恋人の距離

みたか

恋人の距離

■0・初


 その感触が唇だと分かったときには、柔らかいそれは俺の口から離れていた。

「もしかして初めてだった?」

 楽しそうな目が俺を見つめる。初めてかどうかなんて、幼馴染のお前が一番よく分かっているくせに。わざわざこんなことを聞いてくるんだから、やっぱりこいつは意地悪だ。

「お前だって、初めてだったくせに」

 そう言ってから、ふと胸の中に黒いものがよぎる。

 本当にこいつは、初めてが俺で良かったのか?

「私はいいの。初めてはあんたがいいって思ってたから」

 俺の一瞬の表情を読み取って、ニカニカと笑いながら言った。俺はいつもこいつに転がされている。悔しい。でもイヤじゃない。

「ね、もう一回してみる?」

 甘い言葉に、俺は小さく頷いた。




■1・楽しみにしてるね


「ね、キスするのやだ?」

 そんなことを卯月うづきに突然言われて、手に持っていたコントローラーが落ちた。なんでもないふりをしながら拾って、また画面に目を向ける。

 夜に一緒に過ごすのは、小さい頃からの日課になっている。卯月の両親は帰りが遅く、俺の家が隣ということもあって、夕飯を一緒に食べることが多い。そのあと俺の部屋でゲームをするのもいつも通りで、母親に注意すらされない。部屋に入るな、なんて今更言えず、いつも通りを変えられないまま今日まで来てしまった。

「……なんで?」

「だって、花菱はなびしからしてくれないから」

 卯月は俺を名字で呼ぶ。恋人という関係になってからも、呼び方は変わらない。

 ……今さら名前で呼ばれても、変な感じがするから別にいいけど。

 視線は小さなモニター画面に向けたままで、互いにどんな表情をしているのか分からない。卯月のカートが俺を抜かしたところで、レースが終了した。

 俺の言葉を促すように、卯月の肩でトンと押される。髪から香った花のような匂いに、胸の奥がぎゅっとなった。

「いや、別にイヤってわけじゃないけど……」

 イヤなわけない。ただ、幼馴染から恋人になって、どうしたらいいのか分からないでいる。

「私、あんたからしてくれるの待ってるんだよね」

「あー……うん」

 それにも薄々気づいていた。目が合ったとき、一瞬物欲しそうな顔をされる。卯月の瞳が「したい」と言っていて、俺はいつも気づかないふりをしていた。

 目の前で「負け」の文字がチカチカと光っている。しょんぼりと肩を落とすキャラクターを見ながら、小さく息を吐いた。

「……じゃあ、次俺んちでご飯食べたときな」

「三日後じゃん」

 土日を挟んだ来週の月曜日。間に二日入れたのは、俺の気持ちを固めるためだ。今すぐには多分無理だ。恥ずかしすぎる。

「土日で覚悟を決めるってこと?」

「覚悟とか……大袈裟に言うなって」

「だってそういうことでしょ」

 からからと笑う声が部屋に響く。ようやく画面から目を離した俺に、卯月は丸い目でまっすぐに覗き込んできた。肩までの柔らかい黒髪が、卯月の動きに合わせてさらりと揺れる。顔が近くて、俺の心臓はみっともなく跳ねた。

「じゃあ、楽しみにしてるね」

 甘い声が心をくすぐる。キスはあの日以来していない。柔らかい感触を思い出して、そっと唇を噛んだ。




■2・ねがいごと


 今日は夕飯を食べてから、ゲームをしようとは互いに言い出さなかった。しんと静かな部屋で、卯月と向かい合って座る。変な緊張感が部屋を満たしていて、俺の手に汗が滲んでいた。

