ラカンを再検討するための「非言説的」アーキテクチャ構築2
民主主義のシニフィアンの代理代表象と天皇の動物的意味作用の臣下の人間=表象はどのように異なるのか。それは主体を「臣下=存在」として象徴的構造から剥奪しているのか。それとも民主主義の普遍性が善のシニフィアンと同一視されることで見かけの性愛の神話的エクリチュールの基準が法律の憲法=暴力として欲求不満を群生させているのか。
「母の-征服された-女陰」と「女性享楽」は別のものであるということをどのように男根が混同することができるのか。それはファルスを財の積み立ての回路として男性の語りの享楽の欠如からではなくて臣下の存在の意味作用から「万能の母」の見かけと錯覚することによって唯物論的な父の享楽を導き出す場合ではないだろうか。それは超自我の父であるから善が物質としての見かけを纏った猥褻さとして二重の基準を短絡することになるのではないか。男性側の語りが創造する父の名と女性側の語りが構造化する父の隠喩は実際の父親として実在しているわけではなくて、想像的な父が象徴的な父と交錯する地点での意味の無化が起こる地点での「脱意味」のことであるということが解釈の自由な創作=想像と混同されているのではないか。つまり男女の語りとは意識の水準での変身のことではなくて享楽が主体としてのシニフィアンを表象代理する対象欠如aの地点にあるということが身体的ジェンダーの動物的侵害と重ね合わされてそれを創作のフィクションとしてのみ技術的に個人名として「特定する」という操作に置換されているのではないだろうか。ここには女性側の語りがファルスを構造化する余地がないということがフロイトが「ペニス羨望」として記したまだ十分にヒステリーの女性患者たちの意味を解読できなかった地点にある「命名」ではないだろうか。というのもフロイトにおいては「精神分析家達の父」という二重登記があるからである。
民主主義のシニフィアンの代理代表象とは例えば外交使節団が何かを「代理する」と主張するのと同じ意味での代理である。そこに人間的な感情や個人的な葛藤の余地などを含めてはならないという意味でそれはシニフィアンの別のシニフィアンに対する代表象を機能させる。ただしこの代理という言葉がナショナリズムに汚染されているということがあり得るためには「国民的代表」という言葉が「王達の臣下」と構造的に同じ位置で用いられていることがメディアで「中立的に」操作されているのだというふうに宣伝が用いられることが必要である。つまりメディアが個人的な表現を特定の民族的享楽の「表象代理」であるとして自由を擁護し始めるという詭弁を弄することが必要であるという意味である。このことが仮に技術的な再現で表象されているのだとしても、それは本質的に変わらない。というのも、そこでは個人的な身体が動物的意味作用の臣下=人間として象徴的法作用から剥奪されていることが想定されており、だからそれを憲法が「鎮圧」しなければならないということになっているからである。これは視線の快の満足の食欲と同じ構造的な規範でオマージュされている。私はラカンがナチのオリンピックを見た時の享楽の余韻が燔祭式として暗黒の神に犠牲を捧げる囚われとして反復されているのをスピノザの運命と重ねてみるのがフロイトをイエスの犠牲として王の使命を祭り上げるのと同じことになっているのではないか、と考えてしまう。この疑いが私が(暗黙に)ナチに賛同しているとか政治的主人としてソ連に加担しているとかいう言説の曖昧さとして機能し続けているだけに、何か問題があるように思われてならない。つまり資本主義のエクリチュールの過剰が貨幣を王=シニフィアンとして戦争や乱交と結び付けるのは普遍性の臣下としての善の見かけの享楽の存在論的構造化に過ぎないのではないか、ということである。
言葉を存在の住処とするハイデガーの言辞とアリストテレスが動物に魂の活動の身体存在を与えるやり方が分析的ディスクールではシニフィアンの目的だと混同されてしまう余地があるということ。言い換えると言葉を話す存在と話者が身体的に実在しているということがエクリチュールでは同一視されているのに、それを分析的ディスクールでは等価な存在の権利の営みだ、としてしまうような開示が在るのだということ。しかし精神分析においては性関係は存在しないので、宇宙-世界論の言辞はセックスにおいて成立不可能だということがシニフィアンの代表象を規定している。私はナチズムがこの存在の権利の平等性を生存-環境的に狙ったのだ、とは考えていない。しかしナチズムが結果として
「ナチズムにも共産主義にも染まらずに消費社会として言論の自由を保護してきた王達の臣下の動物存在」という体制が性に関する享楽の禁止において疑わしくなってきた抑圧の原因を構成しているということ。しかしそもそもどうして「消費社会」が「言論の自由」を保護してきたと言えるのだろうか。「消費社会」それはつまりアメリカのイデオロギー的覇権のことであるにもかかわらずそう言えるのは、アメリカがナチズムや共産主義よりも単に比較として優れているだけであってはならず権利存在としてそのことが保証されているのでなければならないはずである。ところでそのようなものとして構想された人権がアリストテレス的な善-動物-臣下のシニフィアンとハイデガーの存在-言葉-開示というシニフィアンに分離しているとしたら、権利という語が労働力身体以外に参照とされている地点があるのだろうか。それは商品フェティシズムの倒錯でしかないということ、そこに性の安さを存在として構成する水準がある。その安さをプラトン的なイデアの販売形態として模造化された機械の大量生産があると想定されていること。