愛慾に至る病
渡橋銀杏(公募集中・5月に復帰予定)
光
母から電話がかかってきたのは、下校していた途中。そう、ちょうどコンビニのイートインスペース、そこでだらだらと時間を殺していたところだった。白かったはずのテーブルに生まれた汚れ。その一つの黒い点をぼんやりと眺めながら、カロリーの多そうな揚げ物を片手に友人の話を聞く。ふんわりとした中身のない、毒にも薬にもならない話だけれども、それがよかった。どうせ、帰ってもすることがないのだ。
普段と変わらない日常がそこにはあった。
そう、あったのだ。
しかし、そんなものは簡単に崩壊する。
「あれ? 電話が鳴ってるよ」
最初、その言葉は僕に向けられているとは思わなかった。そのまま、僕は友人たちとの話を続けるが、肩をとんとんと叩かれる。少しだけむず痒い感覚が肩から広がっていった。ちょうど、僕の背後に座る形になっていた、友人の一人が電話の振動を教えてくれたのだった。
「ほら、光誠くん。電話だよ」
そう言った千草、長峰千草は、白い机の上でぶるぶると震えていた携帯電話を手に取って、僕の手を開いて半ば無理やりに握らせてきた。黒く無機質な画面には、母親の名前が表示されている。そのときに感じた言葉にして説明ができない嫌な予感を無視して、僕は面倒くさそうに通過開始のボタンを押した。
「もしもし? 今、友達と一緒にいるんだけど」
僕の苛立ちなんて完璧に無視するように、いや気にしていられないように母は言った。その声に似た声を僕は聞いたことがあった。小学生のころ、祖父が亡くなった時に母が学校へと電話をかけてきた時のことだった。
「鷹山さん。鷹山彩音ちゃん」
いったい、なんだというのだろうと思ったのを憶えている。鷹山彩音と言えば母から見れば小学校時代の同級生ではあるが、急に母が、それもわざわざ電話をかけてきてまで出てくるような名前だとは思えなかった。僕は、胸の内側にある言葉にできない嫌な予感がどんどん膨らんでいったけれども、ここまでくれば戻れない。
「彩音がどうかしたのか?」
要領を得ない会話に苛立つ僕を、しどろもどろになりながら話す母の言葉がかき消していった。その言葉を聞いた瞬間に、コンビニの硝子越しに見える道を歩く大学生、行き交うタクシー、雲の流れさえもが停止して白と黒の世界に叩き落された。
「鷹山さんが、亡くなったんだって」
最初、僕はその言葉を理解ができなかった。だけど、脳が反応するよりも早く体は理解し、適切な行動をとるようにできていたのだ。体が指先から震えて、唇が白く染まって歯がカタカタと音を立てた。急激に、体の温度が下がった気がした。
「大丈夫?」
「そ、そっか」
できる限り、平穏な口調を意識して話すけれどもそれはうまくいかなかった。頬、背中、二の腕など体の至る所に細かく嫌な電気が走った。もう少し手を緩めれば、きっと携帯電話が地面に叩きつけられる、それをしてはいよいよ不自然だと思い、再び力をこめて握りなおした。急に力を込めたせいか頭が少しずきずきと痛んだ。
「大丈夫? なんだか顔色が悪いよ?」
友人達はみんな心配してくれたが、そちらに対して気を配ることができるほど落ち着いてはいられなかった。とにかく、その場所から逃れたかった。彼らならば僕の違和感に気がついて心配してくれるだろう。それだけは避けたかった。
僕は無意識のうちに立ち上がり、半分以上も残ったポテトやコロッケを置いたまま立ち上がって、コンビニの出入り口へと向かう。赤いケチャップも、白いマヨネーズも、黄色いマスタードもすべて白と黒に染まり、とても美味しそうには見えなかった。すべてが色を失い、そのすべてが意味を失って褪せていく。
視界の端から、まるでパズルのように崩れていく。
そのまま僕は、コンビニを立ち去った。後ろから誰かが追いかけてきたような気がするけれども、そんなことを意識できるほどでもなかった。
今すぐに、この場所から逃れたかった。
「それで? どうして僕に連絡が」
その言葉が、いかにおかしいものであったか、その時の僕がどれだけ動揺していたかというのがよくわかる。連絡が来ることはあたりまえだ。母は彩音のことをそこまで詳しく知りはしなかったけれども、彩音の母は僕の事をよく知っていた。
「何を言ってるのよ。お通夜があるらしいから、それを知らせてくれたのよ」
「そ、そっか。そうだよな」
点滅し、音を鳴らす信号を視界の端に、僕は普段の倍くらい早く歩みを進めて駅の方向へと進んだ。とにかく、落ち着ける場所へ、一人の場所へと行きたかった。
図書館の端でも、個室のあるネットカフェでも無くて、自分が唯一の存在である自宅へ早く戻りたかった。途中、なんどか人とぶつかって後ろから怒鳴られた気もするけれど、やっぱりそれを意識していられるほどに余裕が残っていなかった。
「とにかく、今すぐ帰る」
そういって足を踏み出した瞬間、トラックが目の前を爆発的な音をたてながら通り過ぎていく。きっと、少しでもタイミングが違えば僕も彼女の下へと飛んで行ってもおかしくなかっただろうけれど、幸運なことに僕は今も生きている。その時に消えていればと思ったこともあるけれども、今になって思えば良かった。
もうすぐ散りゆく命だが、この一年は彼女が与えてくれたものだろうと思う。彼女の居ない世界で、僕は今も愚かしく生きているのが、心に内包するもう一人の僕から見ればひどく滑稽だ。本来ならば、彼女と共に死んでおくべきだったのだ。
「彩音」
こうして死ぬ前の走馬灯で自分の人生を振り返って、最初に出てくるのはおそらく小学生のそれも高学年の頃だろうと思っていたけれども、その通りだった。
それ以前の記憶が定かでないことも要因としてあげられるけれども、やはりそう言い切れるほどにあの時、いやあの時のあの瞬間に、彼女を始めて視界に入れた瞬間から僕の人生は輝き始めたのだ。それまでの人生はきっとあまりにもありふれていてつまらなく、無味乾燥だった。彼女が彩った人生こそが僕の人生だった。
間違いなく、彼女は僕の人生における意味だった。
彼女は、鷹山彩音は僕を輝かせてくれた。僕の人生を輝かせてくれた。彼女のために、僕は何ができるだろうか。どうすればもう一度、彼女の隣にいることを許されるだろうか。そのために、彼女の隣で再び愛を示すために生きようと決めた。
これは、一人の男の愛の物語である。
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