Runner

うるう年の二月の最終日は、季節外れの暖かさだった。


暖かい日差しがさんさんと降り注いでいる。


ジャンパーのチャックを開けた。


休日の下北沢には多くの人がいたが、通りを外れると、驚くほど誰もいない。


ビートルズの『ヒア・カムズ・ザ・サン』を口ずさみながら歩く。


今日はブルームーンとして、初めてのライブだった。


「逆に助かったよ。それに、和樹の納得できるバンドがどんなか気になるし」


和樹の知り合いだという、石田(いしだ)大輝(だいき)の言葉を思い出す。


黒縁眼鏡をかけていて、頬に大きなニキビがあった。


石田がドラマーとして所属するバンドEssentials(エッセンシャルズ)は、俺たちと同世代ながらも、人気を集めている四人組の実力バンドだ。


彼らは毎年R2に応募していて、去年は二次予選まで突破したらしい。


つまり、彼らは強力なライバルになるわけだ。


彼らは定期的に自主企画ライブをやっていて、そのイベントに出演させてもらえることになった。


インディーズバンドの企画ライブは、友人同士であれば簡単に出演させてくれることが多い。


しかしEssentialsの場合、独自の出演基準を設けているらしい。


それほど彼らのライブは人も入るし、出演したがるバンドが多いのだ。


それでも俺たちが参加できたのは、出演予定のバンドが急きょ解散して出演できなくなったのと、和樹と石田が長年の友人だったことにある。


台風が来たある夜、石田は真夜中に一本の電話で起こされた。


寝ぼけ眼で電話を取ると、電話越しの相手は開口一番「俺たちの新曲を聞け!」と怒鳴った。


それから、音割れの激しい見ず知らずのバンドのできたてホヤホヤの新曲を聞かされる災難に見舞われた。


普通なら怒ってもおかしくない状況だったが、石田は慣れているようだった。


それよりも、ようやく和樹が自らのバンドを持つことの方に驚いていた。


和樹は、今までサポートドラマーとしてあちこちに呼ばれ、どこでもバンドへの加入を求められていたらしい。


それでも当の本人が「俺の納得できるバンドじゃない」と言って首を縦に振らなかったそうだ。


それでも結成間もないバンドを、集客に苦労する自主企画ライブに呼んでくれるのは、よほど心の広い人間でないとできないことだ。


そういう経緯もあったので、俺たちは本来の入り時間よりも早めに行き、主催者や出演バンドに挨拶をしていた。


俺たちは二番目の出演で音の確認をするリハーサルは夕方からだった。


出演順とリハの順番が反対であることを逆リハというらしい。


逆リハであれば、一番目のバンドのセットのまま開始できるので、よく使われるのだそうだ。


俺たちが到着したときには、すでにEssentialsのリハは終わり、メンバーは全員揃っていなかったが挨拶はできた。


一通り挨拶を済ませると、俺たちは全員でラーメンを食った。


食い終わってもまだリハまで時間に余裕があったので、俺は一人で街をぶらぶらしていた。



ポケットのスマホが震える。


三回目のタップでようやく電話に出ることができた。


先週サラからもらったスマホは、まだ少し慣れない。


「黒田? 今どこにいる?」


裕太だった。


そろそろリハの準備をするらしい。


スマホの地図アプリを呼び出し、ライブハウスに戻ろうとした。


しばらく歩くが、どんどん見慣れない風景になっていく。


スマホで画面を縮小して見ると、先ほどよりもライブハウスから離れていることに気づいた。


再度、目的地をライブハウスに設定するが、なぜか徒歩で七時間もかかることになっている。


どうしたら戻れるのか、いよいよわからない。


これは、いわゆる迷子というやつではないか。


そう思った瞬間、背後から「すみません」という声がした。


振り返ると、ひょろりとした茶髪の男が立っていた。


人懐こそうな顔に警戒心が緩む。


「こいつになら道を聞いてもいいかもしれない」と思った瞬間、男が言った。


「道に迷ってしまったんですけど、駅ってどっちに行けばいいんですかね?」


男も迷子だった。


「実は俺も迷っている」


「あなたも迷子なんですね!」


俺の言葉に、男は焦るどころか嬉しそうにしていた。茶髪が太陽の光に当たって輝いている。


昔公園で見た茶色のゴールデンレトリバーを思い出した。


二人でスマホの地図を見たが、互いに真逆の方向を指していた。


「こんなものあるから、道に迷うんだ」


俺はスマホをしまい、勘にしたがって歩き出した。


男は「大丈夫ですかね?」と不安げな表情をしながらも、大人しく後ろをついてくる。


途中、犬の散歩をしている人とすれ違う。


駅の方向はこちらで合っているかと尋ねると、大丈夫だと言った。


犬が男に飛びつく。ちぎれんばかりに尻尾を振っていた。


男も嬉しそうに犬を撫でる。


俺は少し離れたところでそれを見ていた。


「犬、好きじゃないんですか?」犬と別れ、歩き始めると男が訪ねてきた。


「嫌いなわけじゃあないが、人間の言うことを聞くのが気に食わない」俺が答えると、「そういう見方もあるのかぁ」と笑った。


「だってそうだろ? 人間の指示に従って手を出したりクルクル回ったりして、なんであんな嬉しそうにアホみたいなことやってんだ」


「でもそうすることで、人間との絆を深めているのかもしれないですよ」


「人間なんかと絆を深めてどうするんだ?」


「生きるためじゃないですかね。彼らの祖先はもともと群れで行動しているし、人間を群れの仲間として認識しているんじゃないですか」


「そういう生き方もあるのか」世界には色々な動物がいて、それぞれの戦略を取って生きている。


犬の戦略は気に食わないが、生きるためなのであれば仕方ない。


「でも俺は野良猫みたいな孤高な存在でいたいな」


「猫も人間に助けられて生きてるじゃないですか」


「んなことあるか! 猫は一匹で暮らしてるぞ!」


「確かに一匹で暮らす野良猫も多いですけど、そういった猫も人間が捨てたゴミを食料にしたり、人から餌をもらったりして生きてるんですよね」


言われてみればそうかもしれない。


いつもの飯場は、商店街のゴミ捨て場だったし、公園の爺さんや、さくらたちのような人間に飯をもらっていた。


それでも、これまで生きてこれたのは、ひとえに俺の力が強かったからだ。


現に、一緒に生まれた他の兄弟は、ほとんどが死んでしまった。住処を離れるときに生きていた奴らも、生き残っているのかわからない。


「あ、勝手にベラベラすみません。最近、猫飼いたくて色々調べてたんで……」


俺が黙り込んでいるので勘違いをしたのか、男が勝手に弁明してくる。


「犬派じゃないのか」


「実家では犬飼ってたんですけど、猫も可愛いなぁと思って」


なるほど、こいつは良いやつだ。


話しをしていたら、駅に着いた。


「あなた天才ですよ!」男は俺の両手を取り、大げさに上下に振った。


まるで山で遭難した人間が奇跡的に救出されたようなテンションだ。


駅にたどり着いただけで、これほど喜ぶ人間は初めて見た。


男は何度も礼を言い「じゃあ俺はこっちなんで!」と言って、もと来た道を戻っていった。


なぜ戻るのだろうかと思いながらも、リハの時間が迫っていたのでライブハウスへと向かう。

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