これはエクリチュールと生産を他者の物語の水準に位置付ける混同である。これは表象が幽霊のように増殖して欲望の代理として都市空間を彷徨っているということになるのだろうか。明らかにシニフィアンの主体が抑圧されていることからくる帰結が性存在の享楽の負債の代価として払われているのである。ここで問われなければならないのは貨幣とシニフィアンの関係である。シニフィアンが主体に性的な亀裂を欲望の欠如対象として欲動の享楽を構造化するのだとしたら貨幣の方は欲望とどのような関係にあるのだろうか。マルクスの物神崇拝の説明はファルスの要求と混同されているのではないのか。もし貨幣が好きな異性と性交できる権利を潜在的に願いとして所有することを意味するのだとしたら性関係は存在しないという精神分析の主張はどのように扱われるのか。精神分析には4つの主要な部分対象があると説明されている。眼差し、乳房、排泄物、声である。これ以外にも性感帯としての役割を持つ部分はあるが欲動が対象として定めるのはこの領域に向かって組織された欠如においてだけであるということ。ではペニスはどうなっているのか?それは対象ではないのである。だから欲望は理想像に対する幻想として構造化されるのである。したがって倒錯とは対象ではないものを対象にしようとしてそれを他者の欲望の欠如に満足を代理代表象しようとするのである。ここで言いたいことはマルクスの商品に対する説明は使用価値が完全に道具としての側面しか把握されないものに対する比準であるということである。つまりマルクスが商品の相対的余剰価値に関する説明を性に対するシニフィアンの表象代理として説明することは資本に対して自然に対する搾取か欲望の破滅しか意味しないということである。
マルクスはシニフィアンに関しては資本主義は享楽に向かう傾向があるからその欲望は自然の搾取による欲望の破滅になる、としか主張していない。つまり余剰価値以外何も言っていないのである。これは満足できる定式化ではない。シニフィアンと商品の間を構造化している物とはいったい何なのだろうか。それは喪失の対象であると思われる。つまり主体は欲望として商品の中に自分から失われたと感じている対象を消費によって不可能な欠如の反復を要請する欲動に転移する、ということ。しかしこれでは無意識が症状として欲動を反復するのと何が違うのかわからないことになる。だから商品は欲動の代理として主体を表象代理するパッケージの再現=表象として欲求に満足を与えるシニフィアンを愛の騙しの効果で模倣するのだと言わなければならない。これはどういうことだろうか。商品の制作者は商品が提示するような愛の騙しの効果に囚われていて、それを幻想として商品化することで別の他者の満足を与えるように騙しの手口を広めているのだろうか。しかしそれでは商品が詐欺であるということになってしまう。そうではなくて欲動が喪失として対象化されるシニフィアンの効果とは実際に失われたものの現存ではないということを利用して、商品という消費されて廃棄されるものを作り上げるそのことが他者に満足を欠如の昇華の反復として与えるということである。しかしそれならどうして商品を消費することが欲動の満足を与えるという錯覚が言説として存在するのだろうか。それは商品を購入する身体と別の購入する身体をデータベース的に参照した時に得られる身体的享楽の特徴を存在の言説であるかのようにキャラクターとして消費できる性的対象が欲望の原因であると評価される相互承認の機制があるからにほかならない。つまり欲動の対象は欠如の方に主体化されているのに、キャラクターが部分対象を所有する見かけを持っているというそのことが、シニフィアンの対立を所有の位相の差異に貨幣として変換してしまうということ。だから実際に失われるのは貨幣の身体的身分であると「適切に」消費を商品のカテゴリーに記号的に閉じ込めてしまうのである。
商品の欲望は享楽の負債に対して貨幣-料金として適切に距離が取れているものである、という信念こそ性的な享楽の商品が踏み越えさせてしまうものにほかならない。もちろん商品の欲望が「そもそも」享楽の負債に対して適切に距離が取れているという信念は正しくない。それは金融操作や物価変動を見れば一目瞭然である。しかしそれを政治領域に追放しておくことが消費社会の「適切な」心理的安全にとって必要不可欠なものであるということ、これを性的な享楽は侵犯させてしまうのである。なぜなら善-動物-臣下のシニフィアンとは主体のシニフィアンではなくて主人の欲望のシニフィアンであり、だから自分たちが動物として言語を話し、欲望し、繁殖している限りはシニフィアンの存在を語る-性として主体化を身体に引き受ける必要がないと信じられているからにほかならない。善の命法を聞いている限りは享楽についての責任を負債として引き受ける必要がないという幻想こそ法を普遍性として構成している平等性であるのだから、ある意味でそれは当然のことではあるが、だからと言ってそれはシニフィアンの症状が欲動として反復されないことにはならないということに無意識が侵犯として現勢する。だから政治的ディスクールは悪人を処罰する権力を犠牲の享楽として排斥するのである。明らかにこれは「不適切な」欲望を弁別したいという虚しい希望に突き動かされた反動であり、そのことの代表を性的享楽に担わせたいと思っているのである。それは次のこと、享楽を罰金化して払わせたいという欲求が税金によって維持されるべきであるという命法に典型的に現れている。もし税が善の「適切な満足」を提供するべき社会保障であるならば、そのための税額保証は享楽に対して無限にならなければならないということを、享楽が性の主体として担わないならば社会体制が責任として法規化するしかないという状態に関わっている。ここで明らかなのは臣下としての主体は倫理的責任と法律的刑法の責任を同じ欲望の責任規定として金銭化しなければならないという要求が娯楽化しているということを資本化する、という問題を消費社会は解決しないということである。そうすると消費としての資本主義は善い(悪い)が刑法規定に対する資本主義は善い(悪い)ということになり、規制を巡って性を争わなければならなくなるからである。
