第26話
私は形が崩れないように集中してアイスクリームデッシャーをワッフルの上に掲げた。アイスクリームは綺麗な半球の形でことん、と落ちた。
「よし、綺麗!」
「あの……」
声がする方を向くと、そこには眼鏡の男の子―――朔太郎くんが顔の半分だけこちらを向けて立っていた。
「どうしたんですか?」
「差し支えなければ、少し見せていただいてもいいですか?」
「あ、どうぞ。でも、スコーンもワッフルももう宮原さんに作っていただいたので、あとはアイスクリームを乗せるだけなんですが……朔太郎くんも挑戦してみますか?」
「……いいんですか?」
朔太郎くんはぱあっと表情を明るくした。悠くんの後をついて行っている寡黙な印象を持っていたので、子供らしい表情の変化に胸を撫で下ろした。
「私も【月夜の森】に来るまで知らなかったんですけど、アイスクリームって牛乳、卵黄、生クリーム、砂糖の四つで簡単に出来るんです。ボウルに卵黄と砂糖を入れて混ぜ合わせ、鍋に牛乳と生クリームを合わせて加熱します。ふつふつと沸いてきたら、卵黄と砂糖を混ぜ合わせたボウルに少しずつ加えます。あとは、冷凍庫で冷やし固めます。あ、でも、冷凍庫に入れる前に人肌以下に冷やすのがおすすめだそうです。三時間くらいで容器のまわりが固まってくるので、冷凍庫から取り出して、スプーンなどで全体をかき混ぜます。その後は三十分から四十五分置きくらいにかき混ぜて、全体がしっかり凍れば出来上がりです」
私は冷凍庫からアイスクリームの入った容器を取り出した。
「手作りのアイスクリームは、市販品の香料入りのものとは違って、冷凍庫の匂いが移りやすいので蓋かラップなどで密閉をした方がいいみたいです」
「……何か、こっちの方がきめが粗い?」
「そうですね。きめの細かさは手作りではでにくいです。でも、何度かかき混ぜる作業を繰り返すと、なめらかさが出てきます」
私はじっと覗き込む朔太郎くんに、アイスクリームデッシャーを手渡した。
「一個でも二個でも、好きな数を乗せてください」
「……はい」
朔太郎くんの声は緊張で上ずっていた。
ゆっくりとデッシャーでアイスクリームを掬うと、ワッフルの上におそるおそる乗せた。
「―――出来た!」
「上手に出来ましたね」
「うん!」
デッシャーを摘まみながら朔太郎くんはとても楽しそうだ。嬉しさのあまり、自然とつま先立ちになり少し体が横に揺れている。
「こんな風にキッチンに立って誰かと料理なんて一回もしたことなかったから、嬉しい。お母さんは、僕のせいで少し精神的におかしくなっちゃったから、温かいご飯とかも最近食べていなかったし……」
私が無言で朔太郎くんを見つめていると、彼は少しバツが悪そうに笑みを浮かべた。
「僕、私立の小学校受験に失敗して、公立小学校へ入学したんです。でも、あいうえお、なんて低次元なところから皆同じようにスタートするのが耐えられなくて、早々に学校に行かなくなりました。学校の計らいで日中はオンライン授業、夜は難関中学受験を目指す塾に通っていました。お父さんは大学教授で、お母さんも大学の研究職に就いていました。だけど、僕の小学校受験のサポートの専念するために仕事を辞めて、専業主婦になりました。僕は両親の期待に応えられなかったけど……」
絞るような声でそう口にした。
「お父さんはお母さんのサポートが足りなかったと重圧をかけて、段々とお母さんは精神的に追い詰められておかしくなっていきました。それが言動の節々ににじみ出ていたはずなのに、僕は自分のふがいなさを認めたくなくて、見ない振りをしました。お母さんは無気力になり、ほとんど寝たきりのようになってしまいました。家の中は荒れて、空気も淀んでいきました。お父さんは仕事が忙しいと、大学やホテルに泊まりこむようになりました。気づいた時には、僕一人の手には負えないほどになっていました」
はあ、と一息つくと、朔太郎さくんは楽しそうな声をあげる方向へ目をやった。
