「量子キャラクター」スターターデッキ 壊変ビルド

オドラデク

真理の効果である権力の意志を量子の海に揺らがせる

 王室の遺産である国民主権と普遍的主権の分裂を動物の節句で右往左往して戦争に民族の宇宙性から反対することを国家主権の位置に置く大学のディスクールは現実の抑圧を権力の教育の効果に変換して、その二重の意味の読み取りを代数的な真理の普遍項に定式化してしまうこと。そこから抑圧を蓄積する人間は権力の意志の爆発を欲しているという隠喩の表象効果が社会的な知識の圏域へのイデオロギー的な攻撃になる。この説明の定式化そのものを疑い、壊変するにはどうすればいいのか。芸術的な真理の開けの効果が物理学の方法論的な無知に基づいているということ、逆に代数的な物理学は人間的な抑圧の情動を空想的な症候の産出的言説にしてしまうということ。この二重の説明の裏返し合いを相同愛のパロディの浮動性という遊戯を避けて労働力交換の量子的な揺らぎのスケールに時間的連続性の空間を崩壊させていく構築を分析の道具として商業的なカードゲームを考察すること。構造的な非対称を負量子の回帰的な確率の積み込みにルート化するイベントトリガーのコマンド的な召喚性の主量子のキャラクター権。



 まず最初に考えるべきなのはカードゲームは何を目的としているのかである。経験的に言うとカードゲームは「交換」と「対戦」を求めていると言えるのだが、この「交換」とは今ではカードを「購入する」と「転売する」にしかなりえなくなっている。にもかかわらず、必要なカードを対戦の道具として使うには準備資金がルールを覚える前の足枷になる。思うにこのことが出発点である。対戦と交換の考え方が分離していて、一方に知的遊戯としての子供のおもちゃ的な交流があり、他方に転売と冷徹なデータベース戦略上のトレースと価格的な測定の頻度調査を環境的な有意度の強さをもって開発を続ける計画的な統計がある。問題は労働力身体の交換にあるというのはわかる。というのもカードゲームで問題なのは、その社会的な影響力の悪さの妨害を打ち勝ち、それを一緒にやる友達がいないという障害と、そのゲームが一般的に流通していないという障害を乗り越え、さらにそれを過去のすべてのデータベースから適切なカード所有の選択に基づいて対戦環境についての知識とカードのデッキ単位でのプレイヤー的な腕前を有していることが対戦形式のマナーとしてネットワーク的な時間に要求されているからである。このハードルが高くないということはできない。なので一つ一つ分けて考察していこう。



 なぜカードゲームは子供向けのおもちゃなのか。答えは一つしかない。子供はだ。しかしだからといって知識を用いて何らかの設計構築を行うことができないというわけではないのは明らかである。それは単に身内向けの評価基準であるのではなく一般流通の価値基準において、そのアイデアや発想が認められるのでなければならない。だがそのアイデアがもし本当に社会的な価値実現として認められるのであれば、それは労働力ではなくことになる。ここにボトルネックがある。つまり社会的に「子供である(そう見なされる)」主体が発案するような一般価値流通についての労働力価値の実現形態はで測定されている、ということだ。だからこそ、それを「大人の視線」で見ると、知的満足の学習効率しか考えていないように見えるのだ。子供の夢は多種多様だから制度的基準で抑圧してはいけないとか、逆に社会的な名目を超えるような教材を利用してはいけないという配慮はここからくる。だがこれはカードゲームが「商業的に有害な影響を与えることの副作用」というものを考慮に入れていない。というのもカードゲームが特定の企業の販売商品である限り、仮に子供がそのゲームを支えるための基礎インフラを知的な営為として言論活動にしているのだとしても、その購入を子供が「労働力の支出」として支えることは不可能であるからだ。



