◆6
ジーンは結局、ホテルの裏口までついてきた。
今日買ったチョコレートはびっくりして落としてしまったが、ちゃんと拾った。少しくらい壊れていても食べられるということにしておこう。
――この時、ホテルの裏口から人目を避けるようにして出てきた男がいた。
先ほどアデルを狙っていたのがこの男かとドキリとしたが、それを言ったらすべての人が怪しく思えてしまう。
とはいうものの、男はきょろきょろと周りを気にし、帽子のつばを深く下げる。手には革手袋をしていた。やはり、少し怪しいかもしれない。
まだ若い男だ。脚が長く、遠目にもかなりのハンサムだとアデルは直感で覚った。
そして、見覚えがあると思った瞬間に気づいた。
「ミラー?」
人気絶頂のピアニスト、クレメンス・ミラー。
メイドのレイチェルも彼のファンだと言っていた。人気者の彼がこんなところにいると知られれば騒ぎになるから、人目をはばかるようにしているのか。
ミラーがランバート・ホテルに来ていた。何故だ。
彼はマシューと同じホテルに宿泊しているはずなのに。
アデルはその場で立ち止まり、ミラーが去るのを眺めていた。間違いなく本人だとは断言できない。かなり似て見えたけれど、アデルの見間違いかもしれない。
ここにミラーがいたとして、それがどういう目的で来たのかも謎である。
今見たものを分かち合いたくて振り向いたが、ジーンはよそ見をしていた。
「ジーン、さっき裏口から出てきた帽子を被った男性、ピアニストのクレメンス・ミラーじゃなかった?」
「知らない。見てなかった」
素っ気ない返事をくれた。周りを警戒していたせいだろう。アデルと同じ方に顔を向けていなかったのだ。
「さっきの、ホテルから私を狙ってた人がいたかもっていうのとは無縁よね?」
「仮に本人がいたとしても、ピアニストであってスナイパーじゃないからな」
「そうよね」
ジーンはアデルをホテルの中に押し込む。もうこれだけ人目があれば大丈夫だと思えたのか、気づいたらいなくなっていた。何かを確かめに向かったのかもしれない。
アデルは渋々、姉のところへ行こうとしたのだが――。
姉はデリックと共にいる。
もしかすると、不安なこの時に駆けつけてくれたことで姉はデリックを見直し、二人の距離は縮んだだろうか。
二人でいるところを邪魔してはいけないような気もしてくる。このチョコレートは明日にするべきか。
アデルが人で溢れ返るロビーを、チョコレートの入った紙袋ばかり眺めて歩いていると、思いきり人にぶつかってしまった。それはケード刑事だ。
「あら、ケード刑事」
ノーマの死が自殺とするのなら、警察がこのホテルに出入りする理由もなくなる。
ただし、ジーンの考えは違った。あれは自殺ではなく他殺だと言う。ジーンがそう言うのなら、アデルは疑わない。
いい機会だから、あの事件をちゃんと洗い直してほしいと言おうとしたのだが、ケード刑事はかなり慌てて見えたのだ。
そして、アデルを見るなり厳しい顔をした。
「こんなところに!」
「えっ?」
もうアデルは重要参考人でもなんでもないはずだ。それがどうして部屋の外にいるだけで咎められるような目をされなくてはならないのか。
呆けたアデルの手を引き、ケード刑事はエレベーターの前にやってきた。癇性な仕草でボタンを押し、エレベーターが止まる前に口早に言った。
「あなたを捜していたんですよ」
「私を? だって、バクスター警部が、もうホテルから出てもいいって仰ったのよ」
すると、ケード刑事は額に手を当てて嘆息した。
「ええ、つい一時間ほど前まではね」
「ミス・ガードナーは自殺ではなく他殺だから、調査をやり直すということでしょうか?」
だからといって、アデルを叩いたところで埃も出ない。何も知らない。今さら何を聞きたいのだろう。
ケード刑事は緊張した顔を崩さなかった。
「違いますよ。……いや、まったく違うとも言えないのかもしれませんが。その、落ち着いて聞いてください」
「私はいつだって落ち着いておりますわ」
そうだろうか、とジーンには言われそうだが、アデルは落ち着いているつもりである。
さあ来いとばかりに話の続きを待つと、チン、と音がしてエレベーターが止った。ケード刑事はエレベーターにアデルを押し込み、その狭い箱の中、二人きりになった途端に言ったのだ。
「もう一人亡くなりました」
「えっ?」
と、小さく声を漏らしてからアデルはその言葉を反芻し、そして噛み砕くと再び絶叫した。
「ええ――っ!」
アデルの無駄な声量に、ケード刑事は両耳を押さえた。この密室では音も逃げない。
「な、なな、なく、なったって、今度は誰ですのっ?」
ジーンは一緒に出かけていたから、彼ではない。それ以外の誰かだ。
チン、と再び音を立ててエレベーターが止まった。そこは三階である。
三階。ノーマが亡くなった部屋もこの三階。
またしてもここだ。
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