「ある未成年の状態は子供として恋愛を遊ばせておくことで人間は性に対して発達する」という主張を考えよう。この主張は大人には恋愛がないということなのか。そうではなくてあらゆる恋愛は「未成年状態の同意」として承認されるべきであるということを「大人が」経済的欲求から保障しなければならないということを意味しているのである。この考えが性的な享楽を封殺するものであるということが消費を恋愛に対して安全なものにすることを誤って「昇華」と呼んでいる。これは恋愛が政治的ディスクールによって誤って定式化されてしまったことの結果なのか。そうではない、ということが問題である。つまり恋愛が可能になるのは政治的ディスクールの構造的不可能さからしか男女が承認されることがあり得ないということが、性を未成年状態に置く結果をもたらすのである。これは男女の情熱のすべてが恋愛関係でもたらされるということを意味しているのではない。おそらく他の多くの事例が恋愛関係として包摂されているということを文学探求が示したことから性関係が不在であるという精神分析の構造化を反映した結果として恋愛は不可能であることになっているのである。これはエクリチュールなら恋愛が語られることが可能であるということである。ということは恋愛が可能という見かけを法が持つためには性的同意年齢という観点がどのような馬鹿げ方においても必要である、ということを政治が認めているということにほかならない。これは性的表現が性的同意年齢に従うべきだ、という主張を含んでいる必要はないが、恋愛が未成年状態の同意を不可能にしておくためには、その禁止を主張し続けなければならないということである。我々は馬鹿さ加減が極まっている位置にいる。これは問題が誤って定式化されているということを示している。問題は大人が恋愛を「昇華する」ということで何が言いたいかである。彼らは自分たちは恋愛を少なくとも一度はして失敗した思い出を持っているのだ、ということが言いたいことである。明らかに喪失対象を経験することが恋愛と呼ばれているのである。性的経験において、この様に定式化することが正しいかどうか完全に明らかにできるとは思えない。なぜなら享楽がどのようなものであったかを語らせないといけないからである。これは子供には「不可能な」事柄である。それは子供が性経験を持たないのだ、という断定ではなくて、子供が性知識を語りの享楽として構造化することが器官的な発達からできないということに関わっているのである。これは子供の性的な発達が享楽を構造化しているという主張とは違う。子供は性的な欲動としては完全に性的な享楽の構造を持っている。しかし生殖はそうではないのである。恋愛を生殖から外して経験することはもちろん可能な事柄である。しかし父や母をファルス的に象徴から男女の違いとして説明することはできない。父は普遍-例外的に「お前を産んだのは私だ」と語ることは可能だが、母が全称否定から「お前を産んだのは私の器官だけだ」とは言えないということがすべての器官を持つ男性は父ではなくて、父であるような名前の男性が母に子供を与えるというシニフィアンで構造化されるからである。
ヒステリー者の欲望が自分の欲望は満たされない欲望として我々の眼差しに対して示す時、そのことによって話されないことが欲望として無意識に位置付けられる理由は何か、という問いをどのようにして考えることができるのか。もし話すことが怒りを表明する場合に、その話はその主体が語っていることを本当のことだと示していると言っていいのだろうか。そしてそれはその主体が話すことに「成功した」と言っていい理由になるのだろうか。ある主体の沈黙が意味を脱線させるとき、それを怒りの表明として必ず位置付けていい理由とは何なのだろうか。話すことのコミュニケーションが意味として脱落していることが無意味なコンテキストの差異として会話が続けられる場合にそれが怒りとして表明されていることは、本人が強い感情を抱いたことの証拠として見なされるということなのだろうか。それはヒステリー者が感情をうまく持てないということを怒りという感情の表明で解消しているということになるのだろうか。明らかにかみ合っていないとしか思えない。我々は次のように言いたいのではない。例えば無意味なコンテキストの戯れとして怒ってる-怒ってないよゲームを通して他人の感情の機微を測り、そこから適切な位置にコミュニケーションの欲望を意味として介入させないように続けさせるような実践が話すことの欲望を満足させることが可能であり、そのことの繰り返しが話すことの真意としての議論の巧妙さを構成するのだ、と。これはヒステリー者の言説ではない。というより、もっというなら精神分析実践ではない。コミュニケーションをどんな場合でも精神分析実践に変えなければならないことの重苦しさから解放されるために意味を宙づりにしているのではないのか、という反論に対して、それはシニフィアンと意味作用を混同しているという介入が持ち出されなければならない。なぜなら意味の機能を重苦しくするのは性のシニフィアンの表象代理の連鎖を言葉の意味の隠喩的連鎖に置換することで感情を表明しているのだという人格的なやりとりこそ、語りがそれから外れていることを隠蔽するための防衛だからである。コンテキストの意味から外れていることは語りの意味から外れていることではない。そこには欠如対象に対する換喩の共通認識がある。だから話題がコンテキストの構造を決定するという風に指定するのは間違いで、表象代理に対する置換が欲望の対象に対して矛盾した表象を同時に生成するようにシニフィアンが連鎖しているそのことが話すことの説明では感情的指示対象の言説として読まれてしまうということの抵抗として他者の視線の理想化が自我に対して圧力を加えているのだと考えなければならないのではないだろうか。つまり欲望の対象が目指している理想と視線の他者が眺めている理想化の対象は異なる自我の表象を語る欲望として言葉に張り付いてしまっているのである。
