◆2
多忙なはずの姉妹の父だが、この非常事態には一も二もなくマンチェスターまですっ飛んできた。暑苦しさはあるが、顔を見て安心したのも本当だ。
「まさかこんなことになるとはっ!」
父は口髭を揺らし、赤い顔で憤慨している。
「このホテルならば大事な娘たちを預けても安心だと思ったのが間違いだった! いや、悪いのはあの若造だ!」
あの若造というのはマシューのことだ。姉妹がマンチェスターに来る用事を作った彼が元凶だと言いたいらしい。
「お父様、悪いのは犯人ですのよ」
アデルが口を挟むと、父はマシューを庇っているように感じたのか、ムッとした。
「とにかく! すぐに帰り支度をしなさい! ロンドンに帰るんだ!」
「警察の許可は下りるのかしら?」
多分、まだ駄目だと言われるだろう。しかし、それで引き下がる父でもない。
「そんなものは気にしなくていい」
ニュースコットランドヤードにも顔が利くと言い出して、父はごり押しするのだろうけれど、人が亡くなっているのだからそういう問題ではない。
「捜査に協力しなくてはいけませんわ」
いつもはアデルに甘い父だが、さすがに娘たちの身の危険を感じていては折れない。
「お前が気にすることじゃない。とにかく、帰るぞ!」
控えめな姉はハラハラと気を揉んでいた。このままだと強制送還されそうでアデルは困った。アデルたちが帰っても事件は解決するのかもしれないが、ここまで関わった以上、真相を知らず日常には戻れない。
「えっと、私、用事があるので少し出てきますわ」
それだけ言って、アデルは急いで部屋を出た。父のバリトン歌手のような声が追ってきたが、アデルはそれを無視してエレベーターに乗り込む。
とにかく、ジーンに会わなければ。
バクスター警部にも、昨日のアデルのアリバイ証明のためにジーンに会わせると言ってある。
チンッ――とエレベーター到着の音が鳴り、アデルは急いで飛び出した。慌ただしいホールの雑多な中でもアデルはジーンのことだけは見つけることができる。
何故かラウンジではなく、フロントにいた。電話をしている。何か注文でもしているのだろうか。
アデルは――いつものことだが――ジーンしか見ていなかった。だから周りを一切見ておらず、人にぶつかって尻もちをつくという失態を繰り広げた。
ぶつかった相手は男性だったから、痛いのはアデルの方だ。イタタタ、と腰を摩っていると、ぶつかったフットマンが慌てて膝を突いた。
「ああっ! 申し訳ございません! お怪我は……っ?」
怪我をするほどではなかったが、そのフットマンは前のめりだった。少々興奮気味なのは、客に怪我をさせてしまったと焦っているせいかと思ったが、そればかりでもないような。
ジーンが冷淡に接してくるから麻痺しかかっていたが、アデルは美女なのだ。男性にはチヤホヤされるものである。
「平気よ。気にしないで」
やんわり言って立ち上がろうとした時、絨毯の上に白い小花のイヤリングを見つけた。アデルが失くして探していたものだ。
「あっ! これ……」
アデルがとっさに拾うと、そのフットマンは何かを言いたそうにした。ずっとここにあったのではなく、ぶつかった際にこの人が落としたのかもしれない。
「これ、私のなの。あなたが拾ってくださったのね」
惜しむらくは、もう少し早くに届けてほしかったと思う。
見つかったのだから贅沢を言ってはいけないが。
そのフットマンはしどろもどろになりながら、なんとなくうなずいたように見えた。
「そ、そそう、です。そ、その……」
この時、いつの間にやらジーンがそのフットマンの背後に立っていた。
「カーター」
このフットマンはカーターというらしい。カーターは肩を跳ね上げて振り向いた。
「そのイヤリング、どこにあったんだ?」
ジーンは穏やかに問いかける。
その質問に対し、カーターは、えっ、と声を漏らした。
「どこって、このホールに……」
「ふぅん。拾ったのはいつだ?」
妙に突っかかる。
もしかして、ジーンが妬いてくれているのかと期待したが、それにしてはアデルのことは放置である。仕方がないから自力で立った。
「いつって、なんでそんなこと訊くんだよ?」
カーターは気まずそうだ。
しかし、アデルは全面的にジーンの味方である。ジーンが気になるのなら、そこになんらかの意味があるのだ。
「私も気になるわ。教えてくださるかしら?」
にっこりと微笑んでみせると、カーターは顔を真っ赤にして勢いよく答えてくれた。
「け、今朝です! それでフロントに届けようとしていました!」
「そうなの? ありがとう」
と、アデルはこんなやり取りをしている場合ではないのだ。
ロンドンに連れ戻されそうで焦って出てきたのだった。カーターには悪いが、アデルはジーンにしか用がない。
「じゃあ、ラウンジへ行きましょう。美味しい紅茶をお願いするわね」
ジーンに微笑みかけても、ジーンはちっともデレッとはしない。淡々と返される。
「畏まりました、お客様」
綺麗な所作で一礼すると、ジーンはアデルをラウンジへ誘う。
ただ、途中でボソリと言った。
「カーターのヤツが嘘をついたのに気づいたか?」
「嘘なの?」
ぎょっとしたものの、ジーンは少しも慌てない。
