第23話 あらそいは始まって⑦

『そう、危うい。彼に内包されているのは負の力そのもの。負の力に犯されるとどうなるかは教えたね?』

「……え、ええ。『ヒト』は理性を保てなくなるって……」

『そう。千葬勇者もまた『ヒト』だ。彼の呪いは千年を生きるだけではなかろうね。きっと彼は『干渉』してしまうし、呑まれてしまえば理性を保てなくなってしまうだろう。それが理由で龍族の意見が割れたとも言えるね』

「……え……え? ……待ってアウル、『干渉』って……どういうことなの? アルトスフェンはどうなるの?」

 メルトリアの背中を冷たいものが伝う。

 アウルはゆっくりと金の瞳を瞬いて……ぶしゅう、と息を吐いた。

『彼の呪い……つまり負の力が強まれば……ふむ、これが一番わかりやすいだろうね。彼自身が世界に『干渉』して魔物を生んでしまう・・・・・・・・・のだ。とても優しい勇者のことだから、その行いに自身もまた傷付き恐れ……呑まれてしまうかもしれない』

 メルトリアは翡翠色の双眸を見開き……息を呑む。

 アルトスフェンが魔物を生み出し、呑まれてしまう……つまり彼が『新たな魔王』になってしまう……と。アウルはそう言っているのだ。

 足が竦むような感覚に、彼女は足の裏に意識を集中して踏ん張った。

「そんな……彼が魔王に? そんな悲しいこと……絶対に駄目。彼はただ、皆のために勇者になっただけなのに。私みたいに悪いことをしたわけじゃない、なにも背負わなくていいのに……」

 その言葉に老いた白い龍はバフバフと笑い、メルトリアの頬に優しく、そっと鼻先を付けた。

『メルトリア。お前だって背負わなくていいのだよ。もう十分な酬いを受けたのだから。お前は私の大切な子であり、我ら龍族が愛しむべき世界の一部だ。千葬勇者のこともどうにかしなくてはならないよ、負の力を強められては困るからね。それにはお前の協力が必要になるのではないかな……彼を助けたいのだろう?』

「アウル……」

『千葬勇者とて我らの瞬きのあいだに呑まれてしまうことはないはずだ。どうにかする方法はある。……簡単な道程ではないのだけれどね。だけどまずは目の前の問題を片付けてしまわないと』

「――方法があるのね? わかったわアウル。人族の侵攻を止めることが先。きっとアルトスフェンならどんな道程でも大丈夫だもの。きっと……!」

 メルトリアが腕を上げてアウルの鼻先を撫でたとき、矢のように飛来した影が彼らの横でくるりと回った。

 メルトリアより二回りほど――翼を入れればさらに大きいが、アウルと比べて遥に小さい黒い龍族だ。

 長い首と尾を持ち大きな翼で羽ばたくその姿に、メルトリアは顔を上げる。

「……ミシャ? どうかしたの?」

『長老、メルトリア。どうやら人族が動き出したようだよ! 皇都からこっちに向かっているね。どうする? 迎え撃つ?』

「! もう動いたのね――想定よりずっと早いわ。……それならアウル、話しておくことがあるの。相手には星詠みがいるみたいで警告されたわ。『龍の力を伴うヒトよ、命が惜しくば関わるな』って。私の存在は敵に伝わっているわ、血のことまでは……どうだかわからないけれど」

 それを聞いたアウルは大きな頭をもたげ、空のない天井を振り仰ぐ。

『ふむ。攻めてくるのだから理由があるのだろうね。血を狙っていると考えるのが一番有り得そうなものだけれど、さて真意はわからない。……かといって黙ってやられてやるわけにもいかない。千葬勇者に止めてもらえればと思ったけれど――結界が破られる前に説得に出よう』

 その言葉にメルトリアが慌てたように首を振る。

「説得って……アウルが行くつもり? 駄目よそんなの!」

『そうもいかない。私は長老だからね。……それに、龍族すべてが他種族に優しいわけではないのだよ。人族など喰らってしまえと考える者もいる。ここに住まう我らは穏便なほうだけれど……万が一彼らが動き出したら大変だ。面倒ごとにはしたくないのが本音だね』

