08 なめしとにかわ

塩を塗り込み保存していた

シカの毛皮を広げて、水で塩を洗い落とす。

毛皮に腐敗は見当たらない。


ヨエルは大きい川まで行き、

腰の丈ほどある丸い岩の上に

シカの毛皮を広げた。


毛皮の裏面についた肉と脂を山刀で削ぎ落とす。


『なめし』前の『脱脂』の工程。


首の周りは赤く肉と血の塊がこびり付き、

背中から腹に、皮全体についた白い塊は脂である。


刃に肉と脂がこびりつく度に拭い落とし、

脂肉を失った皮は次第に薄くなる。


こうして皮から肉と脂を削ぎ、真皮の状態にする。


皮を毛の面まで彫って傷つけてしまわないよう、

刃の腹で慎重に、そして力強く削っていく。


シカの背中となる皮の中心は厚く、

腹回りとなる皮の端は薄く柔らかい。


箇所によって力加減を変える。


イノシシに比べると脂が少なく皮は薄いので、

作業量は減るが慎重さが求められる。


刃を皮の上で走らせる。

音を立てて小気味よく削る。


伸びる皮とこびりつく脂を相手に、

力加減が難しい中、慎重にひたすら削る。


塩での保存時と同様に、

雑な仕事をすればその分、

質の悪い皮が出来上がる。


この作業だけで決まって一日仕事となる。


熟練の猟師であっても、脱脂の作業は

時間を掛け、丁寧に脂肉を削る。


しゃがんで曲げっぱなしの背中が凝り固まり、

伸ばした時には血管が広がり

全身に血がめぐるのが分かる。


脂肉の臭いを嗅ぎつけた蝿が集る。

羽音が耳の横を通る。


ヨエルの汗を目当てに首筋を歩く。


(虫など気にするな。仕事に集中しろ。)

祖父も父も、平然とやってのけた。

こうした仕事が、村の生活の一部を支えた。


大人の大変さを知り、

成人となったヨエルであった。


「がぁ!」

しかし我慢ならず蝿を手で追い払った。


脂肉を削ぎ終え、

毛についた脂を石鹸で洗い落とす。


ヨエルは脱脂の作業を始める前に、

やっておいたことがある。


町で買ってきた

白色の小石の山と脂身のような薄紅色の塊。

ミョウバンと岩塩。


『なめし』の工程で必要な枯礬は、

白色の小石、ミョウバンから作る。


まず砂利のようなミョウバンを砕いて粒状にする。


ミョウバンは粉にして止血や鎮痛薬として、

また脱臭にも使われる為、

どこの町でも売られている。


粒にしたミョウバンを倍の量の水と混ぜる。

鍋に火を入れ、お湯に溶けたら

しばらく沸騰させる。


沸騰させた鍋を大きい川に浸して冷やす。

するとミョウバンから枯礬の結晶が出来上がる。


安くて便利なミョウバンも、

ひと手間掛かければ枯礬が作れる。


こうして脱脂した皮と枯礬を小屋に持ち帰る。

夕方に小屋へ戻り、次は『なめし』工程に入る。


次に岩塩と枯礬を同じ量だけ砕き、

再び粒状にしてお湯に溶き

今度は常温に冷ます。


真皮を煮ると別のものができてしまう。


――『にかわ』を作るのかと思うた。

小屋で寝ていたキツネが起きた。

(このキツネは何かと詳しい。)


「『にかわ』なら適当に切り落とした

 端切れの皮でも作れるからな。」

――そうじゃ、鳥を煮こごりにせよう。

――鳥はまだ捕まらんかいのぅ。


首だけ起こしたキツネだが、立ち上がると

そわそわして回りだしてまた寝た。


「鳥好きなやつだ。」

(このキツネは何かと詳しい。)


