第5話

「鹿島さん、なんか焼けました?」


 休憩中、自販機で缶コーヒーを買っていたおれを、後輩は不思議そうに覗き込んだ。


「なんだよいきなり……」

「沖縄でも行ってきたんですか?」

「んな暇ねぇよ……」

 おれは逃げようと歩き出したが、後輩は構わず後を着いてくる。

「じゃあ日サロとか?」

「ちげぇわ」

「じゃあ、なんなんですか?」

「まぁ、ちょっとな……」

「え、なんで隠すんですか??」

「別に怪しいことなんてしてねぇよ……。あ、おれ会議呼ばれてるんだった。じゃな」

「ええ?」


 不満の声を上げる後輩を置いて、おれはエレベーターに乗り込み、『閉』を押した。


 別に隠している訳ではないが……。ずっと引きこもっていたおれが、急にサーフィンを始めただなんて気恥ずかしいにも程がある。


「チン」と鳴って、エレベーターが一階に到着した。


 会社のエントランスを出ると、蝉が一斉に鳴き出した。会社の横は、ちょっとした公園になっていて、緑が生い茂り、風が通って気持ちがいい。おれのお気に入りの休憩スポットだ。


 ベンチに座り、缶コーヒーを開けた。
 目の前には、ガラス張りの高層ビルがそびえ立っている。うちのビルは新しくてきれいだが、窓がない。ずっと室内にいるとなんだか息苦しい気分になってくる。別に換気が滞っている訳ではないけど。
 目の前の木は、気持ちよさそうに風にそよいでいる。


 昨日の波、良かったなぁ〜。


 あれから南田さんの元へ通い始めて、昨日でちょうど三ヶ月。
 と言っても、週末だけなので、回数で言うと10回かそこらである。それでも、乗り方はだいぶサマになってきたし、波に巻かれることも5回に1回に減った。


 確かに、焼けたかもな。


 腕を見るとほんのり小麦色になっている。日焼け止めはウォータープルーフの強いやつをベッタベタに塗りたくって、気を遣っているつもりだったが……。


 最近はもう夏の日差しだ。ジリジリと焼けるような感覚。
 もう7月。これから本格的に焼けることだろう。


 周りになんて言われるやら……。


 しかし、南田さんが言うに湘南は夏が本番らしい。湘南人は夏に動き出す。そんな事を言われると、おれまでワクワクしてくる。


 「ピロン」と、携帯電話にメッセージが届いた。南田さんからだ。


『日曜は10時に駅集合ね』


 日曜日。

 その日はおれにとって、ワクワクなイベントが待っている。

 七里ヶ浜のサーフショップにボードを見に行くのである。


『自分のボードを持つと上達早いよ〜』


 昨日南田さんがポツリと教えてくれた。


『へぇ、やっぱ自分に合うボードでやった方が上達するんですか?』

『ちがうちがう』

『え? じゃあなんでですか?』


『楽しいから!』


 そう、満面の笑みで南田さんは答えた。


『え? そんな理由で』

『そう! 楽しいと続けたくなる、続けるといつのまにか上達する。だから楽しいのが一番なんだわ』


 南田さんはとにかく明るい。その明るさにたまに圧倒されそうになる。


 でも、たしかに一理ある。マイボードを持つなんて、考えたらめっちゃワクワクして来た。そして、そのボードを持って早く海へ行きたい。


 早く週末になんねぇかな〜。


 缶コーヒーを飲み干し、おれは軽い足取りで高層ビルへ戻って行った。


 その店は国道134号沿いにあった。
 いい具合に日焼けして、長年潮にさらされて古ぼけたような木造の二階建ての建物。一階には広いウッドデッキがあり、同じように古ぼけた木製の椅子や机が乱雑におかれている。海沿いに建てられた柵に『Surfshop NALU』と白いペンキで書かれた看板がかけられている。


「ウォンウォン!」


 突然、店の開いた扉から白いゴールデンレトリバーが飛び出してきた。

「うお!」

 おれは驚いて身を引いた。犬は真っ先に南田さんの方へ前足をあげて飛びついてきた。

「よぉ〜ナル〜! 今日も元気だなァ〜」

「バフバフ!」

 犬は機嫌良さそうに頭を撫でられている。


 その犬の後ろから、一人の男性がふらっと出てきた。


「おはよ〜、南ナンちゃん」

「おっす、心シンさん」


 南田さんより少し上の年代だろうか。パーマがかった黒髪ロングヘアを縛り、これまたパーマがかった黒いあご髭がちょろりと伸びている。おそらく店主であろう。にこにこしながらこちらを見ている。

