☖1四銀(あるいは、すべては気/気合いがすべてを/発破するべし)
「えっと」
とりあえずまだその「異世界」なんだろうということには理解及んだんだけれど。上半身を起こしたままの姿勢であたしはそうとりあえず言葉を発してみる。声、出る、普通に。意識すると口の中にも感覚がある。そして視界もクリア。白い、柔らかな光に満ちた部屋だ……そんなに広くは無い。あたしの寝かされていたベッドもまあうちのと変わらないくらいのシングルサイズで。面した右側には小窓。内側に引き入れる感じで今は開け放たれていて、そこからやや冷ための空気の流れと何かの植物的な香りも感じる。足元の方には花のような装飾が過多な赤紫色の腰くらいまでの高さの戸棚。その上に置かれている陶器のポットみたいなのは水差しかな。あとは簡素な板張りの床が左の方へと続いている。入口の扉もこちら側に向けて全開。
と、目の前でついと優雅な身のこなしで立ち上がった銀髪青年がこちらを何かすごく安心させてくる優美な微笑を浮かべたまま、背後に向かってノールックで右手を回して指を鳴らすのだけれど。
「……ひとまず人心地をお付けくださいませ。何か御所望のものがございましたらすぐにお持ちいたします」
なんか……声もすごく安心する。低く落ち着いたそれは、銀髪長髪細面の青年には少し渋すぎるなって思ったけど、ううん、そんなことは無いかな、いいと思う……碧眼、でも身近にいるフィンランドから来た指し友のシルッカの青い眼とはまた違う、深い藍色の……「光」というか「水の流れ」のようなものを湛えた瞳だ……とか見とれていると質素な黒い身なりの女の人がキャスター付きの配膳台みたいのを運んでくる。
真っ白な大きめのベッドテーブルが設えられて、そこに湯気を立てる透明感のある青紫の液体が満たされた薄いカップとソーサーが恭しく置かれて。その周りには木製のお皿が三つとそこに盛られた何だろう、真っ黒なポテトサラダ的な風貌のやつと、アイスブルーの煮こごりみたいのと、野菜っぽいやつと肉っぽいやつが炒められたソテー的な何かかな。香ばしくも柔らかな香りは若干嗅ぎなれない要素も含んでいたのだけれど、それでも今になって知覚されてきた相当な強度の空腹感がそれを掻き消す。ナイフ、フォーク、スプーン、そしてやけにきらびやかな装飾が施された箸一膳。「異世界」とは言えカトラリーの形状って根源的なもんだから変わらないのかなあ……みたいな、いまいちこの「現実」との距離感を掴みかねているあたしの脳がそんな思考を浮かばせる中、身体の方はもう動きを始めていて、手に取ったフォーク状のもので人参的な何かを刺しては口に運び入れている。
「……」
口に広がるのは、甘くてほろ苦い、初めての風味だったのだけれど。身体はそれを欲してたみたい。自然にゆっくり咀嚼嚥下してた。ら、何でか右目から涙がひと粒、ふた粒とこぼれ落ちてもいた。かろうじて滲んでない左目の視界の中で、慌てて真っ白なナプキンのようなものを差し出してくる銀髪のひとに対しても何のリアクションも取れないまま、あたしは静かに泣きじゃくりながらも手を止めずに食事を続けるという、傍からもリアクション取りづらいだろう絵面のまま、それでも身体の欲求に従ってそれを続けていくんだけれど。と、
「ヘイヘイヘイヘイッ、突っ立ってんじゃねえっつうの。レディの食事中をじろじろと見下ろしてんじゃあないよ、無粋ヤローが」
左手の奥の方、この部屋への入り口のところから、鋭い、ながらもどこか小馬鹿にしたような声が飛んでくる。その声にようやく突き動かされて、目の前にそのまま差し出されていた純白を受け取り、ありがとう、と震える喉で何とか応えて右目に押し当ててぬぐうけど。その間にも先ほど声を上げた黒髪ショートの背の高い女のひとは大股で部屋に入ってくるや、銀髪のひとの肩を荒々しく引っ掴んで後ろへと力任せに下がらせてる。身体にぴったりとした黒い、何だろう和風な装束、みたいなのを身に着けているそのひとは、嘲りをその褐色の小顔に貼り付けたような表情をあたしに向ける瞬間には既に吹き消していて。綺麗な深く赤い色をした瞳……こちらも、うねる流れがある瞳だ……が真っ直ぐにこちらを見てくる。通った鼻筋、引き締まった口元。身に纏った雰囲気は、野性味あふれる佇まいだけれど不思議と威圧感は無かった。と、
