第3話

当たり前だろうが4月の海は冷たいーー。


 周りの人々が平然と裸足で海へ入っていくので、おれは案外水温は高いんじゃないかと勘違いしていた。

「冷たっ……!」

 海へ片足突っ込んだ瞬間、思わず叫んでしまった。

 南田さんはそれを見て笑っている。

「大丈夫! 入ってる間に慣れるから。あ、波来るよ」

 波打ち際でロングボードを持って棒立ちしているおれに、波が容赦なく襲ってくる。小さな波に見えるが威力が強く、おれは足元からふらついた。

「波打ち際は波をくらいやすいから、もう少し沖へ出よう」

 コーチをしてくれる南田さんは手ぶらでどんどん進んでいく。

 おれは大きなボードを抱えながら、ふらふらと南田さんの後をついていった。


「じゃあボードに跨って、座ってみよう」

 胸くらいの水深の所へ着くと、南田さんがおれのボードを押さえてくれた。おれは勢いをつけてボードの上に腹ばいに乗り込み、バランスをとりながら上体を起こした。


 お、おお……! なんというか、すごい安定感……。


 ボードがでかいだけあって、浮力があるのか、座った時に全然揺れずに体を預けられる安心感がある。

 南田さんはボードをくるっと回転させ、おれの目線を沖の方へと向けた。


 水平線だーー。

 おれの目線の高さに水平線があるーー。


 限りなく広い空と海、青だけの世界。

 これがサーファーたちの見ている世界ーー。


「これが波待ちの姿勢ね」

 横を見ると、他のサーファーたちも皆、同じ姿勢で沖を見ていた。しばらく見ていると、奥のサーファーがくるっとボードごと一回転した。どうやら波が来たようだ。陸の方向へパドリングをし、タイミング良く立ち上がった。波に押され、気持ちよさそうに滑っていく。

 なるほど……、あんな感じか。

「鹿島くんは、まずボードの上にたってみようか」

「あ、はい!」

「さっき砂浜でやった動きを海の上でもしてみよう」


 まずは上体を起こすーー。

 で、一瞬でジャンプして左足を両手の間にーー!


 足を着いた瞬間、ボードが大きくぐらついた。

ボードは思いっきりひっくり返り、おれの体は水しぶきをあげて海の中へ飛び込んでいった。


「ーーぶはっ!!!」


「ははは! 大丈夫か鹿島くん!」

「ぺっ!ぺっ! しょっぱ……!!」

 びっくりして鼻からも口からも海水を飲んでしまった。海の水はなんでこんなに苦じょっぱいのか……。

 しかし、頭からずぶ濡れになったおかげで、むしろなんだか寒くなくなっ てきた気がした。


 よし、立てるまでやるぞ。


 何度かのダイブを経て、生まれたての鹿よりは上手く立てるようになってきた。

「よし、そしたら次は波に乗ってみよう」

「うす!」


 よし、いよいよだ!

 おれはボードに跨り、波待ちの姿勢に入った。


「この次の波がいいんじゃない?」

おれは急いで足をバタつかせ、 ボードの向きを変え、腹ばいになった。

「はい! 今! パドルして!」

 南田さんのかけ声を聞いて、おれは全力でパドリングした、が、力が足りないのか前に進まない。それを見て、南田さんが後ろからボードを押し込んでくれた。その瞬間、ボードが強い力で押され、勝手に進み始めた。


 あ、これが波をキャッチしたってことかーー。


 ボードがぐんぐん勢いに押され、進んでいく。

 不思議とボードはまっすぐ安定している。これなら立てそうだ。


 おれは上体を起こそうと、腕に力を入れた。

 すると、ボードは急に安定感を失い、大きく揺れ始めた。


 あ、やばい……!


 あっという間にボードはひっくり返り、おれは海へ放り出された。そして、波の渦へ巻き込まれていく。


 ぐわんぐわんぐわんぐわんーー


 まるで洗濯機に飲まれたように、波の力で自分の体が回転していく。おれは為すすべなく、上か下かもわからない状態でパニックに陥った。


 助けて……!


