第4話 狂わす病

 ハンスは丘の上まで来ると手綱を引いた。

 馬が足を止め、右に小さく一周する間、辺りを一望する。


「やはり、そうか」


 視線の先では、丘がなだらかに下っていき川に突き当たる。

 小さな橋の向こうには村があって、奥まった一画から火の手が上がっていた。


 村の中央にある、教会の白い鐘楼と同じ高さにまで炎が手を伸ばしている。

 ひときわ赤く燃える炎は、暗い夜と黒い煙を照らしていた。


 ハンスは膝で馬に合図を送ると、一気に丘を駆け下りる。

 風が耳の横をすり抜け、音を立てる。

 馬の蹄は土を蹴り上げ、大きな鼻音とともに白くなった息を吐き出した。


 橋のたもとに近づくと、一人の影が見えた。

 ハンスは手綱を引き、馬の速度を落とす。


 農夫が橋の手前に立ち、長い柄のついた農具のような物を持っていた。

 こちらを見つけたようで駆け寄ってくる。


「これは、どういうことだ!」

 ハンスが問いかけた。


「ここで止まれ! ハンス」

「なに?」


 農夫は持っていた棒を両手で構えると、そのままハンスに向かって突き出した。


「うっ!」

 腹に痛みを感じる。


 見ると、腹にはピッチフォークが刺さっていた。

 刈り取った麦や干草を移動させるために農民がよく使う農具だった。


 四つ叉に分かれた鋭い金属製の爪のうち、二本がへその付近と脇に刺さっている。


 馬は大きくいななくと両前足を高々と上げた。


「うわあ!」

 驚きの声を上げた農夫は、ピッチフォークの柄を握ったまま尻もちをつく。


 腹から異物が引き抜かれる感覚があった。

 鋭い痛みは腹部全体を襲う。


 ハンスは馬から振り落とされまいとこらえるが足に力が入らない。

 鞍から滑り落ちるように落馬した。


 今度は脇腹に鈍痛が走る。

 なんとか受け身は取れたので、頭や首に損傷はなさそうだ。


 しかし、高さも勢いもあった。

 骨にヒビが入っていてもおかしくない。


 馬はしばらく近くでどすどすと地面を蹴っていたが、驚きを鎮めることができずに走り去った。


 首を動かし、農夫の方に目を向ける。

 未だ尻もちをついたまま、恐れの表情を浮かべていた。


「なぜだ」

 ハンスは叫んだつもりだったが、弱々しい声にしかならない。


 農夫はゆっくり立ち上がると、再度ピッチフォークを構える。

 尖った先端からはハンスの血が一滴垂れた。


「あんたのせいだ。あんたが来たから村がこんな事になったんだ」

「何を言う……村に病気が蔓延したと聞いたから、私は治療のために戻って来たのだ! 順序が……逆ではないか」


「うるさい! 錬金医師なんていう怪しい者を村に入れるべきじゃなかったんだ。あんたが村の病気を広めたんだ」


 埒が明かない。

 つばを飛ばしながら妄言を吐く農夫を見てハンスは呆れたが、彼の血走った目に炎の影が映ったのを見て気づく。


「まさか……お前らが火をつけたのか」

「仕方ないんだ! こうしないと、村が全滅しちまう。仕方ないんだ!」


「馬鹿な! あの地区には……患者が大勢いるんだぞ。生きたまま燃やすというのか!」

「だまれ! あそこには、俺の妻も息子もいる! これが村の総意だ! 従うしかないんだ!」


 がはっと咳が出た。

 黒い血が点々と地面に飛ぶ。


 どうやら内蔵をやられているらしい。

 痛みは引くどころか増していた。


「いいか……病を恐れるだけでは、何の解決にもならない。冷静に考えて……病と戦え」

「さっきからうるさいんだよ! お前だ! お前が来なければ」


 もはや農夫に言葉は通じないようだった。

 恐怖に支配され、思考することを止めている。


 振り上げたピッチフォークを握る農夫の目は血走り、ハンスを殺せば全てが解決すると思いこんでいるようだった。


 ハンスはとっさに胸のポケットをさぐり、液体の入った小瓶を二つ手にする。

 二種の液体を農夫に見せるように掲げた。


 農夫は一瞬怯むと、動きを止める。


 そのすきにハンスは二つの小瓶を握ったまま地面を叩く。

 手にはガラスの破片が突き刺さった。


 二つの液体は混ざり合い、激臭を放ちながら煙を上げる。


「お、お前、何をした」

 農夫は手にしてしたピッチフォークを地面に突き刺し、恐れの声を出す。


「私はもう助からないだろう……お前を道連れにしてやる」

 もやもやと立ち上る白煙に咳き込みながらハンスは言った。


 もはや腹から下の感覚がない。

 助からないということはハンスにとって真実だった。


「う、うわあああ~」

 農夫は叫び声を上げながら、橋を渡り村の方へと走っていった。


 最後の嘘はなんとか成功したようだった。

 小瓶に入っていたのは毒でもなんでもない、ただの薬品だ。


 先は長くないと分かっていても農夫に殺されるのは嫌だった。

 あと少しでも長く生きていたい。


 わずかな願いにすがると、後悔も生まれた。


「せっかく……せっかく、会えたのに」


 持ち上げていた首を力なく落とすと、土の味を唇に感じる。

 ハンスはゆっくりとまぶたを落とした。

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