「僕だけじゃない。悠はあんなに明るくしているけれど、彼の親切が悪い方向へ働いて、クラスで孤立してしまって学校へ行けなくなってる。香音はピアニストとして大成するよう強制的に教育されて、弾けなくなった途端に家族から見放されて……先生も、学校の先生を休みたくて休んでいるわけじゃない。そんな居場所のない僕たちが、身を寄せ合って得体のしれない機関を形成している、そんな感想を持つ大人は多いと思います。だけど、そうしないと生きていけない人たちもいるんです。常識とか普通とか、そんな定石な生き方が出来ない人たちもいることを、僕は分かってほしいと思う」
「……わかります。普通に生きるって、辛いですよね」
私の呟きに、朔太郎くんはちらっと視線を向けた。
「私も、世間から見れば、多分普通な生き方をしていないと思いますから」
私は朔太郎くんに皿を一つ手渡した。
「【月夜の森】は、そんな私を受け入れてくれた唯一の場所なんです。だから、この場所が朔太郎くんたちの居場所の一つにになってくれれば嬉しいと思います。あ、そろそろアイスクリームが溶けてしまうので、皆で食べましょうか」
朔太郎くんは泣きそうな顔で小さく頷いた。
「お待たせしましたー」
「よっ待ってました!」
悠くんは歌舞伎の見えを切るスタイルで出迎えてくれた。
「悠くんと朔太郎くんの二人分のアイスクリームは朔太郎くんが作ってくれました」
「えっ?朔太郎がやったの?マジで?」
「え、いや、僕が作ったわけじゃないけど……お皿に落とすとこだけ、やってみた」
「すっげーじゃん、アイスクリーム屋さんみたい!あの、銀色の丸いスプーンみたいな奴で掬うんだろ?」
「アイスクリームデッシャーっていうんですよ。おかわりがあるようでしたら、悠くんも一緒にやりましょうか?」
「え?いいの?おれ、一個じゃ足りないから三個ぐらい食べるよ」
ふと朔太郎くんの横顔を見ると、ほっと安心したような表情を浮かべている。目の前の香音ちゃんや僚介さんも穏やかな表情だ。天真爛漫な悠くんの性格が、【夜の教室】全体の空気を柔らかくしているのだろう。
「あ、そうだ。キャラメルソースもあるんでした。皆さん、アイスクリームに掛けますか?」
「いやあああぁぁお姉さん、そんなハイカロリーかつ背徳的な組み合わせ、食べたくなるに決まってるじゃないですか!」
香音ちゃんが両頬を押さえながら叫んだ。
夜中にお腹がいっぱいになったことで眠くなったのか、子供たち三人はいつの間にかすうすうと寝息を立てて眠ってしまっていた。
私は宮原さんの許可をもらって二階から予備の布団を二枚下ろしてもらった。
「何から何まですみません。ここはブックカフェでホテルではないのに……」
「いいえ、店長の宮原さんの仮眠スペースで布団も来客用にたくさんありますし、大丈夫ですよ。もう、深夜も過ぎていますし、小学生が起きているのにはちょっと辛いですもんね」
「普段は、夜の九時くらいから俺の部屋に集まって数時間簡単なドリルをやったりするんですが、やっぱり深夜までもたないですね。皆、あまり自分の家に帰りたがらないんで、朝まで雑魚寝をして過ごすことが多いです。もちろん、外泊する旨は親御さんたちの許可は取っています。基本的に皆さん、『先生に一任します』で終わってしまいますけど。本当は、三人ともきちんと学校に通って、クラスの皆と授業を受けたいとは思っています。この【夜の教室】は彼らの居場所の一つであっても、逃げ場所にはなって欲しくはないんです。彼らの本当の居場所に戻せるようにしてあげることが、俺の使命だと思っています」
僚介さんの言葉に、私は小さく頷いた。
「……自分たちの行いに自信をもって生きていけたら、いいですよね」
「そうですね……」
私と僚介さんはしばらく無言で窓の外に映る夜の闇を見続けていた。
「あ、そういえば、美波さんは結婚されたんですか?」
「……結婚?いえ、そんな話は聞いていないですけど」
私の言葉に僚介さんは一瞬ほっと胸を撫で下ろしたようだった。