「あのさ、頼むから目閉じてほしいんだけど」

「ヤダ。そしたらあんたの顔が見れなくなっちゃう」

「あのなぁ……」

 きらきらした目が俺をまっすぐ見つめてくる。その瞳にくらくらして、膝に置いている拳をきつく握った。

 やめてくれ、そんな目で見るな。

「卯月が目閉じるまで、キスしない」

「えーなにそれ、ケチ」

「ケチじゃない」

 こんな言い合いをしていても、甘い空気が漂っているのが分かる。それを自覚してしまうと、余計にキスできそうになかった。

「もしかして、あの日も目開けてたのか?」

「うん」

「まじかよ……」

 思わず顔を覆って俯いた。初めてキスをしたあの日、俺は卯月の言葉に頷いて、素直に目を閉じてしまった。まさか全部見られていたなんて。恥ずかしすぎて死にそうだ。

 小さい頃からずっと一緒で、こいつにはどんな姿も見せられると思っていたのに。恋人になってから、見せたくない姿が増えてきて困る。

 正直、面白くない。せっかく卯月の彼氏になれたのに、俺の格好つかない姿ばかり見られている。卯月が俺を揶揄ってくるなんて昔からだが、そろそろどうにかしたい。

「卯月がそういうつもりなら」

「え?」

 不思議そうに覗き込んでくる愛らしい目を、手のひらで覆った。汗で湿った手は気持ち悪いだろう。それはあとで謝る。だから、今だけは。

「ちょっと、なに、っ」

 喋り始めた口を、俺のそれで塞いだ。柔らかい唇を味わうように啄む。

 卯月から熱い息が漏れる。は、という小さな吐息が俺の唇に当たって、痺れるような快感が体中を走っていく。

 もう片方の手で卯月の手のひらを握ったら、ぎゅっと握り返された。

 ああもう。そんなかわいいこと、しないでほしい。

「はぁっ……」

 唇を離すと同時に、目元に当てていた手のひらも外した。涙を溜めた目が俺を見つめてくる。

「もう……なに……」

 途切れ途切れに言葉を紡ぐ卯月が愛しくて、抱きしめたくなった。代わりに、繋いだ手に力を込める。

「卯月が目閉じないから」

「だからってこんな……びっくりしたっ」

「ごめん、イヤだった?」

「そうじゃないけど……」

 桜色の指先が、卯月の唇に触れる。ふに、という柔らかい感触が見ているだけで伝わってきて、顔が熱くなった。

「恋人っぽくて嬉しい」

 頬を染めながら言った卯月は、ゆっくりと目を瞑った。

 最初からこうすれば良かったのに。そう思ったけど、意地悪なこいつも嫌いじゃないから、別にいいか。




■3・大好き


「あのー、卯月さん」

「ん?」

「もうちょっと離れてほしいんですけど……」

「やだ」

 何度目か分からないやり取りを繰り返す。卯月が指を動かすたびに、肩に触れた体が小さく揺れた。その動きも体温も、俺の手元を狂わせる。

「イェーイ! また私の勝ち!」

 卯月が選んだキャラクターが、画面の中で両手を上げて喜んでいる。がっくりと肩を落とした俺の分身に、お前も大変だな、と心の中で呟いた。

「花菱、なんか今日調子悪い? いつもはもっとギリギリまで粘るじゃん」

 それはお前のせいだろ、とは言えず、言葉を飲み込みながらコントローラーを置いた。今日は何回してもダメそうだ。

「じゃあ、勝ったほうのお願いを聞くってやつ、ちゃんとやってよね」

「はいはい」

「絶対だからね」

「分かりました」

 そう言って隣に目をやると、卯月はコントローラーを握ったまま俯いていた。先ほどまでの勢いはどこに行ったのか。

「えっとね、お願いっていうのは……」

 赤く染まった耳を見て、イヤな予感が頭をよぎる。

 待て、何か変なことを言い出すんじゃないだろうな。

「あんたに、好きって言ってほしい……」

「やっぱりな……」

「やっぱりって何が!?」

「いや、別に」

 勢いよく顔を上げた卯月と目が合った。不安そうに揺れる瞳を見て、俺の拗ねたような気持ちがゆっくりと静まっていく。

 そういえば、好きってちゃんと言ってなかったな。

 キスをしたあの日、俺たちは恋人になった。キスから始まった関係だった。互いの気持ちはとっくにバレていたのに、俺たちはずっと動けなかった。俺も卯月も、幼馴染という関係が変わってしまうことが怖かったんだと思う。

 そんな俺たちの関係を変えてくれたのは、卯月のキスだった。俺はそんな卯月に甘えきっていたんだと、今更気づいた。

「……分かった」

「ほんと?」

「じゃあ、俺が言ったらお前も言えよな」

「ええっ」

 卯月の頬が桃色に染まった。耳はさっきよりも赤くなっている。

 耳にかけていた卯月の髪が、さらりとひと束落ちた。それを指先で掬って耳に掛けてやる。ほんの少し触れた卯月の耳は、すっかり火照っていた。

「なんだよその反応」

「だって、私からのお願いなのに」

「……俺だって聞きたい」

 卯月の気持ちを、俺もまだちゃんと聞いていない。

「俺から言う、から」

 心臓が口から出そうだ。ドクドクと高鳴る鼓動がうるさい。卯月にまで聞こえてしまうんじゃないか。全身が熱い。俺の顔はとっくに真っ赤になっているんだろう。

 汗ばんだ手のひらで、卯月の手を握った。俺の緊張はこいつにも伝わっているだろう。卯月の顔が見られない。

「……好き、です」

 絞り出した声は、みっともなく掠れていた。もっと格好良くスマートに言えたら良かったのに。でも今の俺は、これが精一杯だ。

 ぐ、と喉の奥で息が詰まる。早く何か言ってほしい。

「うわっ」

 固まっている俺に、卯月は勢いよく飛びついてきた。首に腕を回して、ぎゅうぎゅうとくっついてくる。咄嗟に床に手をついたが、油断したらこのまま後ろに倒れてしまいそうだ。

 卯月のあたたかさが体中に伝わってくる。色んなところが柔らかくて、頭がくらくらした。

「私も好き」

 耳元で卯月の涙声が聞こえた。

「だいすき」

「……お前、泣いてんの?」

「泣いてない!」

 そんな声で言われても、バレバレなんだよな。

 卯月の背中に手を回して、そっと抱きしめる。そのまま後ろに倒れてやると、卯月は俺に乗っかったまま声を上げた。

「わっ、ちょっと、なに」

「なにって、そっちから乗ってきたんだろ」

 卯月の柔らかい体を、俺の全部で抱きしめた。髪に手を入れて優しく撫でたら、卯月の目から涙がこぼれた。

「やっぱり泣いてる」

「うるさい」

 涙を拭うように唇で触れる。卯月の涙は甘くて、こいつはこんなところまで甘いのかと思った。

「……そういうこと、できちゃうんだ」

「ん?」

「なんでもないっ」

 拗ねたように言って、卯月は俺の首もとに顔をうずめた。熱い息が肌をくすぐってくる。その息に反応して、快感が体を走った。

 正直、そろそろやばい。

「なあ、いい加減どいてくんねえ?」

「やだ」

「おい」

「やーだ。あんたがこうしたんじゃん」

 それはそうだけど……。

 心の中でこっそり息を吐く。そろそろ離れたほうがいいと分かっているのに、無理矢理引き剥がそうとは思えない。できることなら、ずっと抱きしめ合っていたい。

 こいつにはずっと敵わないんだろうな。

 卯月に振り回されるこれからを想像して、俺は小さく笑った。



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恋人の距離 みたか @hitomi_no_tsuki

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