夜を分け合うフィロソフィア

月井 忠

第1話 星の影

 今宵は新月の夜だが、月は薄っすらと輪郭だけを浮かび上がらせていた。

 周りには瞬く星が散りばめられ、雲ひとつない夜空が広がっている。


 暗い夜空を背負うように、地面に顔を向けながら歩く者がいた。

 真っ黒なローブを身にまとい、フードを目深にかぶって落ち葉を踏んでいく。


 行く先にはオークの木々が茂る森が広がっていた。

 その者は落ちていたオークの枝を拾うと、細く白い指で感触を確かめる。


「これは良いね、スキアー」

 声は高く響いた。


 その者は女だった。

 彼女は一人、誰かに聞かせるようにつぶやく。


(そうだな)

 彼女の頭に声が響いた。


 男とも女ともとれる、不思議な声だった。

 その声は彼女にしか聞こえない特別な声だった。


 拾った枝の先を折って、適当な大きさに整え、麻のバッグにしまい込む。

 そうして彼女は森の境界をなぞるように歩き、次の枝を拾っては感触を確かめる。


 やがてバッグの中で、何本もの枝が折り重なるようになった頃、森の奥から鳴き声が響いてきた。

 オオカミの遠吠えだった。


「行ってみよう、スキアー」

 彼女はまたささやく。


(どうせ止めても行くのだろう?)

「そうだね」


 彼女は答えるより早く、駆け出していた。


 先程聞いたオオカミの声には、獲物を追い込むメッセージが込められていた。

 彼女にはそれがわかるらしく興味を示しようだ。


 それともう一つ、彼女には別の声も聞こえていた。

 微かな人間の声だ。


 オークの幹を縫うようにして走る。

 右手はフードをつかんで顎まで隠すようにしていた。


 前など見えていない。


 にもかかわらず彼女は飛ぶように木々の間を駆けていく。

 森は奥に進むにつれ、闇を深く、濃くしていった。


 彼女が足を止める。


 その先では地面が落ち込み、森がぽっかりと口を開けていた。

 すぐ下には、わずかな星あかりが照らす空間があり、オオカミが半円上に取り囲んでいる様子が窺えた。


 中心には尻もちをついた人の姿がある。


(行くつもりか?)

「もちろん」


 彼女は言うと、ふわりと飛び上がり人間のすぐそばに降り立つ。


「うわっ!」

 その者は高い声を上げて、飛び退いた。


 見ると少年のようで、ぶかぶかの帽子をかぶり、顔は下半分がマフラーで隠れている。

 リネンの服を重ね着しているようで、着ぶくれして動きづらそうだった。


「仲良くしようよ、君たち」

 明るい声で彼女が言う。


 少年とオオカミの両方に首を振っていた。


 オオカミたちは突然現れたローブ姿の女に警戒感を増したようだ。

 身体を低くし、耳を立てながら、じりじりと後ずさる。


 むき出しになった牙の奥では低い唸り声を立てていた。


「ね? 仲良くしよう」

 恐れを知らないのか、彼女はためらうことなく一匹のオオカミに近づく。


 グオッと、短く吠えたかと思うと、オオカミは彼女に向かって飛びかかった。


「もうっ!」

 彼女は言いながら右手を伸ばす。


 すると突如として影が膨らんだ。


 彼女の足元にあったはずの影は、枝を伸ばすようにすっと前方へと伸び、空中に向かって膨らんだのだ。


 球形のそれは口を開けるように左右へ分かれ、音もなく閉じる。


 オオカミはその中にいた。


 影がオオカミを飲み込んだ。


 黒く大きな水滴のような影は縮みながら地面に吸い込まれる。


 伸びていた影は彼女の足元へもどった。


「殺しちゃダメだよ、スキアー」

(わかっている)


 彼女は残ったオオカミたちを見回す。

 恐れをなしたのか身体を小さくして固まったようになっている。


「急に襲っちゃダメでしょ」

 諭すように言って近づくと、オオカミたちはさっと後方に跳ね、木の影に隠れた。


「離してあげて」

(わかった)


 彼女の影は前方に向かって伸びると、そこから先程のオオカミが飛び出した。


 何が起きたかわからない様子で、自分のしっぽを追いかけるようにぐるぐると回っている。


「さあ、行きなさい」

 パンと彼女が手をたたく。


 それを合図にオオカミたちは森の奥へと一目散に逃げていった。


「さてと」

 彼女は振り返り、地面に座り込んだままの少年の元へと歩み寄った。


「君はどうしてこんなところにいるのかな」

 しゃがみこんで話しかけた。


「えっ、えっと」

 少年は手袋をはめた手をゆっくり後へ動かすと、尻を浮かせて後ずさる。


「あれ? 怖がらせちゃったかな」

 そう言うと、彼女は目深に被っていたフードを上げる。


 さらりと銀色の髪が流れ落ちてきた。

 長い髪は僅かな風にもふわりと舞う。


 均整の取れた顔立ちは、透き通るような白い肌で覆われている。

 まっすぐで、くっきりとした鼻筋が通り、唇にはふっくらとした弾力すら見て取れる。


 少年は彼女の顔を見上げたまま、口を開けていた。


「私はアリエノール。エレノアと呼んでほしいな。それと、こっちがスキアー」

 エレノアが言うと、影は輪郭を震わせた。


 小さな雫のような黒い球形がふわりと宙に浮く。


「え? え?」

 少年は銀髪の女性エレノアと、スキアーと呼ばれた影を交互に見やる。


「ああ、理解はしなくていいよ。君に害をなすつもりはないと知ってほしいだけだから」

 そう言って少年に手を伸ばす。


 おずおずとその手を取ると少年は立ち上がった。


「あの……エレノアさん。どうして目を閉じたままなんですか」

 少年はエレノアがフードを取ってからというもの気になっていた質問をぶつける。


「ああ、眩しくてね」

 そう言うとエレノアは、フードを目深にかぶる。


「眩しい……ですか?」

 少年は辺りを見回す。


 森が開けたその場所は、微かな星あかりに照らされているものの、周囲の森はまさに闇だった。


「目を開けてなくても見えるのですか」

「ああ、私達ラディアントは目で見なくても感じることができるのさ。そういう種族なんだよ」


「ラディアント……?」


(それ以上は)

「わかっているよ。それで君は、どうしてこんなところにいるのかな」

 はぐらかすようにエレノアは言う。


「あ、はい……父と母が病気にかかってしまって……少しでも元気になって欲しくて山菜を探しに来たら……迷ってしまって」

「危ないなあ。せめて昼の間や村の人と一緒に来ないと」


「はい。すいません」

 少年はぺこりと頭を下げた。


「ああ、ごめん。別に叱るつもりはないんだ。ただ注意というか」

 エレノアは慌てたように早口で言うと、手を振った。


 少年はその姿を見て、くすっと笑みを浮かべる。

「エレノアさんって、いい人ですね」


「そうかい?」

 フードの奥で、口角を上げる。


「君の村まで送ってあげよう。ちょっと待っていてね」

 エレノアは右手をゆっくり地面と平行になるまで上げる。


「スキアー」

(わかった)


 影の輪郭は直線になって四角形や五角形へと形を変化させる。


 少年はじっとその姿を見ていた。


 神秘的で、人間を超越した力を持つエレノアに見とれているようだった。


「わかったよ。行こうか」

 エレノアは少年の手を取る。


「え? わかったって……」

「君の村の場所だよ」


 そう言うと、少年の手を引き、迷うことなく森の中へと足を進める。

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