第41話 従順な下僕


 人族の国ガレアス。その国内には世界最大級のコロッセオが建設された都市がある。この都市の統治者、グレイグという名の男がコロッセオの統治も行っていた。


 国内外から数万人を動員し、常に活気に満ち溢れたコロッセオはガレアスにとって重要な収入源だ。そのためグレイグに対して国は大きな権力を与えている。集まった観客たちが何らかの弾みで同調し、暴動が起きた時に備えて世界有数の強力な私兵団も持っていた。


 恐れるものなど何もない。


 国王に次ぐほどの権力を持ち、やりたいように都市を運営してきた。


 しかしある時、そんなグレイグを脅かす存在が現れた。


 それは異世界からやって来た男で、スキルを持たず言葉も話せなかった。奴隷剣闘士として、1回戦で殺されるはずだったその異世界人は、なんと5級剣闘士を倒してしまった。


 とはいえ、まだそこまで問題にはならなかった。奴隷剣闘士がプロの剣闘士を倒してしまうことは稀にあるからだ。プロ剣闘士を殺された補償は興行師に賠償金を支払わせることで解決した。



 問題は、異世界人が魔法に覚醒してしまったこと。しかもその異世界人は役に立たないとされていた水魔法で、30の騎兵を一瞬にして葬ったのだ。


 異世界人の男は怪我を負った猫獣人と共に、およそ2週間もこの街に居座った。その期間の統治者の心労は途方もないものだった。躊躇うことなく騎兵を殺せてしまう男を、笑顔で接待しなければならない。この都市で一番偉いはずの自分が、へこへこしなければならない存在など許せるわけがなかった。


 だが異世界人の男、トールの機嫌を損ねれば殺されてしまう。恐怖と怒りが高まり、我慢できなくなったグレイグはトールに暗殺者を差し向けた。かつて他国の王族の暗殺に成功した凄腕の二人組を雇い、送り込んだのだ。


 これでようやく安心して眠れる。

 そう思ったのも束の間──


 トールが訪ねてきた。王族の警護すら突破して暗殺を成功させる奴らが、たったひとりの異世界人に傷を負わせることすらできなかったのだ。統治者は内心かなり驚いていたが、精一杯平静を装った。


 グレイグが黒幕だという確証はなかったのだろう。何かを責められるようなことはなかったが、その日トールはこう言い残して去っていった。


 “もし次があったら、容赦しないよ”


 あれからもうかなりの日数が経過した。しかし今でも、彼の言葉が脳裏に焼き付いて離れない。あの時のトールの冷たい顔を思い出す度に、グレイグは恐怖で身体を震わせていた。



「グレイグ様。本日も顔色が優れませんが……」


 彼を起こしに来たメイドが心配そうに声をかける。


「あぁ。今日も彼の夢を見た。まるで、そういう魔法にかけられたようだ」


 水魔法使いのトールに、悪夢を見せることなど不可能だ。そんなことはグレイグも分かっている。しかしこうも頻繁に悪夢にうなされては、日々の仕事にも支障が出る。


「いっそのこと彼に服従してしまおうか」

「あの。いったい、なにを?」


 メイドには意味が分からなかった。


 まだ心のどこかでトールに対する反骨心がある。それが彼に知られた時、報復として殺されるのではないかという恐怖が大きかった。


「よし、決めた! もし彼がここに戻ってきたら、私は彼に絶対服従を宣言する!」


 自ら口にすることで、心が晴れた。反抗せず、従順になると決意することで、グレイグは壊れそうになっていた心を守ることにしたのだ。


「おぉ! 心が軽い!! 自尊心を捨てることが、これほど恐怖の縛りをほどいてくれるとはな。もっと早くに気付けば良かった」


 あるじがはしゃいでいる理由が分からず、彼を起こしに来たメイドは唖然としていた。しかし最近ずっと暗い表情をしていたグレイグが笑顔を見せたので、彼女は少し安堵した。


「いやぁ、今日は良い日になりそうだ」


「それはようございました。……あっ、そうだ。グレイグ様に謁見したいという方がいらっしゃっています」


「客だと?」


「えぇ。まだ朝も早い時間ですし、出直していただくようにお願いしたのですが、なかなか引き下がっていただけなくて」


「そうか。今日は気分が良いから面会してやろう。名前と要件は聞いたか?」


「はい。要件は直接お伝えするからと言って、教えていただけませんでした。その方のお名前は、トール様と仰って──えっ? グ、グレイグ様?」


 トールの名を聞いた瞬間、グレイグは飛び起きて寝間着のまま部屋から出ていった。これまで見たことのない主の機敏な動きにメイドは驚いた。




「トオォォォォルさまぁぁぁぁぁあああ!」


 グレイグは叫びながら客間に飛び込んだ。

 そこに、彼の主となる人物がいた。


 服従を決意した日にトールが訪ねてきた。これは神の思し召しに違いない。グレイグはそう判断した。


「お、お久しぶりです。なんだか今日は、ご機嫌ですね」


 出された紅茶に手を付けようとしていたトールは、大声で叫びながらグレイグが入ってきたことに驚いていた。


「お久しぶりでございます! トール様の忠実なるしもべ、グレイグがはせ参じました。本日のご用は何でしょうか!?」


 元々は一介の奴隷商人であったグレイグは、王族や貴族たちに媚びを売って売って売りまくり、少しずつ地位を向上させてきた。そうしてコロッセオの統治者まで上り詰めたのだ。


 統治者になってからは久しくやってこなかったが、自分より目上の者に従順であることをアピールするのは何より得意だった。


「このグレイグに、何なりとお申し付けください!」


 彼と最後にあった時とあまりの変わりように、トールとその場にいたミーナはふたりして顔を見合わせていた。

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