 しかし、声は出ないし、息はできない。


 え、死ぬかもーー。


「ぶはぁーーーー!!!」

 瞬間、おれは勢いよく水面から顔を出した。


 はぁはぁはぁ……!!!

 あれ、……浅い。

 

 おれが立っていた場所は、膝のあたりの深さしかなかった。

 こんな浅いところで溺れそうになっていたのか……。


「やー、早速やられたなぁ」

そう言いながら、南田さんはおれの飛んでいったボードを回収してきてくれた。

「す、すみません……。ちょっと休んでもいいすか……」


 砂浜に腰かけ、おれはぼけーっと海を眺めていた。

 「ほい」と、南田さんが持ってきてくれた麦茶のボトルを渡してくれた。喉を鳴らしながら麦茶を一気に流し込む。


 うまいーー。


 海水を飲んで塩辛くなった口が一気に洗われるようだった。

「巻かれるの初めて?」

「巻かれる?」

「さっきの、波に巻き込まれたでしょ?」

「ああ、はい。初めてです」

「じゃあびっくりしたでしょ。おれもガキの頃、初めて巻かれた時は死ぬかと思ったよ」

「本当……死ぬかと思いました……」

「でも死なないから大丈夫!」

 そう笑いながら南田さんはおれの肩をばんっと叩いた。危うく麦茶をひっくり返しそうになった。

「……本当っすか」

「うん、まぁ慣れるさ」

「はぁ……」

 半信半疑な顔をしたのに気付いたのか、南田さんはこう付け加えてくれた。

「巻かれた時はとにかく力を抜くこと。そうすると自然と浮いてくるから。もがいたりすると酸素が足りなくなって危ないからね」

「なるほど……」

「あと落ちる瞬間に深呼吸するといいよ」

「できるかな……」

「できるさ。とにかく、冷静になることが一番大事!」

「ーーはい」


 砂浜から見ていると、目の前に打ち寄せる波は大したことのないように見える。サーファーたちも難なく波に乗っているように見える。

 でも、実際に海に入れば、波はとても力強く、少しでも隙きを見せると、流されて巻かれてボロボロにされ、砂浜へ打ち戻されてしまう。


 見るのとやるのとではこんなに違うなんてーー。


「鹿島くん少し休んでれば? おれちょっとやってきていい?」

「あっはい! もちろん」

「やりぃ! ちょっくら行ってくるわ」

 そう子供のように笑い、南田さんはボードを持って海へ駆けていった。軽やかなパドリングでぐんぐん沖へ進んでいく。


 さすが、速い……。


 次々に来る波を捉え、軽々と、颯爽と、波を乗りこなしていく。


 うまい……。


 楽しそうにこちらに手を振ってくる。

 なんというか、余裕がある。めちゃめちゃかっこいい……。


 それに比べておれは、あんな浅いところで溺れかけて……。

 でも、もうあんな苦しいのは嫌だな……。

 南田さんが帰ってきたら、今日はもう終わりにしてもらおう……。


「お兄さん大丈夫?」

「え?」

 声の方へ振り返ると、目の前を真っ黒に日焼けした金髪の少年ふたりがボードを持って立っていた。小学6年生くらいだろうか。


「お兄さんさっき巻かれてたでしょ」

「めっちゃ浅いとこで溺れてたっしょ」

「いや、まぁ……うん」

 慰めてるつもりなのか、痛いところを抉ってくる少年たちである。


「まぁ最初はみんなそうだよ、大丈夫! すぐ上手くなるって」

 少年はおれの肩をぽんと叩いた。

「……あ、ありがとう」

「元気だしてね! じゃ!」

 そう言ってふたりの少年は元気よく海へ駆けていった。


「勝った方がコーラ奢りな!」

「良いよ! おれ今日10本乗る予定!」

「じゃあおれ11本!」


はしゃぐ少年らの背中を見送っていると、後ろから海上がりの南田さんが声をかけてきた。


「あー楽しかった! 鹿島くんどうする? もうやめとく?」


「……やります!」


 おれの心の奥底に潜んでいた微かなプライドを、あの少年らは焚き付けてくれたのであった。


《続く》

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