第3話 乱世開始
新野へ帰った鄧禹だが、仕官することもなく、実家で無為の日々を送っていた。
一つにはいかに聡明で博学でも、鄧禹は仕官するには若すぎるという事情がある。また一つには、前述の通り彼の家は地元の名家で、無理に働く必要もなかった。
だが鄧禹自身にはもう一つ存念があった。時流が風雲を告げてきていると感じていたのだ。
復古政策を推し進めた王莽の
そんな中、天鳳四年(西暦17年)、息子を役人に殺されたことを怨んだ
彼らは敵味方を見分けるため自らの眉を赤く塗ったため、「
赤眉の蜂起は、新王朝崩壊の蟻の一穴となった。なにしろ中華全土が新に対する不満と
それら叛乱勢力に対して新も討伐軍を発し、時代は混沌と混迷を深めてゆく。
が、鄧禹は動かなかった。彼の異才は近隣でも有名であり、天下に名を馳せるため、あるいは人民の平穏のため、鄧禹に蜂起をうながす者、叛乱勢力への合流を勧める者は多数いた。
しかし鄧禹は頑として動かない。
「人がいない」
自邸の一室に寝ころび、天井を見上げながら鄧禹はつぶやく。彼が動かない理由はこれだった。
彼の言う「人」とは兵のことではない。首領たる人物のことだった。彼の見るところ、叛乱勢力の首領たちには器量も志もなかった。ただただ暴れ、殺し、奪い、むさぼるだけである。これでは鄧禹も身命を賭して仕えるなど不可能だった。
そのようなわけで鄧禹は、晴耕雨読あるいは無為徒食に近い生活を送っていたが、一つだけ熱心におこなっていたことがあった。情報収集である。
といって独自の情報網を所有しているわけではないし、私設の諜報機関を持っているわけでもない。いくら名家の子弟と言えど、あくまで一地方のこと、そこまでの人脈も権力もなかった。
だが名家である以上、客人は多いし、旅人や商人が寄ることも多かった。鄧禹はそのような人物が訪れるたび、必ず歓待し、彼らが知っていることを可能な限り細大漏らさず聞かせてもらったのである。
中には根も葉もない噂話もあるし、そうでなくともあやふやで根拠の乏しい情報も少なくない。だが玉石混淆のそれらを鄧禹は精査し、事実と思われるものを集めてゆく。また噂話にも意味はある。そこには必ず人々の願望や心情が加味されている。「人心のおもむくところ」というもので、それらの方向性を感知できれば、次の予測も立てやすくなる。
それでもやはり、鄧禹の元へやってくる情報は、玉どころか「石」の数すら少ないのが現実であるが、時には完全なる事実として伝わってくる確報もあった。
「ついに劉氏が立ったか」
断片的に聞こえてくる戦乱の噂。その中で地皇4年(西暦23年)、
歴史上、
漢の再興といっても実態は数ある叛乱勢力の一つに過ぎず、いまだ新王朝の方が巨大な存在であることに変わりはない。
だがこの宣言には大きな意味があった。前述の通り、新王朝の政は王莽の行き過ぎた理想を根幹としているため、中華全土を混乱と混沌に落とし込むものだった。また王莽の建国は漢からの
臣下に不信を、民衆に不満を抱かれる国家が支持を得られるはずもなく、
「漢の世もひどかったが今よりはましだ」
というわけである。
ゆえに劉玄の即位は、大義名分においても、民意においても、新の治世を打ち割る巨大な一石だったのだ。
だがこれにより、時代は明確に乱世へ陥ってゆく。
劉玄は在野に降った
実はもう一人、皇帝候補はいた。劉玄と同じ劉氏の末裔で、氏名は
諸勢力の中では彼を推す声も大きかった。
劉縯は若い頃から
だがそれゆえに彼は傀儡には向かず、首領たちから避けられ、帝位に就くことができなかったのだ。
鄧禹の耳にも劉縯の評判は届いていた。が、彼にとってその名は別の意味も持っていた。
劉縯は長安で親しくかわいがってくれた劉秀の兄だったのだ。正確には劉縯が長男で、劉秀は三男である(次男は起兵直後の戦いで戦死)。そして劉縯の陣営には、当然のように劉秀がいた。
「文叔どのがいるのか…」
それは鄧禹の心を浮き立たせ、同時に失望も味わわせた。
「文叔どのが自由な裁量を働かせられる立場になればおもしろいのだが…」
鄧禹は劉縯を詳しく知らない。だが評判を聞くだけであれば、そして評判通り真の大器であれば、いかにも皇帝らしい皇帝になるだろうと思われる。
それはそれで鄧禹にも不満はない。彼に臣従し、乱世を収め、漢王朝を復興させ、民に平安をもたらす。きっと意義があり、やりがいもあることだろう。
だが鄧禹は劉秀を知ってしまった。彼の不思議な器量は、あるいは皇帝らしくない皇帝を生み出すかもしれない。劉秀に従って新たな王朝を創り出す仕事は、きっととてもおもしろい。
そして何より、鄧禹は劉秀が好きであった。
しかし現に帝位に就いたのは劉玄である。仮に劉縯が皇帝になったとしても、その地位が劉秀に回ってくる可能性は低い。そもそもいま劉秀が皇帝になったとしても、それは首領たちの傀儡に成り下がるということである。下手に自主性を出せば、あっさりと帝位から引きずりおろされるだけでなく、悪くすれば殺されるかもしれないのだ。
これでは鄧禹が彼のもとへ参じても、何もできはしないだろう。
結局、鄧禹はまだ動かなかった。というより動けなかった。
だが事態は、あるいは時代は、鄧禹の思惑を越えて動いてゆく。その中の一つに、歴史に特筆される戦いがあった。
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