公共的な言説と個人的な言説を区別する物とは何であるのか。それはそれがあらかじめ語る場所として名指されているのならば、それを明確に弁別することができるということなのか。われわれ自身自分の最も身近な人に公共的なディスクールを実践するように要請することにはある種の残酷さがあるのではないだろうか。しかしだからと言ってある種の政治的正義をすべて個人的な言説として聴衆に語り掛けるものでしかないというべきなのか。このことを考えるには「神の死」ということで何が言われているのかを焦点に当てて神々のエクリチュールの性愛的他者が対象欠如であるという身体的代理代表象のメビウスの輪をシニフィアンの主体として神話的表象から分離しなければならない。つまりよく言われるように西洋的な政治的ディスクールとして「父なる神」が死んでいることが至高善の不在として用いられるスキーマとして神が個別的に死んでいる信仰として現れる、ということから性のシニフィアンを自己愛と分離しなければならないということである。どういうことだろうか。もし神話的なエクリチュールが神々の性愛として器官的な結合を男女の愛のように子孫の誕生としてシニフィアンを生み出したのだ、というように表現されているとしても、それは表象代理を歴史=物語が再現=表象しているだけで、代表制代理の象徴の位置には存在していないということが部分欲動の対象(眼差し、乳房、排泄物、声)として露わになるということを「医学的説明」と正確に区別するということである。ということは医学的説明の用語法が神話的エクリチュールと「偶然」一致していたとしても、あるいはそのように名付けられているとしても、そのこととシニフィアンの法は主体から区別されているのであって、それが意識と知覚の混同を感覚として表わしているにもかかわらずトポロジーとして去勢不安が構造化される、ということである。これはなぜ精神分析が政治的ディスクールを「自動機械」の歴運性として存在の連鎖を相似的に見いだす類の詩的表現に「同調しない」のかを説明する。プラトンの言うように詩と政治の言説的な見かけが集団的なものから区別されえないということが、精神分析が詩を存在論と断定する理由なのではなくて、性のシニフィアンと存在の構造の間にいかなる見かけの一致もあり得ないということから出発しているがゆえに、詩のエクリチュールの女性の見かけの享楽存在を同じ普遍命題のファルスだとは思考しないことが、主体の分裂を規定しているからにほかならない。だからラカンが神々は現実界にある他者の欲望の名残だという時、想定されているのは、それとエクリチュールの女性享楽が男性的な対象の商品存在の快の見かけと「偶然」一致している、ということ以上のことを言っているのではない。もちろんこの「偶然」とは公共的なものと個別的なものを別つための美的な境界の理想であると思われる。したがって、ここにはシニフィアンを読み取るための機制と商品を購入するための貨幣に主体の欲望があるのだと錯覚するためのシステム構造があるのだということになる。だから逆に無意識の原因はうまくいかない出会いにしかないのだということの障壁が何らかの外部性の原理だと欲動が対象欠如を構造化する享楽のことを欲望が他者の貨幣の欲望だと「享楽のモード」に無自覚な身体欲求として繋げてしまっているということである。
性のシニフィアンに象徴化された無意識の欲動の享楽の対象欠如と無自覚な身体欲求が商品の性的な見かけに欲望の視座として向かう消費行動の代理性はいかに異なっているのか。この問いを次のように言い換えてみよう。すなわち「商品は現実的であるのかそれとも想像的であるのか」と。このことの回答は商品を「自分が」欲望する分には現実的だが、「他者が」欲望するのは想像的だ、ということである。明らかに葛藤がある。これはつまり、商品を「選ぶ」対象として扱うことは象徴的なシニフィアンの意味作用から構造が決定されることを「買わない自由」として表象代理から疎外している、ということである。だからある商品購入者Aと別の商品購入者Bがそれぞれの欲望として対象を別の他者に承認基準として参照していても、その主体は同一の身体であることがありうるということを別のシニフィアンの表象代理として含意しているのでなければ性のシニフィアンは語られることがあり得ないということになるのである。これは投機の操作が問題含みであることを意味している。マルクスの言う通り、もしこれがA=Bの代入操作だけで繰り返されるのだとしたら、商品の余剰価値の生産が貨幣の記入的な再現=表象だけで資本としてシニフィアンが形成されることになるからである。まさにこれこそ幻想の普遍対象xと対象欠如aを区別するための基準であると思われる。というのも価値形態が欠如対象aであるというのは価値という肯定的な側面が決して普遍的には現前しないということを貨幣が不在として代理するということだからである。