眠りに就いた魔王、魔力が無くなってただの人間になってしまう〜今度は魔王なんて呼ばれない〜

江戸虎楠

プロローグ

1話目

「ん……あれ」


 不意に感じた緑の匂いに目を覚ます。けれど顔を出したばかりの太陽が眩しくて、反射的に瞼を下す。手のひらで太陽を遮りつつゆっくりと瞼を開けると、指の隙間から青い空と背の高い木が見えた。


「ここ、どこだ」


 妙に気怠い体を起こす。目の前にはどこまでも青空と草原が広がっていた。そんな景色に胸がすく思いがする。

 どこか見覚えのある景色だが、いつ見た景色なのかよく思いだせない。でもそんな昔の記憶は曖昧でも、直近の記憶は思いだせた。

 俺は城の狭く暗い地下で眠りに就いたはずだった。それは、心身を啄む時がいつか俺の喪失感と絶望を食らい尽くしてくれると信じての事だった。


 だが俺はなぜこんなところにいるのだろうか。ただ目覚めただけなら城の地下にいるはずだ。それに着ている服もおかしい。就寝前は確かに魔法を編み込んだ服だったはずなのに、今では服としての体裁を守っているだけのぼろきれだ。


 けれどこれが夢かもしれないという憶測は、浮かんでは眼前に広がる圧倒的な現実感を前に洗い流された。


「……これからどうするか」


 目覚めてしまったものはどうしようもない。どれくらい眠っていたかわからないけど、ほんのちょっとだけ時が流れたのは、まだまだ泥濘に沈んだままの精神でわかった。

 少しふらつきながら立ち上がる。もう一度眠るにしても、こんな平原では眠れない。


 とにかく城に戻ろうと力を込める。しかしどうしたことだろうか、一向に体が浮かび上がらない。


「な、なんだ。どうしたんだ」


 初めての事態に頭が混乱する。何度やっても空に浮かばないどころか、魔力を操る感覚すらポッカリと空いた穴のように抜け落ちている。

 まるで霞を掴むようだった。いくら手を伸ばしても掴んだそばからすり抜けていく。そもそも掴んだ感覚すらなく、もがいているうちに消えてしまう霞。


「魔力が使えなくなってる……」


 それを自覚した瞬間、落としたガラスが割れるように、自分がバラバラになるような錯覚があった。

 目の前が何も見えなくなる。地面は草は空はあるはずで、それが視界に入っているはずなのに、一つとして認識できない。ただ体を無様に震わせるくらいしかできなかった。


 事態が飲み込めるにつれて、視界の靄が晴れていく。どれくらい突っ立っていたか、まだまだ太陽は登りきらない。

 魔力は俺の全てだった、良くも悪くも。それが抜け落ちた。

 けれどいつまでもこんなところで立ち止まるわけにはいかない。生きていれば腹が減るし、まだまだ死ぬには若い。

 俺は唯一残ったこの肉体だけを自分の頼りにとぼとぼと歩き始めた。





「まあ、そりゃ火も起こせないよな」


 繰り返し指をパチンパチン鳴らしてみるけど、何の変化も起こらない。こんな簡単な魔法も出来ないとは、分かっていた事とはいえあまりの体たらくぶりにため息が出る。

 けれど悪い事ばかりではない。俺の魔法こそが俺をただのタル・イラーリオから魔王タル・イラーリオにしたのだ。その力を忌々しいと思っていたこともまた事実だった。


「さて、これからどうしようかな」


 寝るか動くかの二択だった起床直後とは大きく状況が異なっていた。食料も無ければ武器も無い。金も無ければ、そもそもここがどこなのかすらも分からない。

 これからどうしようというのは、死なないようにどうしようという事だった。装備が何もない今だと、魔物に襲われればそのまま死んでしまう。


 とりあえず周囲に気を配りつつ、木の実で食を繋ぎながら森を歩く。

 そのとき、やにわに森がざわめいた。


「きゃあーー!」


 同時に女の悲鳴が森に響く。

 その声を聞いた途端、俺は走り出していた。

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