「なら私が行くわ! 皇都から向かってくるのであれば〈ヴァンターク皇国〉の者も多いはず。私の容姿なら……少なからず反応してもらえるから」

 メルトリアは胸に手を当ててそう言うと……ミシャと呼んだ黒龍に手招きをした。

「ミシャ、悪いけど私を運んでくれる? 少しでもここから離れた場所で『人族』と接触したいの」

『おいらは構わないけど……長老、いいのかい?』

 ミシャが空中でくるりと回る。

 アウルは唸るような轟を響かせたあとで頭を下ろし、諦めたように目を閉じた。

『私の子は頑固で言い出すと聞かないからね。……メルトリア、無理はいけないよ。危険を察知したらすぐに引き返すこと。でないと勇者のこともどうにもできないのだから』

「……わかったわアウル。アルトスフェンのこともあるし無理はしないと約束する。……ありがとうミシャ。行きましょう」

 アルトスフェンの力を借りることができないいま、メルトリアの選択肢は多くない。

 置いてきてしまった身で彼を按じるのは筋違いかもしれないが、それでもなんとかしたいと思った。

 亜麻色の髪を靡かせて、彼女はミシャという黒龍の背に跨がる。

 ――まずは人族と龍族が争うのを阻止しなければならないわ。

 そう思う彼女の胸のなかでは、焦りと不安が入り混じって渦を巻く。

 それでも行かなければならないのだ、と。

 己に言い聞かせ、メルトリアはミシャの背に体をぴったりと寄せた。


******


「……ふうー、ようやく外の空気が吸えるな……」

 坑道から出ることに成功した俺は先に出ていたフォルクスを探した。

 途中、一度外に出て鉱夫の村だったという場所でひと晩休んでから、既に一週間が過ぎている。

 暗闇に慣れてしまった目に差し込む日の光が痛いくらいで、俺は何度も瞼を瞬いた。

 鬱蒼と茂る森を想像していたけれど、ここは拓けた岩場というのが近いな。

 フォルクスは少し先で背中を向けていて、俺が歩み寄ると伸びをする。

「このあたりが龍族の伝説によく出てくンだ。ちょいと行けば川があるから谷の底まで降りて水を汲みてぇところだな」

「谷……か」

 ……メルトリアが落とされたという谷だろうか。

 俺は頷いて……もとは道だったのであろう場所へと踏み出す。

 草木が好き放題に生えて足下を覆ってはいるが、暖かい季節ほど派手に茂っているわけでもないのはありがたい。

 するとフォルクスが足を止めて意を決したように俺を呼んだ。

「――なあ勇者サマ」

「おう?」

「姫さんは……龍の血を呑んだのか?」

「…………えっ?」

 あまりに唐突だったので反応が遅れてしまったのは仕方ないだろう。

 振り返った俺が間抜けな顔をしていたのか……硬い顔のフォルクスの頬が少し緩んだ。

「俺の一族が〈ヴォルツターク帝国〉の皇帝一族に仕えていたって話したろ。……その一族の姫さんの名前がメルティーナってンだ。……命からがら生き延びた俺の爺ちゃんが護れなかった後悔を何度も口にしてた。彼女は荒れる帝国ンなかで飼われ・・・て……最期は過激思想の民たちによって谷底に突き落とされて死んだって話さ。魔物を飼ってたのは皇帝と皇子だ。彼女に罪はねぇとは言わねぇが……むごいもンだよ。なあ勇者サマ。教えてくれ――辻褄ってぇの? それが合うンだ。魔物を飼う行為を酷く嫌悪した、龍の力を伴う――皇族の容姿を持ったメルトリア……もしあの姫さんがそう・・なら俺は――」

 そこまで言って……フォルクスは俺から視線を外す。

「…………やめだ。柄にもねぇこと言っちまいそうだし」

 メルトリアのことを記憶し憂いている民がいる。

 それは俺にとって嬉しいような……切ないような、そんな気持ちだった。

 でも……そうだな。

「秘密が多いほうがいい女なんだってさ」

「……は?」

「彼女は秘密が多い。でもそれを曝こうとは思わない。……彼女が話してくれるなら聞くけどな」

「――なンだ、あんたも知らねぇのか……。いや、それなら忘れてくれ」

「忘れる前に聞いていいか?」

「なにを?」

「彼女がそう・・ならどうする? 俺なら助ける。そう決めたからな」

「…………あ、あんた意地が悪ぃな勇者サマ……。まあ、なンつーか、爺ちゃんが死ぬ前に言ったンだ。皇帝たちも魔王が現れるまであんな歪みを持っちゃいなかったンだって。でも誰もそれを諭してやれなかった……って。……だから、そうだな……次はちゃんと間違えねぇように教えてやれる関係になって、爺ちゃんの墓前で報告するさ。そうしたら俺の一族も浮かばれるだろ。勇者サマみてぇにお人好しすぎるのも考えもンだけどな!」

 その言葉に、俺はメルトリアの話を思い出す。

 魔王や魔物の力に頼ることは負の力に犯されること――。結果として理性を失うのだと。

 もしかしたら皇帝たちも負の力に犯されてしまったのかもしれない。

 けれど『皇帝一族はあんな歪みを持っていなかった』という話を迷いなく口にするフォルクスは……俺よりずっと純粋だと思った。

「……フォルクスはいい奴だな」

「は⁉ 揶揄うのはやめろよな。エルフかよってンだ」

「……真面目に褒めてるんだけど……。フォルクス、メルトリアはさ、人族と龍族の争いを避けるために助けを求めにきたんだ。俺なら侵攻を止められるって」

 俺が言うと……フォルクスは肩を竦めて歩き出し呆れたように言った。

「はぁ? どうやったらそれで姫さんに逃げられちまうンだよ……あんたまさか襲い掛かったンじゃねぇよな……?」

「なっ⁉ 不穏な台詞を吐くのはやめてもらえないかな……!」

 俺が眉を寄せると、フォルクスは「ひひ」と笑って右手をひらりと振った。

「冗談だよ、勇者サマ! お返しだ!」

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