だからアーキテクチャが「情報隠蔽」をしているのだということと、ある特定の他者が「情報を隠蔽している」というのでは、まったく違うことを表現しているということが商品として代理されるのは貨幣の所有者にとって承認の基準として「必然的に」貯蓄として現れてくるのではない。アーキテクチャが情報隠蔽しているというのはアクセスできるインターフェースのデータベース構造とプラットフォーム上のデータ参照領域の通信に対する介入をある特定の条件に基づいて分離する、という意味である。一方である特定の他者が商品に対する情報を隠蔽するというのは、ある構造に欠陥があるということではなくて、消費者が有意に利用できる道具的な対象に対して必要な補填が十分明らかな形で欠如性として表現されていないということである。これが価値形態を商品所有者が恣意的に「隠蔽する」と言ってしまうのでは、存在の価値を購入者側の意識に対して透明にするという意味になってしまい、単に商品は消費者の承認意識を煽るという程度のことを宣伝と表現するにすぎなくなる。お望みなら、このことを「階級意識の実現」と主張してもいいのだが、実際のところ何を言っているのか自分でもわかっていないということを制度側の不正として性的に代入しているだけではないのだろうか。
メディアとしての現-存在が性的に自足的な語りを享楽として表現するというのと精神分析が無意識の構造は言語的な語りの享楽として性的に症状として反復されるということはどのような重複から代理代表象の基準を用いるのだろうか。この問題はメディアと呼ばれている言説体系とアーキテクチャ構築の機能が表現の「規制」に関わりうるのだ、という主張を考えなければならない。というのもアーキテクチャがある言論を個人の主張だと判断する、ということとメディアがそれを個人の言説として表象する、というのは全く別の技術領域に関わる主張を「個人の自己表現」として繋げているからである。ここで問題なのはある他者の言論が「反論されている」ことはその主張内容に関わりなく情報的な真偽の規範として言説が残されるべきであるという主張と、ある言説がそれ自体の正しさに関わりなく情報的な偽から享楽を取り出す場合の処置が何で「禁止されている」と判断されるのか、である。ということはそもそも情報的な真偽が「ある個人の言論表象」であるということに懸かっているのではなくて、他の人間に言及される措置が閲覧されるのか、それとも暗黙に参照されているのかを区別するために文脈を追うということが個人的な読み取りの機能に依存してしまうのをどのように防ぐのか、ということが享楽の実践として機能してしまう構造を性的なシニフィアンが代理代表象しているのだ、ということである。メディア上の言論が他者による読み取りを許容するのだというのと、それがどんな意味にも開かれているのだということが別のことであり、さらにそれが情報的な真偽関係を普遍的に満たすことが無意識の享楽の語りから適切な基準であると判断される機能を「技術上の理由で」規制されるのだということは全く違うことを意味している。ある言論の主張内容が別の人間の主張内容を「否定する」ことがあり得ないというのがネット空間であるというのがナンセンスであるならば、その否定をすることがネット規制の肯定に繋がるのだ、という主張はなおさら無意味な言表行為ではないのか。ところがネットではその否定に対して意味を持たない言及を相互参照することが可能であり、かつその否定が何らかかわりのないやり方で論理的な意味内容を解釈違いにすることがシステム的な操作案件の事情だ、と主張することも許されているのでなければならないのである。つまりネットで情報の真偽を確認することが無意味なのではなくて、情報の真偽命題が構造に関わりのない言説規制で埋め合わせることができるという言表行為が意図的に宣伝として持ち上げられることで称賛として流通することを承認=論証と取ることが間違っているのである。政治的ディスクールで「ネットの表現規制」について語ることはネットの表現がいかに規制されているかを追求していくことと無関係に主体を代理代表象することができ、かつその言表内容にいかなる意味の真偽性もなくても賛同を獲得できるということが「超越的」なのであって、情報の真偽が真理の存在論に対して偽である享楽を語ることの実践としてシニフィアンを主体化することが言表内容を「汚染する」のではない。それは「私は嘘をつく」という行為がメディア上で引用されることが正しいと見なされる言表内容の一部をシニフィアンとして確実に参照できる、という技術的位置をトポロジーとして定める時の方法であり、言語的な「汚染」がどの超越的な主体に属しているのかを「構成する実体」として説明するための「学術的」主張内容ではあり得ないのである。
真偽命題の性差記入が必然的に存在に対して偽の享楽としての情報を無意識の構築としてもたらすとしたら、語る主体が差異を規定するのは情動に対する表象の世界性においてではなく、表象が抑圧される他者の言語構造における裂け目にあることになる。だから差別とは「他者を存在の述語で定めること」に身体の裂け目としてあるのであり、そこから存在の「在る」と物の「実-在する」はどのように異なるのかを情報の真偽からいかに余計に語るべきなのかという要請が生じる。このことは商品と隠喩はどのような換喩的な表象で主体を代理代表象しているのかを問うことである。まず商品は「自分を買ってほしい」と思っているのかどうかを考えてみよう。物としての商品を考える時、この真偽は明らかに「偽」である。ではある売り子が商品を「買ってほしい」と言っているときに、売り子は自分を商品のように扱ってほしいと言っているのか。