真皮を煮れば『にかわ』なる。


真皮を煮た湯は薄い土色になり、

皮や毛などのゴミを取り除いて冷やせば

液体は固まり『にかわ』が完成する。


『にかわ』は職人の接着剤として、また

腸詰めやチーズなどにも幅広く使われる。


煙突にこびりついた煤は火災の原因になるが、

削ぎ落としてにかわと混ぜれば墨へと活用できる。

肉と混ぜればキツネの言う煮こごりに変わる。


魚の皮などでも簡単に作れるので、

質の良いものはどこでも多く売られている。

なので猟師はあまり『にかわ』を作らない。


冷ました液体の中に毛皮を入れ、

木の落し蓋をして皮全体を漬ける。


液体に漬けた毛皮は毎日揉み、

液を混ぜて全体にくまなく浸透させる。

撹拌を怠ると液体が腐り、毛皮ごとダメになる。

この作業を一週間ほど続ける。


そして取り出した毛皮を乾燥させる。

この時点で毛皮は変質して腐らなくなる。


乾燥させると樹皮のように硬くなるので、

湿らせ、木の棒を使って引っ張り、皮を伸ばす。

また乾燥させ、湿らせ、伸ばす。


この繰り返しによって、

皮は柔らかく丈夫な素材の革へと変化し、

『ご主人』に売れる商品となる。


――大変じゃぁのぅ。


作業が一段落すると

何もしていなかったキツネが、

台に前足を置いて呑気に言う。


キツネが声にして言っているわけではない。


キツネの鳴き声も聞こえない。

かと言ってヨエル自身の魂が荒れたから

聞こえるというわけでもないと、

妙な確信があった。


「ミョウバンが無かった時代は、

 噛んで唾液でやってたんだと。」

――そうか、そりゃ大変じゃのぅ。

――皮では腹は膨れぬでな。

(なるほど、死活問題だ。)

キルスの言っていた言葉を思い出す。


――それでお主、めしはまだか。

――はらへったんじゃが。

――シカは飽いた。


居候のキツネがまくし立てる。


やせ細っていた銀毛のキツネだが、

毎日の鹿肉でずいぶんとふっくらとして

毛の質も良くなったように見える。


「〈ファタ〉の粉を伸ばして麺にして

 キツネの肉でも入れるか。」

――お主に期待したわしがアホウじゃった。

――アホウはお主じゃ。

前足で台を叩いて抗議した。


ヨエルはシカのツノを2つ取り出して、

鋸で手のひらの長さに切り落とす。


――また仕事か。

――お主は仕事とわしのどっちが大事じゃ。

ヨエルは黙ってキツネを見てから、

保管していたネズミの燻製を台に投げ置いた。


「恩には恩だ。」

父の言葉を省略した。


――なんじゃこれは!

――嫌がらせか!

――わしをなんじゃと思っとる。


「知らんのか。

 キツネはネズミを食べるんだぞ。」

――んなこと分かっとるわ!

――怠惰じゃ!

――甲斐性なしめ!


すねかじりの居候に散々言われ、

キツネは小屋を出て行ってしまった。


ヨエルはネズミの燻製を齧って作業を続けた。


根本近くの円柱になったツノを、

縦に鋸を引いて指より薄い厚さの板を切り出す。


当て木をして水平になるように、

直線の2本の長い溝を彫る。


刃が抜けるまで両面から削り、

板に付いた3本の長い歯を作った。


ようやく形が見えてきて、

削りかすを吹いてヨエルは目を輝かした。


竪櫛。

父が母に、婚姻を申し込む時に渡したという。


母はこれをいつも大事そうにし、

赤い長髪を巻いて留めていた。


ただヨエルは結婚などは一切考えなかった。


(キルスの長髪に似合いそうだ。)

そう思い、試しに作ってみたに過ぎなかった。


(初めてにしては上出来だ…。)

そのままヤスリで形を整えつつ、

山刀の先で撫でるように丹念に、

細い櫛の歯を円柱に削る。


『脱脂』に比べると折れやすく細かい分

余計に慎重さを求められるが、この作業は

蝿が湧かないのでヨエルにとって気は楽だった。


――ジョエル! ジョエル!

「ジョエルじゃない。」

キツネが慌ててヨエルを呼ぶ。


小屋に入ると尻尾を追って足元で周り、

台の上に飛び乗った。


「なんだ、なんだ。」

当て木とツノとヤスリが吹き飛ばされる。

今更来てもネズミの燻製はもう無い。


――今すぐ来い。よいのがおるぞ!

――はよせい! はよ!


太い尾を振ってあわてて走り、

止まっては、後ろを歩くヨエルを急かす。


無邪気なキツネに期待せず、

ヨエルはゆっくりと後をついて行く。


――どうじゃ! どうじゃ! お主。

「罠を仕掛けたのはオレだが…。」

キツネが自慢気に見せたのは、

褐色と白色が混じった羽根を持つ中型の鳥。


「キジだ…。」

メスのキジが珍しく罠に掛かっていた。

しかもまだ生きている。


鳥が食べたいが為に騒ぎ立てられ

渋々用意した罠だったが、

早速獲物が引っかかった。


鳥が運良く罠に掛かったとしても

鳴いて暴れて仲間に知らせてる為に、

罠を見に行く頃には獣に食われており、

羽毛と骨と血を残した罠の残骸を何度か見た。


メイとヨエルの姿を見て鳥は驚き、

走って逃げようとするが首に掛かった

跳ね上げ式の罠が鳥を逃さない。


罠から脱しようと

羽をばたつかせて暴れる。


――煮こごりじゃ!

――肉じゃ! いや卵じゃ!

――そうじゃ! お主、こゃつを飼おう!

「そんな余裕小屋には無いぞ。」

(鳥程度を育てるなら、

 〈ファタ〉でも食わせればいいが…。)


――いやじゃ! 飼って! 飼って!