 転売とはこの労働力の支出を「子供の価値判断の創出」で支えるための一つの方法であるように思われる。つまりカードゲームのサービスが子供の言論活動に払うための代価を環境的な熱狂の高騰水準に対する頻度分析で補っていることの結果として一般的な価値流通の価格が脅かされるという悪循環である。販売企業としても販売店舗としても「大人」がこのために大量の箱を買うことは売れないカードゲームが流通を保つための手段だと認識しており、ただ人気があるカードゲームに対しては購入制限がかけられなければ一般的な販売そのものが言論環境の対戦として成り立たなくなるから予約が必要になる。しかし少し考えると、ある環境条件の箱一式を購入して、自分の構築に必要のないカードを売って別の必要なカードを買うための資金にするという形式そのものは決して間違っていない。問題があるのはカードそのものを使って投機の真似事を可能にするような価格形成の基準のほうにあるのは明らかである。しかし誰かが大量のカードを箱ごと買って、それを各店舗に一定の価格で売り、それをシングル価格としてパックから購入するための期待値に変換するという作業そのものは必要不可欠である。仮にその「誰か」が赤字覚悟の各販売店舗だったとしてもである。これがないと、常にすべてのプレイヤーはパックから購入した分のカードしか所有できず、それは結局は大量の資金を持っているプレイヤーだけがデッキ構築の戦略を練ることができるというになるからだ。



 ここで構築の基準とは別のリミテッドという限定的な基準について考える必要がある。もしカードゲームが対戦の水準だけで機能する言説なら、シールド戦やドラフト戦のようにパックから確率的に封入されているカードの知的選択のみから仮のデッキを作り、対戦相手を募集してゲームを行うという形式の方が、「純粋に」ゲームを楽しむための手段として優れているのは間違いない。というのもわざわざ大量にあるデータベースの中からカードを選んで購入するというのは手間だし、それと同等の基準を満たしているかもしれない別のプレイヤーを見つけ出すのはさらに大変で、その人と出会って対戦をするという機会を持つのは相当難しいからだ。したがって、カードゲームにおいて大会(あるいはパーティ)が開催されるというのは本質的である。もしゲームを行う水準が身内向けの対戦交流会というものでしかないのなら、カードの購入は知的遊戯の域を出ず、言論活動についての報酬が価格として流出するようなこともあり得ない。単に高価なトランプを買っているのと変わらなくなる。これでなぜカードゲームが「貴族の遊戯」であるべきではないかがわかる。高いトランプを買って遊ぶことは放蕩の問題であって、その循環的原理は節制でしかありえないからであり、あるデッキ構築を一般的なデータベースアクセスに名称空間として登録するというプレイヤー選考の確率をテキストの心理効果の興味本位に還元してしまうのだ。この個人的利益の願望的な充足の断片的な表象関係を社会的な価値実現の一般形態の集積にではなく購入可能な経済的財の装飾的身分規定として言説の一意性を保証するこそイデオロギーが社会に果たす役割にほかならない。



 綺麗な絵柄が描かれたトランプのカードと綺麗な絵柄が描かれたカードの価格が同じである場合、この二つのカードが持つ労働的な価値実現は同じであると言えるのだろうか。それが同じであるのはイラストレーターの努力においてだけではないか。しかしカードにテキストが書かれているということがどうして価格の違いに繋がるのか。例えばトランプのカードに人気のキャラクターの台詞を書き添えてサインをつけて販売した場合に、それは同じことがなされたゲーム的なテキストを持つカードの価値と同じ評価をトランプに付けることができるのか。商品の一般的価値形態の流通においてはそうではない。これが本質である。いくらトランプの付加価値が高くても、それが価格に反映されるのは需要に対する稀少性においてであって、テキストの有する言論性のゲーム的実践の価値評価においてではない。したがってカードゲームがコラボの価値を言論環境の生成として取り入れる時に問題になっているのは、そのカードゲームが一般流通としての価値形態を維持できずに別の流通の価値形態を話題として取り入れようとしているということにほかならない。なぜカードゲームが一般流通の形態を失うことがあるのか。それは需要に対する反映が労働力交換の身体的不可能性という構築的基準の対戦にではなくて、コミュニケーション流通の知識圏にの囲い込みをしようと考えることで、を保とうとするからである。しかしカードゲームにおいて顧客満足度調査というものは商品自体の品質として機能が実践されているのではなく、あくまで交換の形態において企業独自の表象的な構築基準が身体的に流通しているということであるから、意見の反映はサービスシステムに対する不満としてしか与えられることはない。これは汎用的な記述ではなく否定的な有用性を面白さの反-効果として誤解することになる。だからアクセス記憶の移動可能性がデジタル化で封じ込められるという誤った因果推論の経済的格差からデジタル世界への旅行代理販売が互恵関係の持続を露呈することになるのだ。