「……聖棋士さま。失礼を承知で私めがお召替えをさせていただきました。お召しになられていた『
いきなりそんな畏まり方をされた。長身をこごめて胸に手をやる仕草は何となくそれは敬意を示されているということは分かったのだけれど、なぜあたしに、ということは頭が混乱しているからか、分からなかった。それより今気づいたけど今着ているのは生成りの木綿のような色合い肌触りのネグリジェのような服だった。着替えさせてくれたんだ。土埃たっぷりの場所に多分ぶっ倒れたと思うから、うんそうか。
……やっぱり「ここ」が「現実」みたいだ。
五感がリアル過ぎる。周囲を囲む全・環境もVR以上の精密さを持ってあたしの感覚器官の全てを刺激してくる。そうなんだ。
「……」
不思議と受け入れていた。むしろ寝ても覚めても座ってても歩いてても将棋のコトしか考えてなかった今までの毎日の方がうつろ、のようにすら思えてきて。
肚は据わって来ていた。何であれ、やってやる。猫神さまに抱かれた時の感触は覚えていた。そしてそれはちょっとアレではあったけど、それでもやる。何かは実はまだよく分かっていないのだけれど。でもぐいと姿勢を正したら。
「ありがとう、ゼルメダ。じゃあ何でもいいからもう少しフォーマルな着るものを持ってきてもらえる? ここの主の方にご挨拶がしたいの」
でも自分でもびっくりの、そんな高慢な物言いが口をついて出ていた。あれ。なぁんか昔はこんな風な物腰だったかも。何となく恥ずかしいメンタルだった過去を思い出しそうですぐさま脳のその部分をシャットするけれど。
ハっ、と何故か嬉しそうに応えてくれた女のひと……ゼルメダの細い後ろ姿を目で追いながら、あたしは二人きりになれたこの瞬間を逃さないように、部屋の片隅に佇んでいた銀髪の御人にベッドから降りて向き直る。
「あなたの、お名前は?」
「はっ、ジェス=ロナウと申します、聖棋士殿」
「……ジェス。その『せいきしドノ』は無し。『儚奈』と、そう呼んで」
うぅん……お決まりのやり取りが何故かすごく心地よい。自分でもすごい自然にいい「微笑」が作れた気がした。そしてそう振舞ったのならば、ちゃんとあたしの思い通りに応えてくれると、そんな気がした。案の定、
「ハカナ殿……呼ばせていただきます。そして重ねて無礼を承知で言わせていただきますが、いま、私は……私めはッ……伝説の聖棋士を目の前にして、感動に打ち震えるのを堪え切れてはおらぬのです……ついに公国の敵を、討ち滅ぼせる時が来たかと」
紅潮させた細面を見てると、こっちまで赤くなってしまいそう。そしてなるほど。小さい頃、将棋を始めるよりもっと前、あたしは本好きの子だった。色とりどりの、絵本の世界にいつもひとりではまり込んでいたっけ。ここはあたしの深層世界を具現化したものなんだろうか。分からないけど、何となく「分かる」感はさっきからずっと自分の周りを揺蕩っているようで。
そして、
「……ハギロヴァ
偉いさんがいると思ってた。らやっぱりで。これでもかの戦国武将然とした、先ほどその「退けた」壮年に負けないくらいの壮年感のあるひとが、ちょっとちぐはぐに思える中世ヨーロッパ的な正にの玉座についたまま、そんな腹からのいい低音をこちらに響かせてくるのだけれど。その前に、貸してもらったシンプルな白いシャツと黒いパンツ姿で佇むあたし。
「……こちらこそ。実はまだ目覚めたばかりで『力』の制御があまり出来ていないのです……あなた方のご助力が無ければ面倒なことになるところでした」
うん、あたし結構やれるのでは。「異世界転移」は読んだことは無かったけど、「アリス」も「モモ」も何度も読み返してきた。そしてあたし自身まだ全然自分のこととかこの世界のことなんかは分かってはいなかったけど、それならそれであたしにはこの長くも短いような「将棋人生」において身に着け磨き上げてきたものがある。
「『
「記憶力」「観察眼」、そして「ハッタリ」だ。
おおう……ッというような、傍らに控えた数十人もの「兵」たちの驚愕と畏怖と興奮を混ぜ合わせたようなどよめきが、この広間に広がっていく。
あたしは、あたしを拒絶した将棋の力を使って、この「世界」でのし上がっていく。いま決めた。そう決めた。
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