――卵が食いたい! シカは飽いた!

――ネズミは嫌じゃ!

――甲斐性なし!

(寝床を圧迫するわがままな居候のせいだが…。)

キツネは両足で跳ねて抗議を続けた。


キツネの手柄に少しばかり喜んだヨエルだが、

すぐにその考えを改めた。

「静かに。」


ヨエルはキジより更に森林の奥を見た。

薄い土色の獣の姿が見えた。


鳥用の罠の近くに、ヨエルは

獣用のくくり罠を仕掛けた。

鳥は獣に自ら餌の場所を教え、

獣を餌に釣られて罠にかかった。


ヨエルはイノシシの皮を頭に被り、

音を立てずに近寄った。


しかし獣もすぐに近寄るヨエルに気づいた。

目を合わせると鼻の根元にしわ寄せて唸る。


(オオカミか。)

――こゃまだ子どもかいの。

キツネの言う通り、若い個体だった。

だがオオカミはキツネよりひとまわりも大きい。


――どんくさいやつじゃの。

目論見通りに行ったものの、

捕らえた相手が悪かった。


(オオカミの子どもを狩るな、か。)

猟師の習わしで、頭数の少ない

オオカミの子どもは狩ってはいけない。


また成長すればイノシシやシカなど

獣の敵となり、農作物への被害は減る。


猟師の獲物は減って危険性は増すが、

猟師の減った森林が獣であふれることも無くなる。

オオカミが増えればきっと稼ぎも良くなる。


「キジは後だ。」

(またうるさく言われそうだ…。)

――どうするつもりじゃ。

「オオカミを逃がす。」

だが予想していたキツネからの文句は無かった。


(逃がすなんて、どうしたもんか。)

そうは言ってみたヨエルだが、

獣を罠から逃がすことなどやったことが無い。


顎を撫でてみたものの、

父や祖父がオオカミを逃がす場面を

見たことさえ無かった。


(近くに群れがいないのは幸いか…。)


村でもオオカミに襲われ死んだ者は少なくない。


喉を噛まれ出血で死ぬ者や、

特有の毒によって、魂が荒れて死ぬ者も居る。


若いオオカミは冬毛のせいで、

ヨエルにはとても大きく見えた。


「しかし運が悪いな…。後ろ足か。」

くくり罠はオオカミの後ろ足に掛かっている。


(小屋に戻って、棒を持ってくるか。)

罠に掛かっていない自由な前足で

飛びかかられると、牡鹿の時のように

腹に乗って押さえつけるのは難しい。


――イノシシを使え。

黙っていたキツネが言った。


「イノシシ…?」

(そんなもん…。)

キツネの言った意味が途中で理解でき、

被っていたイノシシの皮を脱いで左腕に巻く。


前足が自由なオオカミは

近づいたヨエルの喉笛に噛み付く為に、

予想通り飛びかかった。


オオカミの前足を、

ヨエルは左腕のイノシシの皮で防ぎ、

さらにその口に毛皮を突っ込んだ。


唸り声を上げ懸命に首を振り、

オオカミは罠に捕まった今でも

相手を殺し、食い、生き延びようとする。


ヨエルの腕の骨を砕きかねない咬合力で、

オオカミは3重に巻いた

イノシシの厚い皮に噛み付いて離さない。


尻から倒れたヨエルだが前腕で押し返し、

オオカミを横倒しにして腹を跨ぐと、

なんとか体ごと押さえつけた。


(こりゃシカよりも大変だ。)

危機からなんとか脱し、大きく息を吐いた。


自由な右手で山刀を腰の鞘から抜き、

罠にかかった膝を手のひらで抑えて

刃の先で足首の縄を切った。


それからゆっくりと立ち上がる。


オオカミは警戒心を緩めず、噛み続けた。

ヨエルはオオカミの目を見続ける。


もし目を逸らせば、相手が怯んだと見なされ

さらに別の箇所を噛みつこうと狙ってくる。


前脚を罠に掛けたイノシシに油断した、

弟の死を思い出してつばを飲む。


罠の場所からすり足で少しずつ離れ、

自由になったことを気づかせる。


しばらくするとオオカミは

相手に敵わないことを認め、噛むのを諦めた。


後ろ足が自由になると知ると、

尻尾を向けて走って行った。


――あんなどんくさくて生きて行けるんかいのぅ。

(小屋の前で寝てたヤツが…。)

その言葉を飲み込んで、黙ってキツネを見た。


(メイのおかげでなんとかなったな…。)

イノシシの皮を巻いた腕は、

噛まれた部分が赤くうっ血していたが

傷は見当たら無かった。


――あー! わしの卵!

オオカミはキジを咥えて首を千切り、

木々の向こうへ消えてしまった。


(どんくさいキツネも居たもんだ…。)

口に出すのは止めた。

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