と苛々で気分がすさんでいるので、口調もそれだけ荒いものになる。

 「うるさいっ! 赤の他人がとやかく言うな!」

 喧嘩を売っている。

 そう言うしかない態度。当然、相手も不快になる。言い合いがそのまま殴り合いに突入する。もちろん、騎士としてみっちり修行を積み『レオンハルトで五本の指に入る』とまで言われる戦士となったアンドレアである。民間人など敵ではない。

 ぶん殴る。

 ぶちのめす。

 勢い余ってやり過ぎてしまい、怪我をさせる。

 そうして、そのアパートにいられなくなって他のアパートに移る……。

 もう何ヶ月もの間、そんなことを繰り返していた。気分はすさむばかりである。

 ――他人を助けるのが騎士。助けられるなど騎士の恥。

 かたくなにそう思っているアンドレアである。どんなにつらくても『他人に助けを求める』という発想そのものがない。なにかの拍子にそんな考えが浮かんでも、すぐに頭を激しく振って追い出してしまう。

 「わたしは騎士だ! 人を助ける騎士の身でありながら、他人に助けを求めるなどできるか!」

 もし、素直に他人に助けを求めることが出来る性格ならば事態もずっと改善していたのだろうが。

 妊娠中でも出来る家庭教師の職を見つけてくるなど、陰から助けてくれていたスタックたちがアーデルハイドの依頼によって鬼界きかいとうおもむき、不在だったのも大きかった。スタックがこの町にいてくれれば陰から助け、負担を減らしてくれたのだろうけど。

 他人に頼れない性格とスタックの不在。

 そのふたつによってアンドレアはすべてをひとりで背負い込むことになった。

 冒険者として仕事をこなそうにもその間、赤ん坊を預けておく相手すらいない。と言って、赤ん坊をひとりで部屋に置いていくわけにもいかない。結局、赤ん坊を背負って仕事に出なければならない。

 となれば、出来る仕事も限られてくる。剣を振るっての魔物退治などもっての外。いくらアンドレアが『自分なら出来る!』と主張したところで、ギルドの方がそんな仕事は斡旋あっせんしない。

 出来る仕事と言えば皿洗いとかそんな雑用ばかり。いくらにもなりはしない。満足に食べられない。寝不足に空腹が重なり、苛々はさらに強くなる。その間にもアートの夜泣きはますます激しく、ひどいものになっていく。

 離乳食を与える頃になるとさらにやっかいなことになった。

 軟らかく煮た離乳食をスプーンに盛って食べさせるわけだが、まともに食べてくれないスプーンを差し出しても嫌がる。口のなかに入れようとしてもすぐにこぼす。なんとか口のなかに入れてもすぐに吐き出して、あたりを汚す。苛々が募り、頭をかきむしる。

 「もう勝手にしろ!」

 そう叫んでスプーンを床にたたきつけ、その場をはなれる。

 しばらく、あたりをウロウロしてから溜め息をつき、床にたたきつけたスプーンを洗い、再び『食事』という名の戦いにおもむく……。

 その繰り返し。

 離乳食は二時間ごとに与える。

 医師からは、そう教えられた。しかし、食べさせ終える頃には二時間などとうに過ぎている。一日中、食べさせていなくてはならない。他のことなどなにもできない。夜はよるで夜泣きに悩まされる。鳴り響く悪魔の歌にまともに眠ることも出来ない。

 神経にやすりをかけられるような日々。ろくに眠れず、食えもせず、負担だけか増えていく。ある日、アンドレアは偶然、ガラス戸に写った自分の顔を見た。そこにいたのは二〇代の若き女騎士……などではなかった。くすんだ顔色とカサカサの肌。髪はボサボサで表情は疲れきっている。

 そこにいたのはもう五〇にもなろうかという、人生に疲れはてた中年女だった。

 その姿に――。

 アンドレアは恐怖した。

 「ちがう!」

 力任せにガラス戸をたたき割っていた。

 「ちがう、ちがう、ちがう! こんなのはわたしじゃない! わたしは騎士だ、人々を救うために魔物と戦う颯爽さっそうたる騎士なんだ! こんなくすんだ中年女なんかじゃない!」

 どうして、こうなったのか。

 レオンハルトでも五本の指に入ると言われた自分。その自分がどうして、こんな惨めな生活をしていなければならないのか。

 その理由はわかっていた。

 わかりきっていた。

 アンドレアは憎悪の目でいまも泣きつづける肉塊を見た。生後一年にも満たない赤ん坊の息子を。

 「……お前だ」

 アンドレアはうなされたように呟いた。

 「お前だ、お前だ、お前だ! お前がいるからこんなことになった! お前さえいなければ、わたしは颯爽さっそうたる騎士でいられるんだ!」

 アンドレアは息子の小さな体をつかんだ。そのまま外に出た。ある場所へと向かった。ごうごうと音を立てて水の流れる川のほとりへと。

 「あははっ! そうとも! お前なんていなくなればいい! お前さえ……お前さえいなければ、わたしは騎士に戻れる。戻れるんだ!」

 アンドレアは赤ん坊の息子を頭上高くかかげた。思いきり、川に投げ込んだ……と、そう思った瞬間、その腕にそっとなにかがふれた。

 アンドレアは振り返った。そこにいたのはふくよかで優しげなひとりの中年女性。『おかみさん』と呼ぶにふさわしいたくましい腕が、そっとアンドレアの腕をとめていた。

 「つらかったねえ」

 同情する風でもなく、その女性はそう言った。その言葉を聞いたとき――。

 アンドレアは女性の胸に顔を埋めて泣いていた。

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