明らかにそうではない。しかし我々はその商品をその売り子の語りに応えるかのようにその商品を在らしめることができる。つまり隠喩の水準でその商品が自分を「買ってほしい」と言っているかのように商品を購入することができる。しかしこの存在は貨幣を代金として払わなければならない。つまり商品の「買ってほしい」に応えたことの無意味な結果として貨幣が別の商品の語りに応えることの不可能性としてその損失を受け入れなければならない。ここで商品購入者が別の商品に対する語りに「応えなかった」と主張することは偽であるにもかかわらず、商品の代金を払う時には、「常に」別の商品に対する語りの無-結果が意味として産出される構造が付随してしまうという点にシニフィアンが連鎖する要素がある。この「買えなかった」商品の語りが享楽として別の意味作用の要素に変換されるところに換喩が商品に対する評価を再現=表象する反実仮想の基準が存在する(例えば、あの店にもう一度行けばもっといいものが買えたはずだ、とか)。マルクスが間違っているのは、商品購入者は「常に」自分の利害関係の人格的カテゴリーを代理=表象する、と考えているところにある。つまりシニフィアンが「常に」別の商品の語り-主体を連鎖させてしまうところを個人的な利害連鎖のカテゴリーが欲望の搾取形態から時間的に連続することを他者の欠如存在=貪欲さとして記入してしまっているのである。商品交換の形式的平等性が人格的カテゴリーとして同等なことから利潤化した商品を退蔵することがなぜ貪欲さにつながるのかということの説明は商品を購入できるポジションを維持することだ、と想定されているのだが、それが享楽を禁止するのは明らかなのだから、いくら利潤が形成されていても別の誰かの利潤を投資として資産形成をするだけではなぜ商品から別の商品の主体が新しさとしてもたらされるかの説明にはなっていない。つまりマルクスの説明では新陳代謝による消費者の貪欲さに訴えるしか新しさをもたらす方法はなく、それが必然的に欠如存在の状態を貧困として代理=表象するから、それは資本家の罠であり、身体の労働時間に対する余剰性を産出しているだけという結論になるのである。しかし新しさがシニフィアンを別のシニフィアンに代表象することの主体的な亀裂から連鎖するのだとしたら、問題は商品を単に時間的な連なりとして欲望することではなく、その商品が享楽の構造的な位置を欲動の昇華として表象代理する地点から貨幣の換喩性を別の商品に対して無時間的に代理しなければならないのであり、単に欲望の再現=表象が最高の快楽として代理的に繰り返されるだけではルアーの捕縛に対して貨幣が消尽する結果しかもたらさないことになるのである。
無意識はコミュニケーションを他者のメッセージの反転から構造的に送り返される言語として主体化する、というのはどういうことなのか。これはどの商品が「自分を買ってほしい」という隠喩のメッセージを表象代理として貨幣の代理代表象が欲望として語るのかが換喩的に所有関係から主体的に部分欲動として反転していること、に関わっている。まずaという特徴の商品Aとbという特徴の商品Bがあると仮定しよう。AとBの価格はまずは同じだと規定する。このとき私はAの商品を買いたいとすれば、そのことを表現するための言語は「私はaという特徴が好きだ」というものになる。これは私がaという属性の語りの主語として持っているということに必然的に包摂されるのではない、ということが商品の存在として述語的に定められることが所有している貨幣としての損失を受け入れるための条件でなければならない。というのも、もし私がBを買わないための理由として「私はbという特徴が嫌いだ」というものであれば、それはBが存在として嫌悪すべき対象であると言っているのと同じことになるからである。明らかだが、私がBを買わないのはbという特徴が嫌いだからではなくてbという特徴に興味がないからである。しかしAを買ったことでbという特徴に興味が出ることはシニフィアンの連鎖の換喩性から貨幣の代金の享楽として産出されることがあり得るのであり、そのことはbが好きになれるかもしれない対象としての地位を、嫌いであるという他者からのメッセージのコードから反転した形で送り返されることで主体化されるのである(つまり宣伝手法として別の商品の特徴を他者に悪く言わせることで、その商品に有意義な特徴を持たせる語りのパターンが存在しているということ)。もちろん、そのメッセージを聞いた主体が「必ず」シニフィアンによって送り返された商品の特徴を気にいるわけではなくて、単にそのことでAとBの商品に興味をなくす、ということもあり得る。ただしそのことはCというbの特徴を持った商品を気にいることがないという意味ではない。さてここまではAとBの価格は同じだという規定に沿って考えてきた。ではもしAとBの価格が異なるとしたらどうなるのか。まずAとBが効果に関して単に包摂関係にある場合は価格に対する特徴がaやbの性質を決定することになるから選択の余地は存在しない。価値の劣った財を相対的に高い値段で購入する意味はない。問題は商品の述語規定が他者の存在の言語表現に隠喩的な重複を性質として含まざるを得ない場合にある。例えば自分の好きな売り子が相対的に価値の劣った財を販売している場合には、「必ずしも」そのことで相対的に価値の高い財を「商品の特徴として」購入しなければならないわけではない。ただしこのことは商品がシニフィアンの性質として偽の価値を持っていることとは区別されなければならないということが重要である。安物の紙に印刷されたイラストと高品質の紙に印刷されたイラストにおいてはイラスト自体に安物という評価が下されることにはならないが、だからと言って印刷される紙が高品質であった方がいいことに疑問の余地は存在しない。