第24話 シロウトとタマゴ

「翔斗。おまえが気に入ったってのはそのザッハトルテっしょ。一見チョコレートのようでそれとは全くちがう、あの独特の食感の」


 翔斗くんは黙っている。ってことは図星なんだ。


「ただしこれを作るのはシロウトにはちょっと難しい。だからこういう一般的に出回ってるレシピでは手軽なチョココーティングで代用されてんだろーね」


 お父さんは印刷されたレシピをひらりと手にして流し見た。


 そうだったんだ。だけど……なんだろう。この、悔しい気持ち。


『シロウト』


 そう。その言葉が刺さってる。シロウトなのかな、わたしたちって。そりゃ、お父さんみたいなプロにはまだまだ程遠い。だけど……努力はしてるし、いずれはプロになりたいって、そう思ってるのに。


「おまえらもまあ、今日のところは大人しくチョココーティングで代用……」「いやだ」


 言うのは翔斗くんだった。


「それじゃ意味がない。『ホンモノ』じゃない」


 お父さんは答えずにその視線を翔斗くんからオーブンへと移した。ほどなくして焼き上がりを報せるブザー音が鳴る。


「とりあえず出そうか」


 また翔斗くんにではなくわたしに言う。うう、や、やりづらいです。あのその。


 お父さんがオーブンの扉を開けると、途端にもわっと熱を帯びたチョコレートの香りが濃く漂った。


「うん。いい具合だ」


 用意した網の上に取り出してその様子を窺う。アツアツの生地はいきなりの温度差で少しだけ萎んだようだったけれど、充分にふんわりと、そしてキレイにこんもりと焼き上がっていた。


「いい香り」

 つぶやくように言うとお父さんも頷いてくれた。


「コイツはほんとは一晩置いた方がいいんだけど……」


 言いながらちらと時計を見る。


「どうするつもり?」


 今度はちょっと責めるような目で翔斗くんを見た。


「今日仕上げるっつーの。ザッハグラズールってやつも作る」


 答えを聞くとお父さんは少し笑うようにしてため息をついた。「あんね」


「焦ってもなんの得もないよ。ケーキの出来も、人生も」


 ぴり、と空気が張り詰める。でもケーキはわかるけど、人生も? わたしの疑問を受けるようにお父さんは続ける。


「ケーキ屋になるな、とは言わない。言っても無駄だってわかってるから」


 そしてオーブン用の軍手をはずしながら少し改まったようにわたしたちを見た。


「天美さんも。やりたいなら目指せばいい。パティシエでも、ヴァンドゥーズでも」


 ドキリとした。なんて答えればいいんだろう。迷ううちに「だけどね」と話は続く。


「それのせいでおまえらがいろんな可能性を無くすのはいけない」


 可能性を、無くす?

 目をぱちくりするわたしにお父さんは、ふっと微笑んだ。


「まだ小学生でしょ」


 こくり、と頷いた。


「決めて自分を縛るのはあまりに早いよ」


 縛る……なんて。そんなつもりはなかったけど。


 お父さんは型からはずしたアツアツのザッハトルテの生地を見つつ、話を続けた。


「知りたい、やりたいって気持ちは大事だよ。けど偏ったんじゃだめ。小学校、中学校、高校。その時にしか見られない景色ってのが必ずある。だからいろんなものを見て、触れて、いろんな人と出会って、それから本当に自分がやりたいことを見つけてほしい。天美さんのお父さんお母さんだって同じだと思うよ」


 ……そう、なのかな。


「仮に今からケーキや菓子のことばっか勉強して成長して、パティシエになったとして。知識量はたしかにすごいだろーね。この世に菓子の種類なんて膨大にある。その全部を知って製法や歴史、なりたちまで記憶したら大したもんだ。けど。必要なことって知識ばっかりじゃない。経験なんだよ。スポーツで汗流した経験。絵で賞をとった経験。負けて泣いた経験。恥かいた経験。飢えた経験。一見ケーキと関係なさそうなことも、してきたやつとそうでないやつ。ケーキに限らず生み出せるもんは絶対変わる」


 翔斗くんが一瞬なにか言い返そうとして上手く言葉にできなかったのがわかった。わたしも、そう。だって……。


 わかるよ。お父さんが言ってること。時間は有限。お菓子の勉強ばっかりしてたら、大切なチャンスを逃すよってこと。


 それはそう。そう、だけど。


 だけどそれでも、わたしは……。


 『シロウト』でいたくない。


「ザッハトルテはおまえらが『今』作らなきゃならないケーキじゃない。もっとちゃんと段階踏んで、基本から学んで大人になってから──」


 なんだろう。なんでだろう。

 今じゃないって言われると、余計に気持ちが大きくなる。


「あの……」


 なりたい気持ちが。

 溢れる。


 自分でもびっくりするほどに。


「……見せてもらえませんか? ザッハグラズール。作り方を、教えてもらえませんか?」


 さすがのお父さんも驚いた顔をした。


「あ……わ、わかってます。その、お父さんの言ってること。いろいろ経験しなきゃだめだと思うし、お菓子ばっかりじゃだめだってことも、わかります。でも、でもわたし、今がいいんですっ! 百年早いって言われるかもしれないけど、でも知りたいんです。今、経験して、どんなに難しいかを知りたいんです!」


 うわ、わたし。友達のお父さんの前でこんなわがまま言って泣くなんて、なんて恥ずかしいの……。


 でも。


 ──パティシエになりたい。


 『シロウト』じゃないもん。

 『タマゴ』だもんっ!


 だから知りたい。もっと知りたい。

 好きだから。

 誰にも負けないくらい、好きだから。


 翔斗くんにだって負けないくらい!


「お願いしますっ!」


 頭を下げると「おれからも」と隣から声がした。


「お願いします」


 え……。一瞬耳も目も疑った。だって。いつもプライドめちゃたかのあの翔斗くんが、宿敵にしているお父さんにその頭を下げていたんだもん。



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