 カードゲームのデジタルサービス化というものはどこまで本質的なのか。カードゲームがアーキテクチャの構築原理に基づいてデータベースの集積を行うワークフロー管理のバリエーションに記憶としてのコマンド操作をスループットで主体化するスキーマ形象のリンクネットワーク的参照値であることはかなり有意義な比較対象の言説である。そうであるにもかかわらずカードゲームにはプレイヤーの身体というものがどこまでもついて回っている。カードゲームをIPアドレス値だけをランダムにキャッシュして、対戦形式のマッチングを実現させるサービスのポイントレース化に動画を「アップロード」してしまうことの弊害は何なのか。それは明らかに集金方法の提示がゲームをに比例するような労働力価値にではなく、単にマッチング形式の付加価値に対してパッケージ化された追加金投入の税率でバランスシートが設計されることにある。我々はすぐにこう言いたくなる。そんなに毎日ゲームばかりやっている暇はないし、もしお手軽にすべてのカードをアクセスできて、足りないカードをポイント的に生成でき、対戦相手も随時募集できるようなプラットフォームに定期的に課金できるのなら、それに越したことはない、と。しかしそれは労働力の一般価値流通とは分離した形態においてである。サーバーのメンテナンス費用を賄うための値段設計とポイント追加の知的労働の言説生成は根本的にガチャのシステムと同じで、どこで課金をして対戦に勝利し、環境を正確に読み切るか、という条件にかなりのレベルで最適化されてしまう。これを調節が効くように中途半端に弱体制限とか、使用制限とかをかけても大した有意性にはならない。ということは価格設定の問題は完全に統一規格のレアリティで表示されるしかないので、かえってハードルが高くなってしまう。もちろんすべてをデータベースアクセスだけに集約できるということは移動身体の制約を無視できるということなので、適切な効果の理解と使用方法についての学習を行えれば、デッキ構築の費用は抑えられる。だがそれは文字通りの意味で機械学習の知的満足度の応用にプレイヤーの身体が成り下がってしまうのだ。



 そもそもカードゲームを社会的な貢献性として実践する意義はあるのか。この答えは「それは存在しない」ではなく「マイナスのイメージを一般的流通にするための悪影響として存在する」というものである。どういうことなのか。もしカードゲームが健康に良く、頭がよくなり、お金も稼げて、家族のためになり、コミュニケーションのための適切な手段となるような収益性を労働力として実現できると仮定してみよう。我々はどう考えてもそれは詐欺であり、気持ち悪く、新興宗教の一種だとして排撃するだろう。だからといってカードゲームをやる場所をなくそうとか、その人たちが悪い人間だとか、社会的に無駄なグループを作って騒いでいるだけだ、とは言わない。そう言えるのは社会的な貢献性の権力を遊戯活動として実践できると思い込める真理の効果においてだけである。思うにカードゲームが願望の価値実現を担保しているのはこの真理言説に対する反-権力的な労働力身体の交換性を犯罪的でないやり方で技術的な構築から抑圧の効果表現として公開するという機能である。だからカードゲームを単に身内でやるだけでは十分ではないし、大会で表彰されることが社会的なステータスの一種だ、とも言えないのである。したがって商業用カードゲームが一般流通形態の社会的悪影響を担っているのではなく、コミュニケーション流通の生態圏的なレガシー体験を知的生産の意味として名目価格の世界観で共有している、という状態だと、金儲けの悪影響を技術的な転売原理の家族的収益性を隠れ蓑にして子供の娯楽という名目を利用している悪友的な学習への逃避だ、という脱-権力的な代理表象として構成されることになる。疑いなくがろくでもないのである。