逆に言えば高品質のイラストが印刷されていることが紙の品質が悪いことを正当化する理由にははならないということである。商品の価値の真偽関係は要求される対象の品質水準の表象的差異規定に存在として在るのではなく、購入者の特徴的な選択に対する享楽の価格水準の高低に関する質的違いに実在する。このことを主体の存在の述語規定にしないことが重要である。現実的に高品質の紙を用意できないことがその人間存在の価値を評価するための条件であってはならないということ。この場合の反転したメッセージは商品の「買ってほしい」というコミュニケーションの努力の不在ではなくて、現実に資力に対する欲望の価値規定が欲動の昇華に対して現実水準の実現を拒んでいる、ということを貨幣の換喩性が性的享楽の欠如対象として幻想に構造化するということである。したがって性的な欠如対象と物の実在性の対象の座が欠損していることを存在の差異性として思考してしまうと、単に余剰享楽を楽しんでいる主体が欲望の言語として所有者の
商品の隠喩と夢の症状の隠喩的圧縮が貨幣-存在で代理代表象されてしまうと欲望の主体が欠如対象と同一化するという誤った排除規定を享楽の「振替口座」の換喩的な対象の表象代理として善の適応水準に再現=表象の二重の結果を無-意味に与えてしまうこと。欲動の昇華の可能性が善の侵犯に基づくという帰結から、性的な享楽の構造そのものを去勢否認の幻想にフィクションの価値として設定して、欲望の余剰享楽を反転した権力のメッセージから代理してしまうという構造を世間的評価の「高さ」として他者の亀裂を挿入してしまうという主体の疎外をもたらす。当然他者の享楽は満足の語りの欠如に基づいているので、完全な快楽に達しないという資本主義の命題を無意識の欲求不満の隠喩不在から善-貨幣を剥奪して、それを享楽の自我に従属しているという倒錯の教化として欲望を消費の欲求に馴化するという画一化の記号的統合を心的な和解として説明することになってしまう。したがって問題は現実原則の快楽-欠損の資力不足から圧縮された隠喩の不在を貨幣表象から再現するのではなくて、表象代理を欠如対象の性関係の不在から言語的に部分化していくことが欲動を無意識として構築するための享楽を主体化する方法であるということになる。この場合、善-フィクションが享楽の侵犯を功利的な財の保存から確実に検閲してくるという権力のカテゴリーの境位をずらすために夢の圧縮をアーキテクチャの明示的なスキーマ構造としてリンクすることが必要であり、かつ法の現前を直接的に違反しないための分節化として換喩の存在をエクリチュールの身体として部分欲動の対象を去勢から分離する必要がある。このことはエクリチュールによる文法的な換喩の説明を存在の実在性の根拠として用いてはならないということを意味しているのでなければならない。なぜなら商品の隠喩として用いられる素材の部分対象は換喩としては欲動の性的享楽を形態の新しさとして産出することで貨幣のシニフィアンを別の他者の購入可能性として存在に亀裂を入れることで去勢を規定することができるが、エクリチュールの表現内容自体に去勢としての実在を設定してしまうと、単に貨幣の享楽の欠損を価格の対象の値段で実現可能性を測ることしか意味しないことになってしまい、結果的に現実の障害として建てられた資力不足の困難を性的幻想の欠如のなさで実行するように身体的に追い詰めるという帰結になるからである。知識専売-商品の自給自足体制と金融貨幣の価値増殖過程の妄想は象徴的なものを特定の現実存在の家族関係から演繹して性的な主体を分割して財のカテゴリーで分配するという神話的エクリチュールを主体の音節化の拍動の袋小路として機能させるため、隠喩と換喩の水準の違いが性的な享楽の悪-性として預金的に重複してしまい、背後にある存在のメタ言語を物語のように他者化するしかなくなってしまうからである。精神分析が「メタ言語はない」と規定しているのは無意識が完全な語りとしての性関係の不在を近親相姦の禁止の意味作用のシニフィアンから構造化しているからであり、言語の統辞的な代理=表象から音節の差異生成を行っているのではないからである。だから家族関係の隠喩が父-母の代理として息子や娘が性的に欠如した大人の成り損ないとして「全能の他者」から欲求の欠如不満を子供化されるのではなくて、シニフィアンの主体的な去勢の構造的な位置から父の換喩としてのファルスが父の名前と隠喩の父性として分裂していることに性の言説化されざる主体の特異性が死のシニフィアンの喪失に向かって象徴的に開かれていることになるのである。だから神話的な他者は善を剥奪する特権的な対象の側にではなく、アーキテクチャ構築の表象代理のネームの場所にトポロジーとして去勢されたデプロイユニットのキャラクターとして記入されているのでなければならない。そうでなければ「器官的に」去勢された存在の一-性がレクチュールの声を自然的な換喩の擬態としてフェティシズムの倒錯を政治的ディスクールの供儀からファルスを穢れ-汚染として神秘化することになるからだ。
