第12話
コーヒーを飲み干すと、私は一刻も早くうちに帰って母に話したかった。
宮原さんは私の表情で察したのか、にっこりと頷いた。
帰る前にヨルに挨拶をしたかったが、先ほどの青年と一緒にいるのか姿が見えなかった。
私は宮原さんに一礼すると、ドアを開いた。
がん
「痛っ」
ドアを開けた先に人の姿があった。
「え、あ、すみません!」
見下ろすと誰か蹲っているようだった。
「……いいよ、俺がドアの前にいるのが悪いんだし」
青年―—―梶さんは私がドアを開けた拍子に少し前に倒れてしまったようだった。膝を軽くはたいてゆっくりと立ち上がった。
宮原さんも背が高い人だったが、梶さんはそれ以上に見上げる形になった。180㎝近くはあるんじゃないだろうか。
私は母や美波よりも背が低く、正確な身長は分からないが150㎝には届いていなかったように思う。
梶さんはヨルを抱っこしていなかった。ヨルは気紛れなので、また夜陰にまぎれてしまったのかもしれない。所在なさげに視線を動かしている。
「……帰るの?」
「え?あ、はい」
「別にまだいればいいじゃん。俺が余計なこと言ったからだよね。初対面なのにごめん」
必死に弁明をしようと言葉を選んでいるその姿に私は何だかおかしくなってしまい、ふふっと笑みがこぼれた。
「あなたの言葉に気を悪くしたとかではないです。私が、早く母にここで働けるように許しを得たくて。許してくれるか分からないけれど、宮原さんが大きな勇気って言ってくれたから。その勇気を示して一歩を踏み出したいんです」
たどたどしく言葉を紡ぐ私を梶さんはじっと黙って聞いてくれていた。
「……親はそんなに厳格な人なの?」
「厳格……?うーん、そういう感じではなくて、特に父に至ってはあまり私を外の世界に触れさせたくないみたいで―――」
「何それ?娘可愛さに閉じ込めておこうみたいな人なの?」
梶さんは理解が出来ない、というように眉をひそめた。
「可愛い?それはないと思います。でも、母は私の意見を尊重してくれると思うんです」
「ふーん」
梶さんはそれ以上は訊いてこなかった。私は安堵していた。
父の存在は私でも説明できない範疇だからだ。
ピコーンピコーン
立て続けて何かの通信音が鳴った。
梶さんはズボンのポケットから何かを取り出した。白い箱のようだった。
「あー……呼び出しだ。俺もそろそろ帰るか」
「―—―あの、その小さい箱、音が鳴ってるんだけど何ですか?」
私の問いかけに梶さんは数秒時が止まったかのように動かなかった。何か失礼なことを言ってしまっただろうか。
「スマホ、だけど……」
「スマホ、ですか。誰かと通信できるんですか?」
「―—―マジで言ってる?」
「うちにはそういう機器はないですし、誰も持っていないので」
「……どんな旧時代を生きてる家庭で育ったんだよ」
「ちゃんと固定電話はありますよ。母しか出ないですけど」
馬鹿にされている感じが否めなかったので、私は精一杯の知識を披露したつもりだった。だけど、目の前の梶さんは理解できない生物に遭遇したかのような表情をしていた。
「家族は、誰も持っていないの?まわりの友人とかは?」
「もしかしたら家を出ている妹は持っているかもしれないですけど……」
「もしかしたらって……」
梶さんは長い溜息をついた。
「信じられないな。そんなに無関心なの?テレビでスマホのCMとか流れるじゃん」
「テレビも、あまり観ないので」
これ以上話していると自分の世界があまりにも狭くて世間知らずでみじめな思いをしそうだったので、梶さんとは一刻も早く不毛な会話を終わらせたかった。
「それじゃあ、失礼します」
私は早口で言うとそのまま踵を返そうとした。
「ちょ、待ってよ」
いきなり手を掴まれたことにびっくりして、私は思わず強く払ってしまった。
「……すみません」
「いや、俺こそごめん。あ、あと、さっきから不快な思いさせててごめん。ずけずけと人の家庭のことに意見をするべきじゃないよな。それがいかにデリカシーがない行為か、自分がよく分かっているはずなのに―――」
「―—―?」
自分に言い聞かせるように呟く梶さんに私は何も言えなかった。
「色々とごめん。もう、俺に会いたくないと思うけど、たまにこの店にも顔を出すこともあるかもしれないけど、また来てやってほしい。もし働けなくても、俺以外にも常連さんはたくさんいるからあなたの話を真摯に訊いてくれる人はいると思う」
「……」
「じゃあ、俺は帰るから。またいずれ会えたら」
そう言うと梶さんは私が来た逆方向へ歩いて行った。最初はゆっくりと歩いていたが、途中から走って闇の中に消えていった。
気配が完全になくなった後も、しばらくはその場に佇んでいた。
そして、すうっと大きく息を吸って長く息を吐くと大きく一歩を踏み出した。
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