 私がカードゲームにおいてカードをことが本質的ではないと考えている理由はここにある。カードを販売的な形態でテキストを重複させないようにしようと努力すればするほど余計な労力を環境全体のバランス調整に割かなければならなくなる。本質的なのはカードの構築的な基準から自分の真理の抑圧的な権力性を効果の機能に分解して、それを一般流通の労働形態に価値実現としてデッキ的なアーキテクチャを持ち込むための心的努力を測る尺度が他の抑圧的な心情を持つプレイヤーとの対戦という形式で満たされるということである。これが傷のなめ合いにならないようにデータベースのレイヤー的な標準に対する知的な分析や測定頻度の統計的な環境調査が客観的な指標として要求されるのでなければならない。逆に言うと抑圧的な機能を持たない労働力身体がカードゲームにアクセスする手段は観戦だけなので、大会やコミュニケーションのアクセス手段をだけということになる。ナビゲーションシステムの分類項は抑圧の効果を社会的なサービス手段の不手際と混同させないためにある。だがこの説明は抑圧をそれ自体真理の効果と見なす社会的普遍項の政治操作と同じ基準を反復しているだけではないのか。カードがゲームの負の影響として社会的に認められた一般流通の形態であるというのは当然のことではないし、そのことを抑圧の効果表現が無害であることの口実として権力を容認する追従の道具にすることを正当化することもできない。だからカードゲームが価格として経済的な市場に介入するときの形態はキャラクター的な身体の曖昧な性化に掛け金としての欲望を喚起させる離散的な準位を労働の電子的なエネルギーとして識別名のと抑圧の空孔を恋愛的に交換するときなのだ。



 離散最適化という戦略をアルゴリズムは本来的に持てないということがカードゲームにおいてキャラクターカードの量子化に要求されていることだと思われる。もし空想的な症候を貨幣フェティッシュと同じような形式からカード商品に恋愛を要求するのなら、それは単に画像生成を欲望の認証に合わせるようなイラストレーターのトレースが求められている振る舞いであって、カードゲームをするかどうかは二次的なコンテンツ消費の流用性しか持たないということになるだろう。抑圧的な分析において重要なのは空想が常に性や死の断片的な羅列として、記憶障害や言い間違いなどの力動的な原因を形成しているということである。だからもし心的な抑圧がカードゲームの勝てない原因を認識できないようにしているとすれば、その悪影響の割り出しから、特定の効果の記述を持ったイベントテキストが量子キャラクターによって有効な実践になるように命令を入力していかなければならない。そのことは自分自身が好みとして反映させているような外的な投影からデータベースアクセスの選択因子を環境的な戦略に汎用化できるタイムラインの類型として物理的な設計原理を確率的に構築する手がかりになる。社会の外的な憲法が誤植的な動機で説明されている際にも、その指示系統が名称の系列性ではなく、記号的な代替形成の抑圧委譲に差異化されている状況では、タイムラインの歴史認識は音節的なすれ違いを自己身体の循環連鎖から維持できるような幻想の見かけとして身分的な態度の真理を設定して、その暴力を敵の破壊的継承の権力に「なすりつける」崩壊の召喚性としてキャラクターの呼び出しを美的な芸術の意志に交換してしまうだろうから、それがカードゲームの対戦形式において壊変サイクルの揺らぎに負量化されるように経路積分のダイアグラムとして離散的な戦略の構築を促されなければならない。仮にそれが核兵器の国家間条約の象徴的な亀裂の資本形成の人格的ギャップからあまねく軍隊が身内の原理から平和的に解散され、法的にになってしまう危険性が世界の背景の星座を蒸発させる地平線として量子的に結婚になったとしても、回帰するトリガーの分析は真理への愛が排出されるまで権利として終わることを知らないだろう。

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