出会い

 征一と朔之助は、朔之助の古書店の二階部分に同居している。家事は朔之助、主な収入は征一の原稿料ゆえ、労働は主に征一、という分担の生活をしている。もっとも、いまは征一の収入が安定しないので古書の売上で糊口を凌いでいる。とはいえ男のふたり暮らし。食費と煙草代だけあればそれなりに満足であった。


 なぜふたりは同居しているかというと、単刀直入に言えば男色関係にあるからである。放浪中であった征一が、数年前に感冒を拗らせて倒れているのを朔之助が看病してやり、そこからなし崩しにそうなった。お互いにぼんやりとこのまま添い遂げるのだと思っている。そんな関係であった。


 今朝は珍しく征一が店先に出ていた。“前田壱加”に本を返すためである。汽車の線路を越えて女学校の近くに店を構えているのはこの古書店と新しくできたばかりの洋食店くらいだ。出ていればきっと見つけられる。


 顔を覚えてはいないが、彼女も本を落としたことには気がついているはずである。本を持って突っ立っていれば声をかけてくるかもしれない。行き過ぎる女学生の群れをつまらなそうに眺めていた。



 昨晩、壱加は家に帰り着くなりしこたま叱られた。わかっていた叱責を浴びるのは退屈だ。それに自分が悪いとは思っていない。お母様がわからず屋なのがいけないのだ。そうでなければ自分は家を飛び出すことはしなかった。雨が降っているのも濡れたのも自分のせいではない。傘を差して呑気に家出をする人間がどこにいるというのか。


 適当に返事をして、銘仙に着替え、女中がだしてくれた夕食を食べると、自室にこもって梓からの手紙を読み返した。


『 愛するお姉さま 


 金木犀の香りが濃くなってまいりましたわ。お姉さま、金木犀の花言葉はご存知? “気高い人”というのですって。お姉さまのことみたいね。お花は小さいけれど、薔薇よりも良い香りがして、わたし木犀のお花がだいすきよ。雨が降ると流れてしまうのは残念だけれど、その潔さも含めて、お姉さまみたい。

 わたし木犀の香りを嗅ぐたびにきっとずっとお姉さまを想うことにするわ。どんなにお姉さまが遠くへ行ってしまってもわたしきっと想い続けるわ。 


         青木 梓 』


 梓からの手紙は、金木犀の絵が小さく描かれた紙に丸い可愛らしい字で、壱加への愛が溢れていた。


 壱加はため息を洩らした。なんて可愛い、わたしの梓……。同時に自己嫌悪にも陥った。わたしは梓が言うような気高さを持ちうる人間だろうか。気高いとはなんだろうか。身分の差がそう思わせているだけなんじゃなかろうか。わたしがもし梓と同じ平民だったとしたら、梓はこんなことを思ったろうか。


 考え出せば、止めどなかった。早くお返事をしたためたり、今日の分のお勉強をしなければならないのだけれど、簪を折られ、それを落としてしまった衝撃でなにも手につかなかった。


 結局なにもできないまま朝になった。十分に寝てすらいなかった。


「お嬢様、そろそろ出ませんと」


「……わかってるわ」


 扉の向こうからアヤが声をかけてくれたのを適当に流して、海老茶色の袴に着替える。なに一つ終わっていない課題を抱えて、家を出た。


 通学は俥で、アヤが学校まで付き添ってくれる。あくびが止まらない壱加を見かねて、学校につくまで少し目をつぶっていたら、とアヤが言ったが、寝る気分でもなかった。



 線路を越えた辺りで、壱加は俥を止めるように言った。


「止めて、早く」


 引手は少し焦ったようにやっと止まった。壱加は颯爽と飛び降りると、古書店の入り口に突っ立っている男に声を掛けた。


「お嬢様、なにを―――」


 壱加はアヤの止める声など聞こえないようにやや強気に話しかけた。


「その本、わたくしのですわ」


 男は、ああ、と笑って


「確かに昨日のお嬢さんだ」


と言いながら本を手渡した。


「本だけでしたか? 」


「……浦部征一、好きなのかい」


 男は話を逸した。少し嬉しそうな、悲しそうな、複雑な顔だった。


「……ええ、それがなにか」


 壱加が怪訝そうな顔で返事をすると、男は気恥ずかしそうにくしゃりと笑った。


「いや、僕も好きなんだ。それだけだよ。昨日は簪が一緒に落ちていた。折れた簪がね……。あれはもともと折れていたのかな、それとも――」


「あれは、もともと折れておりましたわ。安物ですし、あなたが心配するような代物ではございません」


「そうか、ならこのまま返したほうが良さそうだ」


 男は白い半紙に包んだ折れた簪を壱加に手渡した。漆塗りの黒い軸が、半紙に透いて見えて、悲しかった。


「ありがとうございます、お手数おかけして申し訳ございませんわ」


「迷惑だなんて思ってないさ。風邪は引かなかったみたいだね、よかったよかった。僕の声がまるで聞こえないようだったから」


「あら、お恥ずかしい……」


 そのとき店の奥から声がかかった。


「征一、そろそろいいだろう、手伝え」


 男はあからさまに焦った。


「……征一…? まさかとは存じますが、」


「お朔、あともう少し待ってくれ……」


「貴方は、浦部征一先生では……?」


「……あぁ、まあ、そんなところさ…」


 顔を見ると、幻滅した、と言われることが多い征一は、敢えてあまり顔を出さないようにしていた。童顔なのが自分の中でコンプレックスになっているのだった。


「幻滅したかな……?」


 壱加はそんなことよりも憧れの作家が目の前にいることが嬉しすぎて一瞬わけがわからなくなった。


「いえ、そんな! お会いできて、というよりも、こんな近くにいらしたのになぜ気づかなかったのでしょう……光栄ですわ……」


「名札をつけているわけでもあるまいに、気づかなくて当たり前だよ……ほら、お女中さんが痺れを切らしているよ」


 振り向くと、アヤが珍しくしかめ面をしていた。


「また度々こちらに寄ってもよろしいかしら」


「もちろん、華族のお嬢様が気に入るものがあるとは思えないけどね」



 俥に乗り込む頃には、学校の鐘が鳴る時刻になっていた。アヤも引手も相当痺れを切らしていたらしい。ぶつぶつと小言を聞かされて、うんざりしたが、本と簪が入っている懐はほんのり温かかった。

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