第39話 亮太と神 出会い
あの日、どうしてあんなことを言ったんだろう。
『おめでとうございます』
なんて言わなければ。
『誕生日プレゼントです』
そう言って、俺のお気に入りのプリンを渡さなければ。
俺と汐里が付き合うことになんか、絶対にならなかったのに。
俺たちが付き合うようになると、汐里はほぼ毎日のように俺のアパートに来た。
彼女の仕事がある日もない日もだ。
そして、しなくていいって言ったのに、やりたいからと言って料理や掃除をする。
『私、尽くすタイプだからさ! ウザい? でも仕方ないよ、私、亮太のこと大好きなんだもん!』
ウザいわけないじゃないか……こんな冴えない俺と一緒にいてくれるなんて……感謝しかないよ。
屈託のない笑顔を浮かべる汐里に、俺の胸が疼いた。
信じられなかった。
感情を押し殺すように生きてきたはずの自分に、こんなものが湧き上がるなんて。
ずっと、汐里と一緒にいたい。
その思いは強い呪縛だった。
俺は正社員で働いてはいたけれど、稼ぎが少なくてコンビニでバイトまでしていた。そんな俺が、彼女を幸せになんかできるはずがない。
傷が浅い内に、別れなければ……彼女の貴重な時間を奪ってしまう。
俺じゃない、どこかのいい
それは体裁の良い嘘だった。
腕の中で甘える仕草を見せる汐里は、たまらなく愛おしかった。
他の男に、こんな汐里を見せたくない!
湧き上がる独占欲は、あっという間に俺を支配した。
あれから3年。
彼女を愛おしいと思う気持ちは、少しも薄れていない。
だけど、時々不安そうな
『亮太……私達、少し冷却期間を置かない?』
胸がひやりとした。
嫌だ、と口を動かそうとするのを、いつの間にか立派に育っていた罪悪感が押し止める。
それを言ってしまったら……もう、俺にはなんの光も残らない。
もう、十分幸せだったじゃないか。感謝して、別れよう。
さよなら、汐里。
『わかった』
俺は、彼女を失いたくないとワガママを言う自分自身を羽交い締めにして言った。
ひどく傷ついた
ごめん……
バタン、と玄関のドアが閉まる音を聞きながら、俺はどこか遠いところを見つめていた。
「なにか深い悩みがありそうですね?」
不意に横から声をかけられて、俺は我に返った。
あたりはすっかり暗くなっていて、誰もいない公園を照らし出す街灯が、少し黄色みを帯びた光を放っている。
俺は手にしたアルコール度数の高い酒を口にした。
ぬるいし……なにも感じない。少しは気が紛れるかと思ったのに、ちっともだ。
「生きることに疲れたのなら、休めばいいんですよ」
やめろ……今のやさぐれた俺に、話しかけないでくれ。
声は、女の声だった。若そうで、いかにも親切を売りにしているような……そんな風に聞こえた。
宗教の勧誘か……まあ、よくあるやつだな……
「宗教には興味ないんで」
俺はぶっきらぼうに言いきった。
「私はサプリメントと心理の研究をしている者です」
俯いたままの視界に、ひらひらと揺れる白いスカートの裾が見えた。
サプリメント?
「今の世の中、生きることに疲れを感じるのは当然です。ただ、あまりにそれが溜まりすぎて、中には大切な命を自ら捨ててしまう方もいらっしゃいますよね? ……この近くの駅には、名所と呼ばれる場所もありますし」
名所と聞いた瞬間、俺の頭に駅の踏切が浮かんだ。
赤く点滅する警告灯。やけに甲高いカンカン、という音。
「まだ完全にゼロにはなっていませんけど、私はかなり減らしたと思っていますよ……このサプリメントで」
減らした? 何の話だ?
「踏切に飛び込むことを考えている人は、見ればだいたいわかるんです。私、もう何十人も見てきましたから」
そうか……だから、この女は俺に声をかけてきたのか……
俺は初めて顔を上げて女を見た。
清楚な白。
それが女の第一印象だった。
髪を結い上げた頭には、白い花冠。それに裾の長い白のワンピース。年齢は、二十代後半、といったところだろうか?
「俺はまだ、そこまで落ちちゃいない」
そう、今はまだ……
大丈夫。ただ、昔に戻っただけだ。汐里が傍にいなかった、真っ暗なあの頃に。
『どう、亮太? 今日の料理、美味しい?』
『もうクタクタだよ〜、タスケテ亮太〜』
『えぇ……バイト行っちゃうの……亮太がいないとさみしくてしんじゃう……』
笑った汐里、生気のない汐里、寂しがって甘えてくる汐里……
この3年の間に積み重ねてきた
「ちょうど最後の一つですから、どうぞ」
ぽとりと小さな袋が膝の上に落ちた。
「こんな小さなサプリメントをひと粒飲んだところで、何が変わるのかと思うかもしれませんけど……まあ、ものは試しということで……」
じゃあ、と女は立ち去った。
俺は、袋ごと膝を握りしめた。
苦しい……どうして……どうして俺はいつもこうなるんだ! いつも、いつも……もう沢山だ!
母さん……兄ちゃん……汐里……
気づけば、怪しい女が置いていった袋を破いて中の錠剤を口に放り込んでいた。
それを、缶に残ったぬるい酒で流し込む。
目に入る白い月が、ぼんやりと
もう、何もかも……全てどうでもいい。俺にはもう、なにも残っていないのだから。
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