第2話 結婚式前夜
『私が婚約したのはクルーガ伯爵家の嫡男のユランよ。養子縁組が解消されるなら、私たちの婚約も解消すべきよね?』
そんな言葉を残し、さっさと外国に留学してしまったのだ。
(婚約破棄はお姉様の一方的な気持ちだもの。きっとユランはお姉様に未練があるんだわ)
ユランは子供の頃から頻繁に姉の元を訪ねて来ていたから、私もたくさん遊んでもらった。本を読んでもらったり、勉強を教えてもらったり、時には一緒にピクニックに出かけたり。
でも、ユランは私のことには興味なし。
話しかけたって必要最低限の言葉しか返してくれないし、私に向かって笑顔を見せることだって殆どなかった。
ユランにとって大切なのはいつも姉で、私はただのおまけ。
だから私のことを「好いてもいない相手」と言われても、「ああやっぱりそうだよね」としか思えない。
(別に私だって、ユランのことなんて……)
壁の向こうに聞こえないように静かに鼻をすすると、私はもう一度ユランの声に耳をそばだてた。
「鏡よ」
鏡よ鏡よと何度もしつこい。
もしかして、あの有名な昔話に出て来る『魔法の鏡』を手に入れたとでも言うのだろうか。
真実を教えてくれるという、魔法の鏡。
無表情で何を考えているのか分からないユランが、そんなものに頼るだなんて。
(いいわ。酷いことを言われた腹いせに、ちょっと揶揄ってやろっと)
私は鼻をつまんで下を向き、わざとしわがれた声で壁に向かって言った。
「ユラン・ジークリッド。私は魔法の鏡。貴方の問いに答えましょう」
壁の向こうでユランが驚いたのか、椅子が倒れたような音がする。
「ようやく私の声が通じましたか。鏡よ、私に真実を教えて下さい」
ちょっと、騙されたわよこの人。嘘みたい。
「ユラン・ジークリッドよ。貴方は大っ嫌いな人と結婚させられたらどうなるか、を聞きたいのですね?」
「大嫌いとまでは……好きではない、くらいでお願いしたいのだが」
あら、そう。
私のことは『大っ嫌い』ではなく、『好きではない』程度なのだそうだ。まあ、そもそも私に興味を持ったことすらないのだから、大っ嫌いと言われる筋合いもない。
「好きではない相手と結婚するのは、心身ともに良くありません。共に過ごすうちに無力感や悲しみに捉われ、そのうち体も壊すでしょう」
「体を壊す?」
「ええ、そうです。長く一緒にいればいるほど、精神的な苦痛は健康にも影響を及ぼしますよ。いっそのこと、この結婚は白紙にするのはいかがでしょうか? あなたの妻になる予定のエレノア嬢を王都に帰すのです。正式な結婚前なのでまだ間に合います」
(ほらほら! 大嫌いな私との結婚はなかったことにして、私を王都に返してよ!)
しばしの沈黙の後、ユランはポツリと呟いた。
「エレノアを王都に帰す……それはできない」
「なんで!」
しまった、大きな声出ちゃった。
私は咄嗟に咳払いをして、出てしまった地声を誤魔化した。
「鏡よ、驚きすぎだ。できないものはできないんだ……が、他の手を考えてみよう」
ユランがそう言った後、壁の向こうでカーテンが閉まるような音がした。魔法の鏡の前にカーテンでもかけて隠しているのだろうか。
壁の穴の隙間から差し込む灯りが消えたのを見計らって、私はそっと壁にかかっている鏡の背面を指で押してみた。やっぱりこの穴は、隣の部屋まで貫通している。
「どんなボロ屋敷よ……」
前領主であるアンゼルム・ジークリッドは、ほぼ全ての財産を使い切ってすっからかんになったらしい。
ユランが爵位を次いでまだ一年。一年では財政を立て直すまで至るはずもなく、屋敷の修繕もまだまだ先になるだろう。
初めからアンゼルムではなくユランがここを継いでいれば、きっとこんなことにはならなかっただろうに。
再び静寂に包まれた屋敷のクローゼットの中で、私は一息ついてその場に座り込んだ。
「他の手って、何を考えるんだろう」
ユランは、私を王都に帰すことはできないと言った。
私との結婚を白紙にしたところで、我がヘンゼル家はユランに対して文句の一つも言うことはない。そもそもユランを裏切って傷付けたのは、我がヘンゼル家なのだから。
しかしクルーガ伯爵家はどうだろう。
姉に続いて私もユランと結婚しなかったとなれば、さすがに黙ってはいないのではないだろうか。
「そっか。だから私を王都に帰すわけにはいかないのか」
考えるのが嫌になり、私は立ち上がってクローゼットを出る。
慣れないベッドに再び潜り込むと、早く眠ってしまいたいとぎゅっと目を閉じた。
ユランの気持ちは私に向いていないのに、明日は私たちの結婚式だ。
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