8-3

「じゃあどうして、まだ船に乗らないんですか? 会社で働いている人と違って、体力がある限り船には乗れるんではないですか?」


 享は人の話を聞いていないようでよく聞いているんだ。昨日言っていたことは嘘ではないらしい。お爺さんはにっこりと笑って、左手が義手であると言った。


 初めてそういう人と会った人がそうであるようなリアクションをしてしまい、私と亨は顔を見合わせて苦笑いしてしまった。お爺さんはどこかから煙草を持ち出してきて燐寸で火をつけた。


 昨日と同じ、甘い香りが漂う。亨が吸っていたのも変な香りだったけれど、お爺さんのも相当だと思う。なんだろう、この香りは。


「なんすか、これ?」


 亨が私の代わりに聞いてくれた。今日の亨は、昨日と違ってエスパーの様だ。私が思ったことを全部、代わりに聞いてくれる。おじいさんはまたにっこりと笑いパッケージを振ってみせた。亨は受け取って火をつけた。


「この煙草はぁ、波乗りの連中がよう吸っとんだ。海を見ていると、同じように海が好きな連中は必ず話しかけてくる。そうして仲良くなった若いのに教えてもらったんだ。どうだ、美味いだろう?」


 亨は曖昧に頷いた。きっと好みではないのだろう。


「昔はな、ここいらあたりももっと栄えてたんだぁ。街がじゃなくて、海がな。だんだんと街の方が大きくなっちまって、気がつくと海の出る連中の方が立場が弱くなっちまった。いつからだろうなぁ……俺が若いころは今日と同じ明日が来て、それがずっと続くもんだと思っていたんだぁ。ところがある日、ほんの少しのことが気になった。いつもと違っていたんだ。でも当時の、馬鹿な俺はそれが何なのか手にとって調べようとすらしなかったんだぁ。気がつくといつの間にか立場が変わっていた。んで、俺はぁ、それから肩を小さくして生きてきたんだ。そうしていたら肩を広くする方法だって忘れちまった。気がついたら、もう爺さんだ。いつ死んだっておかしくない爺さん。海で左手を無くした。そんでも海が好きだからこうやって生きている。街の連中を否定しているわけでもない。俺の声は昔から小さいんだ。こういうのだって、きっと、侵略って呼ぶんだろうだろうなぁ。頭でしか物を考えねぇ連中は、人の話を聞かない方が偉くなるもんだ。おめえさん、俺のいっていることの意味分かるか?」


 お爺さんは明らかに私の方を見た。


「少しだけ」


「少しでも、分かればてぇしたもんだ。おめえさん、偉い頭がええみたいだのぅ」


 お爺さんは甘い香りを吐き出しながら一気に話をして、そしてカカカッと豪快に笑った。歯が何本か抜けていた。聞いたらきっと『海で無くした』って言うに決まっている。


 亨は曖昧に頷いて、お爺さんが吸い続けている煙草(金色のパッケージにはグダン・ガラムと書かれていた。どこの煙草なのだろう?)を貰ってずっと吸っている。


 部屋は異様に甘い香りが満ちている。どうしてか窓を開ける気はしなかった。楽園……煙が天井に浮いている中で、そんなことをふと思った。でもそんなはずはない。


 こんな煙草の煙だらけの場所が楽園であってたまるか。煙いったらありゃしない。だけど、お香のような甘い香り、まるで雲の中にいるような煙の浮遊感。そして亨とおじいさんのよくわからない会話。そんなに嫌いじゃない。


 私はそこに入る気がしなくて、でも他にやることもないって状況、意識を保つためには何かで気を紛らわせるしかなかった。スマートフォンはこの場に似合わない、そんな気を使う必要なんてまるでないのに、それを使う気にならない。


 カメラがあれば良かった。特にフィルムカメラなら、時代錯誤な感じが丁度良い。でも今はない、忘れた。大事な時に大事なものはいつもない。そう言っていたのは誰だっけ? 亨だ。どんな人間でも気の利いた台詞は一つは言える。でも私は言えない。どうしてだろう、知らない。


 彼らの話は弾む。私は窓を現実を取り戻すために扉を開ける。外の冷たい空気が部屋に入ってくる。煙は少しも減らない。この少し先に海がある、手を伸ばせば届きそうなくらいに。こういうところで暮らしたらって、何度目だろう、そう思うのは。


 実際にそうなってみたらきっと色々な苦労があるのだろうけれど、これは空想だからそんなことは思考に入れる必要がない。部屋の空気が入れ替わっていく。きっと人生だって、ある時にはこうやって換気をする必要があるんだろうな。今日は私のそれ。


 だから自分のこと以外、何も考えたくなんてなかった。こんなに自分に近づいたのは、いつ以来だろう? ううん、多分初めてのことなんだ。こういう日が来るのをずっと待っていたんだ。私たちがいるこの部屋は、居間に当たるみたいで、隣の部屋に仏壇があるのが見えた。誰だろう、若い女の人だった。


「あれは、何年……何十年前に死んだ女房だ。いい女だった。あの女さえいれば他には何もいらないって思えるくらいいい女だった。だから結婚したときは嬉しかったんだぁ。今はもうこんなろくでもない爺だけど、あのときは俺の頂点だったな。でも結婚して三年たったときに病気で死んじまった。信じられんかった。俺も死のうと思った。実際、海に飛び込んだよ。でも同じ漁師の仲間が飛び込んで助けてくれた。陸に戻ったときそいつから思いっきり殴られて、頭をぶつけて病院に行った。おもしれぇ話だろうぅ? そいつも去年死んじまった。もう俺たちも年だからなぁ……俺だって、あと何年のこれっかなぁ」


 そう言って、お爺さんは煙草を吸い続けている亨を見た。

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