第3話 クライマーズ・ハイ
イブナは完全に死線を乗り越えていた。
俺も活を入れるような真似事はしたが、そんなものはきっかけに過ぎない。
彼女は自らの意志の力で、乱魔の病による死の命運をねじ伏せた。
舌を巻くほどの精神力だった。
当たり前のことだが、病が治ったわけではない。
けれど、死の気配はもう彼女から遠ざかっていた。
人間である俺には、それがどれほどの苦しみか想像するしかないが、魔核無しには確実に死に至る病なのだ。彼女の様子からも、激痛と高熱を伴うものであることは、想像にかたくない。
道は急激に険しくなった。
一歩踏み間違えれば転落する絶壁や、上下にうねるような急勾配の尾根道が続く。
どうやらバルモア山脈の中腹までの道は、ほんの小手調べだったようだ。
イブナを気遣うどころか、俺自身、決して油断できない道だった。
道が険しくなるほどに、かえってイブナの精神が研ぎ澄まされていくのを感じる。
それは、俺にも影響を与えた。
もう、俺が先導する形ではなく、二人で山越えしているという感覚だった。
声を掛け合い、時には手を取り合って、険しい道を越えてゆく。
山は立ち合いに似ている。
時おりそう思う。
勇者隊の頃、敵軍の虚を突くため、人跡未踏の山岳を越える任務もしばしばあった。
絶対にそんな場所から人が湧くはずがない、と相手に思わせる場所から進軍しなくてはならないのだ。それも、人間より優れた能力を持つ魔族相手に。
その行軍は、戦に劣らないほど、命懸けのものとなることもある。
山越えは戦の前の戦だった。
山の呼吸をつかみ、それを制す。
それは真剣での立ち合いと同じことだった。
バルモア山脈は、中腹までの道で感じたより、遥かに手ごわい相手だった。
今回は、俺よりも先にイブナのほうが山の呼吸を制していた。
病の気配と同時に、だ。
無心になる。
疲労を感じなくなっていた。
一種の瞑想状態に近かった。
死と隣合わせの急峻な道も、次にどう動けばいいか、身体が勝手に教えてくれる。
今のイブナと共になら、どこまでも行けそうな気がした。
だからこそ、休息を入れた。
比較的開けた場所を見つけ、足を止める。
「まだわたしは動けるぞ」
抗議するようなイブナの声に、俺は苦笑した。
「そうだな。おまえの影響か、俺も恐怖も疲労も感じなくなっている。それがかえって危険なんだ」
「言われてみれば……」
「そんな状態の兵が、戦でどんな命運をたどるか、おまえにだって心当たりがあるだろう?」
「なるほど、よく分かる」
人の意識とは不思議なもので、限界を超えると疲労が感じられなくなる。
けれど、感じられないだけで、それはたしかに存在する。
グリフォンとの戦いこそが本番だ、と考えれば「まだ動ける」と思えるうちに休むべきだった。
イブナは素直にうなずき、俺の隣に腰を下ろした。
やはり、その気配から焦りの色はなくなっていた。
身じろぎするのも難しい急斜面が続くので、休息は軽い水分補給にとどめた。
少し息を入れてオーバーペースにならないようにすれば、十分だ。
「不思議だな」
「なにがだ?」
「意識が澄んでいくようだ」
イブナ自身、自分の状態にとまどっているようだった。
「死域を乗り越えたからかもな。余計な力がすべて抜けて見える」
「ああ。今のわたしには、分かることが色々ある」
「分かること?」
「ああ。たとえばグリフォンだ。そう遠くないところにいる。我々は巣穴に確実に近づいている」
一般的に、魔族の感覚器官は人間のものより鋭敏なものだ。
俺たちには見えないものも見えている、というのは戦場で渡り合って、何度も感じたことだ。
その力が今、最大限に発揮されているのかもしれない。
「それと妹のことだ。シャンナはまだ生きている。なぜかそれがはっきりと分かる」
「ああ。おまえが言うならきっとそうなんだろうな」
血を分けた姉妹なら、そういうこともあるだろう、と俺はなんの疑問も抱かなかった。
たとえ遠く離れた場所にいても、魂の絆でつながっているのであれば……。
「朦朧とした意識で苦しんでいるくせに、一方でなかなか帰ってこないわたしに腹を立てている。一人で洞穴に残されて、退屈しているのかもしれない」
「それは早く迎えに行ってやらないといけないな」
「ああ。へそを曲げたあいつは本当にやっかいだからな」
そう言って、イブナは小さく笑った。
短い休息を終え、再び山道を進む。
挑みかかるような急峻な道は相変わらずだが、少しずつ道の左右が開けてきた。
尾根道を伝い、別の山に差し掛かったのかもしれない。
と、不意にイブナが鋭い声を上げた。
「待て!」
俺は足を止め、周囲に警戒の目を向けた。
だが、俺にはなんの気配も感じられない。
「こっちだ」
イブナは暗い木立の中に分け入っていった。
俺もそれに続く。
枝葉が密集し歩きづらかったが、イブナは気にも留めていなかった。
うっかり崖を踏み抜かないよう、慎重にそのあとに続いた。
すると、黒く大きな影が木立の向こうに見えた。
俺は一瞬警戒したが、影に動きがない。
イブナについて近づき、その正体を知る。
山猫の死骸だった。
まるで鋭利な刃物で斬られたように、首をかき切られている。
はらわただけが、綺麗に食われていた。
野生動物の仕業なら、こんな形にはならないだろう。
そもそも、これほど大型の獣を狩れる肉食獣がそういるとは思えない。
「グリフォンの仕業か?」
俺はイブナに問う。
彼女はかがみこみ、山猫の首を調べていた。
俺もそれにならい、顔を近づける。
「ああ。鉤爪で一刺ししたようだな」
イブナは冷静に答える。
ぞっと美しさすら覚えるほど、鋭い致命打だった。
剣術遣いなら、その切り口でどの程度の遣い手かだいたい察しはつく。
人であれば達人のワザだった。
「この近くにいるのか……」
「翼を持つ魔獣だから絶対とは言えないが、おそらくは……」
俺とイブナの声音に緊張が混じる。
――そのとき、
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