「あ、別に、いまだに未練があって引きずっているってわけじゃないんですけど、雑誌のところに違う苗字で記載されていたので―――」
カラン
ドアベルが鳴り、後ろを振り返るとカーキのブルゾンを着た千紘くんが立っていた。どこか不機嫌そうな表情を浮かべている。
「ちひ―――梶さん、いらっしゃいませ」
私は僚介さんに小さく一礼すると、千紘くんの近くまで寄って行った。
「こんばんは、仕事終わりですか?」
「……何で、梶さんって言いなおしたの?」
「え?」
「今、雫さん言い直したでしょ。別に疚しいことがなければ、言い直すことないよね?それに、ずっと楽しそうにあの人と話していたけど誰?」
「えっと……今日来店していただいた僚介さんですけど」
千紘くんはあからさまに片眉をひそめた。
「俺は、なかなか下の名前を呼んでくれなかったのに」
口をとがらせて、ぷいっと横を向いてしまった。子供らしいその反応に、私は思わずふふっと笑い声を立ててしまった。
「―――雫さん」
「ご、ごめんなさい。千紘くんの反応が、何だか可愛らしくて……」
ふふふ、と心の底から湧き出る感情が止まらなくなってしまい、私は手で口を押えながら何とか笑い声を出さないよう耐えていた。
その時、うーんと悠くんが起きる声が聞こえて、私は振り返った。
「あ、どうやら悠たち、起きたみたいです。ほら、お店の営業の邪魔になるからそろそろ帰るぞ」
「ふあーい」
悠くんが起きると香音ちゃんも一緒に起きたようだった。朔太郎くんだけは微動だにしない。
「朔太郎、寝つきはいいけど、なかなか一度寝ると起きないんだよなぁ。朔太郎ー起きろよ!帰るぞ!」
「これは、駄目そうね」
「じゃあ、しょうがないから俺が背負っていくよ」
僚介さんは寝ている朔太郎くんを背負うと、そのまま悠くんと香音ちゃんを玄関まで促した。
「すみません、長居してしまって。布団もそのままにしてしまって。あ、これお会計です」
「ありがとうございます」
「ねぇねぇ、俺、アイスクリーム落とすのすっごい楽しかった!また来てもいい?」
「もちろん、また皆でいらしてください」
私の言葉に、悠くんはその場でガッツポーズをした。
「では、お邪魔しました」
「ありがとうございました」
私が一礼すると、香音ちゃんが傍まで寄ってきて私と千紘くんを交互に見やった。
「お兄さん、お姉さんが好きでしょう?」
「―――へ!?」
香音ちゃんの言葉に、千紘くんは素っ頓狂な声を上げた。
「お姉さん、可愛いから誰かに奪われないようにした方がいいと思うわ。お姉さんも、あまり先生みたいな若い男の人と楽しそうに会話していると、誤解されちゃうから気を付けてね」
香音ちゃんは小さく手を振ると、スキップしながら颯爽と出ていった。今まで見たことのないくらい動揺している千紘くんの姿はとても新鮮だった。
「……千紘くん、大丈夫?」
私は俯いて動かない千紘くんを下から見上げようとすると、がっと手首を握られた。
でも、今度は怖くなかった。
手首から、千紘くんの温かさが、心臓の鼓動がどくどくと伝わってきていたから。
「……雫さん、あまり、俺以外の若い男と楽しそうに話すのは止めて欲しい」
「う、ん、でも、別に楽しそうに話していたわけじゃなくて―――」
「分かってる。雫さんは【月夜の森】の店員で、仕事で対応しなきゃいけないのは、よく分かってる。それでも……」
千紘くんは言葉を選ぶようにしばらく考えているようだった。
でも、千紘くんの気持ちは十分に伝わってきていたので、私はそのまま千紘くんの手を握り返した。
「うん、そうだね。ごめんね、誤解させちゃったよね」
「俺、子供っぽいよね……こんな、独占欲むき出しにするつもり、なかったんだけどさ」
千紘くんは私の肩にこつんと額を乗せた。千紘くんからは、夜の香りがした。
私はゆっくりと彼の頭を撫でながら、しばらくそのまま立っていた。
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