マヨラー
川谷パルテノン
ペット
マヨネーズを飼っていた。これを聞いて私がおかしくなったと思われる方は正しい。私はおかしくなったのだ。私でない誰かがマヨネーズを飼おうかと言いだしたら私はきっと止めるか、或いは笑っただろう。それはその誰かとの関係の度合いによる。ともあれマヨネーズを飼うことを奇妙なものとして捉えている点では正常だとも言えないではないが事実マヨネーズを飼い始めた私はやはり異常なのである。
なぜマヨネーズを飼うことになったかは一旦さておき、この愛すべきマヨネーズについて話したい。名前は「きゅうぴぃ」という。可愛すぎる。抜群のセンスだ。可愛らしさが特にぴぃの部分に宿っている。「い」が小文字なのもいい。可愛げと同時にマヨネーズらしさも失っていない。犬でもない、猫でもない、マヨネーズだ。マヨネーズのキャップの部分。これをショップで見かけた際に赤と白があった。どっちも可愛いのだったが私は赤い子にした。赤は情熱の色だ。闘争の色だ。私は戦っていた。マヨネーズには戦友を期待したのだ。持ち帰ったマヨネーズはおとなしかった。鳴き声一つあげないマヨネーズを前にしてきっと私を受け入れてくれたのに違いないと思った。それからはいつ何時も傍らにきゅうぴぃがいて私を慰めてくれた。頑張れ、頑張れ。私はそのたびにありがとうと言ってきゅうぴぃを撫でてあげた。
きゅうぴぃは職場にも連れて行った。私が仕事をしている間、少し心配ではあったけれどきゅうぴぃが病気になってはいけないと職場の冷蔵庫に入れていた。万が一、私以外の誰かがきゅうぴぃのあまりの可愛さに持ち去ることを懸念して胴体のところにマナベと書いた。きゅうぴぃはくすぐったそうにしていた。ただ私がこれだけきゅうぴぃのために予防線を張ったにも関わらずきゅうぴぃのキャップには開封した跡が見られた。きゅうぴぃと出会って丁度一年が経とうかという頃だった。犯人はすぐにわかった。定時が来る前に突然腹痛を訴えた同僚がいたからだ。逆に私はそれまできゅうぴぃがまさか無断で使われていたなどとは思いもせず、すぐさま冷蔵庫のある給湯室へと向かってきゅうぴぃの安否を確認した。私はきゅうぴぃのことを守りきれなかった。きっと怖かったに違いない。私は何度も謝った。その日からきゅうぴぃはすっかり元気を失って、油が分離し始め変な色になっていった。私はそれでもきゅうぴぃと離ればなれになりたくなくて相変わらず職場に連れていった。もう冷蔵庫になんて入れない。会社でクサイだとか陰で言われても私はきゅうぴぃのほうが大事で気にもしなかった。上長から注意されて私はその場で退社を願い出た。
無職になった私は無気力で、きゅうぴぃを抱いたまま布団から出れなくなった。一応親には仕事を辞めたことだけ連絡していて、心配した母がわざわざ青森から出てきて私の住むマンションに押しかけてきた。その時のことはよく覚えていない。ただ母はなぜだか泣いていた。私は入院することになった。
入院生活の中で気になるのはきゅうぴぃのことだけだった。きゅうぴぃを病院に連れてくることが叶わず、私は暇さえあればきゅうぴぃは元気かと見舞いにきた両親や弟、或いは看護師にも聞いた。皆、大丈夫だよと答えた。私はずっときゅうぴぃに会いたかった。次第に居ても立っても居られなくなった私は病院を脱走するようになった。その度に母は泣きながら「もう止して」と言った。私はただきゅうぴぃに会いたいだけなのと訴えても母はもっと泣くのだった。
あまりにもきゅうぴぃに会えないので私はせめて写真だけでも撮って見せてほしいと頼んだ。すると弟が幾つか写真を持ってきてくれて、私はそれをベッドの上に広げて悲しい気持ちになった。全部きゅうぴぃではなかったからだ。それはただのマヨネーズで「マナベ」の字もなければ綺麗な色をした本当にただのマヨネーズ。私は弟が優しさでやってくれたことを理解しつつも弟のことを罵ってしまった。「おかしいのは姉ちゃんだよ」と言われた時、私の中で何かがプツンと音を立てて切れた。また記憶が飛んで気がつくと病室はひどい有様でものがそこらじゅうに散らかっていた。弟は泣いていた。
もう私のせいで家族を泣かせたくないと思った。どうすれば優しくなれますかと病院の先生に聞いた。私は私と向き合うことになった。なぜマヨネーズを飼い始めたのか。その中で自分自身を冷静に見つめ直す日々が始まった。私がきゅうぴぃと出会う前。当時付き合っていた彼氏がいた。私は彼のことが本当に好きでいつか結婚するものだと信じていた。彼はいつだって何にでもマヨネーズをかける人だった。彼と会っている時、私たちの前に子供を連れた女性が現れてすごい剣幕で私たちに罵声を浴びせた。彼の奥さんと子供だった。彼はそのまま奥さんと別れることになり、しばらく私との交際は続いたが彼自身はすっかり変わってしまった。私は彼から暴力を振るわれるようになる。ひととおり彼の気が済むと「ごめんね」と言いながら私の腫れた顔にマヨネーズを塗った。私は私でおかしくなりそうで、けれどいつか彼が前みたいに戻ってくれると信じていた。でもその日は来なかった。彼は自暴自棄になり人を刺してしまったのだ。警察が家にきて「マナベミノルを傷害の容疑で逮捕しました」と言った。
私が罪に問われることはなかった。けれど私が彼を止めてあげなければいけなかったのだと思うようになった。もうどうすればよかったのかがわからなかった。外を茫然としながら歩いた。そんな時でも自然とお腹が空いて私は偶然立ち寄ったスーパーできゅうぴぃに出会ったのだった。きゅうぴぃはマナベさんだった。いつかまたマナベさんが帰ってきて、そしたらきゅうぴぃを可愛がってくれる。そんな思いできゅうぴぃを飼っていた。私は過去を振り返りながら何度も泣いた。間違えていたと思う。家族や病院の人たちの優しさに触れながら何度も泣いてようやくそう思えるようになってきた。
私はマヨネーズを飼っていた。そのことは随分おかしな話だ。今はまだ治療の途中で醒めかけた夢の中にいるようだけれどこのことがこうして話せるようになった自分はやっと前を向ける気がしている。
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