享楽を対象aに同一化する男性のアダムのあばら骨の神話と享楽を勃起器官として想像されたペニス、あるいは現実的機能とは正反対のペニスに還元する操作はシニフィアンとしての女性が剥奪された去勢とシニフィアンとしての男性が欲求不満として抱くペニス羨望を生じさせる。太陽中心主義とコペルニクス神話が天体の楕円軌道に基づく知の変化を中心性に関する自己意識の変化に置き換えてしまったということの折衷性の理想として知性の産婆術が現れる。ここから余剰享楽の監視の視線が産み出される。このことから快楽の過剰労働という誤ったイマージュが結び付けられ、現実の不能の能記と電力供給のシニフィアンが流通言説に追いかけられることで、その欲望の周回性を他の誰かが享楽に関してナルシズムの対象と区別されたやり方で対象を享受していると父の女性像を創り出してしまう、ということ。この説明はなぜ女性享楽は「それ」を視ることではまったく満足に達しないのかを十分に説明することができない。それはペニスの代理=表象を見ている私を見ることで再現=表象のペニスが満足することは男根の思考としてあり得るが、女性身体を視ることで代理代表象された女性身体の器官が満足することは「誰にとっても」同じ享楽の表象代理としてではあり得ないからである。では自我リビドーはどうなのか。自我リビドーは男根的な大文字の他者が神話的に溢れた快楽を「分散して」身体器官に「保存して」いるのか。大文字の他者が物語の快楽原則の彼岸で悪疫化した享楽を排出させているのだろうか。男性の享楽の場合、排泄物と快楽の残滓を汚染された欲望として他者に負担させることでその責任行為の履行の満足を「非-差別的」歴史性に金銭化するのである。女性享楽の場合、それは現在の時点での空想的な実在が現前しているかどうかでしかそれが感情の言葉として表出することにはならない。つまり己の感情の代価を剥奪された善の基準で測定されることで差異的な存在が痛めつけられるということである。ということは女性は己が摂取する快楽の身体水準では、それは「汚染された食物」の記憶を引き続ぐことでのみ、男性との契りの約束を想起させるようになる、ということである。つまり食物が性に汚染された快楽を持つことができないのなら、その快楽の水準を現実的な換喩として欲望を維持することはできない。一方で男性は食事の汚染に関しては、快楽が視線の対象の側に来ることを欲望の持続として考えるだけで剥奪された快を不快の隠喩にすることはない。放射能汚染ではこの議論は成立しない。この神話的対象aが非対称的な議論としてすら成立しないのは、循環概念に関する生態的説明と物理的実在の説明を換喩的に落とすことができないというまさにその点に隠喩的な負債の無際限さがあるからである。そしてこれは評価の多数性による存在の「学問的承認」では解決しない。なぜなら放射性壊変は知的空洞の増殖言説の隠喩ではなくて、細胞の増殖的な基体に性的な空白を実在的に持ち込むものだからである。このことが歴史的ディスクールの空白の侵略言説と重複することで戦争犯罪の性的な汚染-穢れを無効にするための供儀を神話的な彼岸に流してしまうことでミサイルのファルスの隠喩と火の起源の殺害の神話を渡航-星暦の彼方に追いやろうとする空の機能を父のシニフィアンの挿入だと欠如を同一化することによって歴史的他者の眼差しを欺こうとする修正が天皇に敵対する国に自動的に備給されるリビドーの言説と重ねられるということに鏡像的なトリックがある。リビドーは自我の性的な仮説形成の部分欲動を表すための概念なのだから、歴史的ディスクールで用いられる場合には必然的にフロイト神話の誤用が「歴史全体」の男性的享楽に巻き込まれている汚染として女性身体を対象化する欠如表象の代理性の濫用とセットになっていると想定しなければならない。精神分析が占星術を認めないのは、占星術が学問的なルネサンスの発展に大きな影響を与えたことを認めないからではなくて、占星術とはシニフィアンの軌跡と、歴史の他者の欲望とを認知的に繋げてしまうことで主体が代表象する性的な亀裂を生まれと恋愛の出会いの再現=表象に置換してしまうからにほかならない。明らかにリビドーという概念が意味を持つのはこの水準のことであり、実際の民族集団が占星術的な配置から神話的なエクリチュールを支配層の語りとして導入したことを性的に実践すべき(でない)男性神話の一環だ、と主張しているわけではない。これはなぜリビドーが男性側にしかないのかをかなりよく説明する。つまり女性は陰陽思想における陽の気をシニフィアンとしての男根だ、と思い込む誤った理論的配置に囚われることがないからだが、それは女性が男性に享楽の実践の主導権を握られていないという理由にはならないということが、リビドーが自我表象の抑圧を男性として代理代表象していることの原因なのである。これは性別としての女性である人間が「男性的な」自我リビドーを持たないと言っているわけではない。リビドーとしての自我表象が抑圧されるのは民主主義のシニフィアンが男根としてのシニフィアンの分割に主体としての語りを充溢させられないということが男性的な存在の換喩を構成しているということである。だから性的な興味を持たないことがリビドーの減衰を意味しているとかいうことにはならない。無意識が存在の場に性としての欠如から享楽として構造化されているのは、歴史的ディスクールの能動性が挿入される現前と同じ意味においてではないことが男性と女性の能動-受動の対に投影されているということ。実際に起きた水準と神話的な生気の能動-受動の性質の相違の説明から、ただ女性享楽の感情を抑え込む機制が、男性的な語りで抑圧される構造から戦争という汚染的な状況言説においては重複する身体として死の可能性に誘惑として追い詰められる性として開示されてしまうだけなのだ。だからこそ放射能汚染の「科学的言説」が政治的汚染の「無意識の言説」で享楽としての欠如が対象aとして位置付けられることを戦争犯罪と性器官の医療性から分離するためには、アーキテクチャの隠喩的構築にデプロイの独立可能性として依拠するしかないことになるのである。
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