「こちらの子? ボード探してるのは?」

「そうそう。心さんならぴったりの探してくれるかなって」

「あ、はじめまして! 鹿島と言います。今日はお世話になります!」

心さんは「うんうん」とにこにこ頷くと、

「じゃあどうぞ」

と、おれたちを店の中へ促した。


 店内は思った以上に広々としていて清潔感があった。ショートボードからロングボードまで、カラフルなボードがきれいに並べられている。

「うわ、すごい量ありますね……」

「ね、おれも欲しくなっちゃう」

「かっこいいなぁ……」

 ふと目の前のロングボードの値札をみる。


『300,000円』


 高っ! ……え、ボードってこんなに高いの? しかも中古で…。


「大丈夫、それ有名なシェーパーのやつだから。普通に安いのもあるよ」

 心を見透かしたように南田さんが話しかける。

 恥ずかしい……、でも少し安心した。

「おれ、持ってるけど、ガトへロイ。乗りやすいよ〜」

「え……」

 南田さんの倉庫部屋には何本ものボードが置いてあったが、全部でいくら費やしてるんだろうか……。ボードはハマったら沼なのかもしれない。


「どんなのが欲しいの?」

 心さんが聞く。

「えっと、おれ全然わかんないんですけど……。逆にどんなのが合うんでしょうか?」

 ふむ、と心さんはおれの体を舐めるように見始めた。

「えっと……?」

 おれが動揺しているのに構わず、心さんは聞いた。

「サーフィンはじめてどれくらい?」

「えっと、まだ10回くらいで、初心者です」

「ゆったり乗りたい? それとも激しく乗りたい?」

「どっちかと言うと、ゆったり?」

「運動神経はいい?」

「や、そんなに運動も得意では……」


 ふむ、と言って、心さんはボード棚の奥へ入っていき、黒いボードを一本引き出して、おれの前に持ってきてくれた。

「これはどう?」

 黒いボードはそびえ立つ壁のようにおれの前に立っている。

「でか……!」

「初心者にまずおすすめなのは、長くて大きくて重いボードだねぇ」

「長くて大きくて重いボード……?」

 ……なんということだ。おれとしては、もう少し短くて軽いやつがいいと思っていた。

「えっと、これとかだめですか?」

 おれのすぐ横にあった程々の長さのボードを掴んで聞いてみた。

「それは7フィートしかないから乗りづらいと思うよ〜」

「7フィート……?」

「1フィートがだいたい30cmだよ」

 南田さんが助け舟を出してくれた。

「てことは、30cm✕7だから、210cm。2m10cmか……」

「ロングボードはだいたい9フィート以上のものだから2m70以上ってことだね」

「2m70!?」

 ほぼ3mじゃないか……。

「持ってみる?」

「あ、はい!」

 心さんから黒いボードを渡され、脇に抱えるように持ってみた。ずしりとした重さ、幅も広く持ちづらい。なんだか扱える気がしない。

「うーん……」

 おれの困った顔を見て、心さんは店の奥へ入っていった。

 しばらくして戻ってくると、脇にボードを抱えている。

 洒落た深いブルーの色をした、表面の上部に「88」と白く書かれたボードだった。

 シンプルでかっこいい。

「これはどう?」

と、そのボードを渡してくれた。

「あ、軽い。さっきのより軽いですね。なんかちょうどいいかも……」

「スポンジボードなんだけど、重さもしっかりしてて乗りやすい。ベテランの人は二枚目で選ぶ人が多いんだけど、初心者にも扱いやすいボードだよ」

 ボードの面を触るとスポンジ素材と言う割にしっかり硬い。他のスポンジボードよりも丈夫そうだ。なにより、手で持った感じがフィット感がある。


「なんで88なんですかね?」


 面に印刷された『88』の数字がなんだか気になった。

 心さんはボードを撫でながら答える。


「88エイティーエイトは無限の可能性。座っても寝そべっても膝立ちでも自由に波に乗って楽しむのが88のコンセプト。上手い下手関係なく、とにかく"楽しむ"ためのボードだね」


「とにかく楽しむ……。いいですね、それ」


 おれは『88』の文字を見て愛着が湧いてきた。

 いまのおれにぴったりなボードな気がした。


「あと安いしねぇ」

 南田さんに言われて、値札を見ると『52,000円』。これまた手軽な値段である。


 決めた。


「これにします!」


 こうして、おれのマイボードは88の9フィート、シングルフィンに決まった。

 来週末がマイボードのデビュー戦。



 そうなるはず、だったのだが……。



《つづく》

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