第7話
私はヨルを抱きかかえながら小さく手を振る宮原さんに大きくお辞儀をすると、そのまま人気のない闇の中を歩き始めた。
左右から行く手を阻むかのように身を押し込んでくる大きな闇の渦は、容赦なく私の頬を撫でる。
だけど、それを払うことを私はもう厭わない。
先の見えない闇の彼方に、一片の光が灯っていることを知っているからだ。
宮原さんに、ヨルに、出会えた。
その真実だけが、闇の中を突き進む私の力になっていた。
今後また、父の許可が下りるか分からない。
母の虚ろな瞳に、私の今夜の行動が吉とであるか凶と出るか、それによって光が映し出されてくるのか今は分からない。
これから私は繭の中で意識を閉ざし闇に包まるのだろう。
だけど、次に目覚めた時にあたりが闇に染まっていたのだとしても私はもう怖くはない。
闇の中でしか生きられないのが、息をするのが私だけではないからだ。
そのことが分かっただけでも、今夜思い切って外に飛び出して良かった。
今度、美波が家に来た時に話してみようか。
父が管理し、それに付き従う母のいるこの家に今も住まう私の目を見て話を聞いてくれるだろうか。
この先、これから未来、まだ見ぬ将来―—―
私は、闇の中でも少しでも光を灯しながら、ゆっくりゆっくりと生きながらえているのだろうか。
私は家の鍵を持たされていない。
出かける際には何度も何度もあたりのドアを開けたり閉めたりを繰り返し、入り口のドアの施錠も何度も引っ張って確認する母がドアを開けておくことはないだろう。
私はふうっとため息をつき、階段の上のある茶色のドアを見上げた。
階段を一段上ったところで、かちゃと鍵が開く音がした。
「おかえりなさい、雫」
「……お母さん、起きていたの?」
「寝ている途中で起きちゃっただけよ。早く中に入りなさい。夜が明けてしまう」
「うん……」
玄関の三和土に足をのせると、リビングに続く廊下がいつもよりひんやりと冷たさが含んでいるように感じられた。
人気の感じられない無音の空間。
「お風呂にお湯残っているから、入るなら追い焚きしてからにしなさいね」
「ありがとう」
母はリビングに入っていった。
私はゆっくりと階段を上って行った。
母は美波の隣の部屋の寝室で眠っている。父がいた頃も、母は父と寝室を共にすることはなかった。
ふと、母の寝室を覗きたくなり、私はゆっくりとした足取りでドアの前に来た。
普段、母は寝室に鍵をかけているが今日は掛けていなかった。
ドアを開くとベットと小さな机と椅子、奥にはクローゼットが置かれている。
小さい頃、美波と家の中でかくれんぼをした際にこのクローゼットに隠れたことがあった。クローゼットの中には小さな写真立てが服に覆い隠されるように隅に転がっていた。
見てみると同じ背丈の男女が三人仲良さそうに笑顔を浮かべながら肩を組んでいた。
母らしき女性が口元を大きく開けて楽しそうにピースをしているのを見てとてもびっくりした。
母は昔から淡々と家事育児をこなし、この家を守り、ほとんど笑った顔を見たことがなかったからだ。
父がたまに家に顔を見せる時はさらに一通りの表情だけを見せるよう顔に鍵を掛けているかのようだった。
美波がおねーちゃーん、こうさーんと声を上げているのを聞いて、私はクローゼットから飛び出した。
その時、部屋の扉から覗く母と目が合い、私は恐怖のあまり体を後ろに仰け反らしてしまった。
部屋のドアを閉めて、駆け寄ってきた母は私の肩を掴んで言った。「何も見てないわよね」と。
私は勢いよく何度も何度も大きくうなづいた。
母は納得したのか分からないが、幼少時の私から見た母は何かにとても怯えていた。
「お母さん、お母さん、ごめんなさいごめんなさい」
泣きじゃくる私を母はそっと抱きしめてくれた。
そして、「クローゼットの中身は、雫とお母さんだけの秘密よ」と耳打ちした。
その時から母の部屋は変わっていなかった。
そして、階下の廊下のようにひんやりと涼しさが感じられた。
私は怪訝に思い、母の布団に近づいた。枕もシーツも先ほどまで寝ていたと話す母の体温は微塵にも感じられなかった。
「お母さん……」
リビングで私の帰りを待っていてくれたのだ、と分かると涙があふれてきて仕方なかった。
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