「あんたがイヤリングを失くしてから二日近く経ってるのに、ホールなんて人通りの激しいところにずっと落ちているとは考えにくい。カーターはあんたが落としてからわりとすぐに拾って、それを届けないで持っていたと考えられる」
「そうなの。忙しかったのかしらね」
帰る前にイヤリングが見つかったのは嬉しいが、今は他にしなくてはならない話がある。
アデルが深く考えずに答えたせいか、ジーンにため息をつかれた。
「持っていたかったんだろ」
「え?」
「フロントに届けたらそれで終わりだからな。誰が届けたのかも、あんたが訊ねない限りは名前すら出ない。自分で渡すつもりだったのかもな」
カーターはアデルを見て顔を赤らめていた。よくある反応だ。
しかし、アデルはカーターに興味がない。すでに顔もうろ覚えである。
ジーンはラウンジを前にしてアデルを見ずに言った。
「あんたは確かに、一般的に言う美人かもしれない。見た目に騙される男が多いのも事実だ」
「ジーンが私のことを美人だって褒めてくれるなんて!」
そんな日は来ないと思っていたので、アデルは状況を忘れて浮かれてしまった。
しかし、その途端にげんなりとした目をされたのだが。
「あんた、僕の言葉の全文をちゃんと頭に入れたか? 都合のいいところしか受けつけてないとか、あんたみたいにオメデタイ頭の人間ばっかりだったら、こんな殺人事件とか起きなかったのにな」
多分褒められている。アデルはそう考えた。
「男性ばかりじゃなくて、女性も私みたいになりたいって憧れてくれるのよ?」
男性をたくさんたぶらかしているみたいに思われたくなくて、アデルはそれを言った。これはこれで、自惚れが過ぎるとまた言われそうだが。
ジーンは深々と嘆息した。
「そこなんだよな……」
「そこって?」
「まるでベラドンナだな」
これを言った時のジーンの眼差しは、先ほどとはまるで違っていた。
犯人に対する怒りはあったかもしれないが、同時にどこか悲しげにも寂しそうにも見えたのだ。
ジーンはすでに真相に手をかけた。少なくとも、ノーマを殺した犯人を知ったのだろう。
ベラドンナとは――。
アデルはジーンの腕にしがみついた。
「ねえ、私たちのお父様が来ていて、すぐにでもロンドンに連れ戻されそうなの。でも、このまま帰れないわ。誰がノーマとデリックを殺したのっ?」
すると、ジーンはやんわりとアデルの手を解きにかかった。
ジーンの手はとても冷たかった。ジーンもまた、事件に心を痛めているのかもしれない。
「あんたたちがいても、いなくても、もう結果は変わらない。それに、真相ってのは嫌なものだったりする。いつだってそんなものだ。特にあんたの姉さんはまた傷つくかもしれないから、落ち着けるところにいた方がいいんじゃないか? 姉さんのことは大事にな」
ジーンはアデルと別れるのなんて少しも寂しくないらしい。
泣いて困らせてやりたい気持ちと、今は自分のことばかり言っていてはいけないという理性がせめぎ合う。アデルは感情の爆発をグッと我慢した。
「婚約者がここで亡くなったのよ。少なくとも、デリックの死に関して、姉さんには知る権利があるわ」
その言葉をジーンは否定しなかった。知る権利は確かにあるとして、けれど知らない方がいいことも世の中にはあるとでも言いたげな悲しい目をしている。
「ベラドンナの花言葉は、〈汝を呪う〉だ」
「へっ」
いきなり怖いことを言い出した。
「それから、〈男への死の贈り物〉。ミルトン氏も贈り物を受け取るハメになったな」
やはり、ジーンにはもうわかっているのだ。それなのに、教えてくれない。
ジーンはこのホテルで働いているから、犯人を庇いたい気持ちが残っているのだろうか。犯人はホテルの従業員の中にいると、アデルも確信したのだ。
「お願いだから教えて、ジーン!」
誰が二人を殺したのか。
アデルが声を荒らげて目に涙を浮かべると、ジーンは周囲の目が気になるのか心底困ったように見えた。
「……もう少し待て。犯人を逃がすつもりじゃない。はっきりしないことがまだあるんだ」
「もう少しって、どれくらい?」
「早ければあと一、二時間くらいだ」
その一、二時間の間に何があるのだろう。それすらもジーンは教えてくれない。
それでも、アデルはジーンのことを信じている。犯人を逃がすつもりではないと言うのなら、あと二時間は待つしかない。
「わかったわ。その間、私がしなくちゃいけないことはある? 何か警戒した方がいいものとか」
この時、ジーンは優しい目を向けてくれた。
「真相を匂わすような余計な発言はするな。なるべく口数は少なく、周りを警戒して大人しく待て」
「う、うん」
ジーンが謎を解いてくれる――なんてことを吹聴して回るなと言いたいのだ。
しかし、父は今すぐにでもアデルたちを連れてホテルを引き払いそうな勢いだ。どう時間を稼ごうか。
ジーンも仕事中である。あまり立ち話をしているのはよくない。フロントにいる支配人の視線がチラチラと刺さるのだ。
「じゃあ、そういうことだから」
それだけ言ってラウンジに行ってしまった。アデルのために紅茶は淹れてくれないらしい。
もしかすると、ジーンの先ほどの電話は事件と関りがあるのだろうか。
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