写本師シーラの欲しいもの

雨宮いろり・浅木伊都

第1話 思い立ったが吉日



「石がいるな」


 シーラはそう呟くと、木の椅子から立ち上がった。

 体中の関節が小気味いい音を立てて鳴って、シーラは初めて自分がずっと同じ姿勢で座っていたことに気づく。

 時計を見ると、どうやら十二時間以上も写本作業に没頭していたらしい。いつものことだ。

 シーラは混乱を極めた室内を横切り、壁に据えつけられた棚の小さな引き出しを、ものすごい勢いで開けてゆく。


「染料になる石は、と……。できれば精霊の鱗粉みたいな青色を出したいから、アンシャル石のコアか、最低でもエアドフリス岩が欲しいが……」


 しばしの間棚を検分したシーラは、うん、と頷いた。


「ないな! 調達しに行くか!」


 時刻は既に夜の九時を回っている。女性が一人で出歩く時間ではない。

 だがシーラは濃紺のマントを手に取ると、フードを深々と被った。夜とは言え、彼女の艶やかな赤毛は目立つのだ。


「石屋を叩き起こすか? いや、この時期アンシャル地方は雪に閉ざされているはずだから、売っていない可能性があるな」


 いっそアンシャル地方まで魔術で移動することも考えた。

 だがその前に、アンシャル石が最も使われている場所を思いつく。

 シーラはその血の気のない唇を吊り上げ、にやりと笑った。


「この辺りでアンシャル石が使われている場所と言えば――牢屋に決まってる」




 *




 誉れ高き王都、ダールトゥーン。

 王城を中心として、都市の様々な場所で市場が立っている、商業の街だ。

 栄えている場所には色んな人間が集まってくる。

 貴族や金を持っている商人たちが住まう高級住宅地を光だとすれば、シーラが足早に歩く貧民街は闇だろう。


「アンシャル石は、暗所では魔術妨害の効果を持つため、牢屋に多く使われていた時があった。百五十年前から二十年ほどの間だな。つまりその間に建てられた牢屋が一番良いわけだが」


 シーラはある貧相な建物の前に立ち、満足げに頷く。


「うん、ここだ。キャクストン裁判所」


 ここならば、シーラが求めるアンシャル石のコアが見つかるだろう。

 既に夜遅いこともあって、裁判所の門は閉ざされている。

 だがシーラは慣れた様子で裏手に回り、裏門の錠前に人差し指を当てた。


「『開け』」


 指先から編み出された魔力が、錠前を静かに開ける。

 門を軋らせることもなく、風のように滑り込んだシーラは、魔術で手のひらに小さな明かりを灯すと、地下に繋がる階段を下りて行った。

 キャクストン裁判所の地下には古い牢屋がある。

 かつて戦争があった時代に、戦争犯罪人を収容する場所として使われていたのだ。

 今はもう使われていないはずなのだが、シーラの鋭い目は、階段の上に垂れた蝋のあとを見つける。

 触れてみると、既に冷たく固まっているが、埃は積もっていなかった。


「先客がいるようだ。――まあ問題はないが、面倒は避けたいな」


 呟いたシーラは魔術で気配を消すと、慎重に階段を下ってゆく。

 そのうち、広い空間に出る。中央の通路を挟んで左右に鉄格子があり、入り口に近い鉄格子の前に、火のついた蝋燭が置いてあった。

 牢屋は静まり返っており、時折ねずみの足音のようなものが聞こえるばかりだ。


 だがシーラはその蝋燭の方には近寄らなかった。

 代わりに手近にあった鉄格子を開け、牢屋の奥の壁に手を触れて、色と感触を確かめる。


「んー……。これはアンシャル石じゃないな。修復されたのか?」


 シーラは同じことを何度も繰り返したが、求める石は見つからなかった。

 と、四つめの牢屋を出たところで、


「おーい、誰かそこにいるのか?」


 という声が聞こえてきた。恐らくは若い男の声だ。

 シーラはそれを無視し、ひたすら石の検分を続けていたが、やはり求めるアンシャル石は見つからない。

 そのうち、蝋燭の置かれた部屋の前を通る。


「やっぱり誰かいるじゃないか。若い女性がこんな時間にこんなところで、一体何を?」


 シーラは明かりを掲げて部屋の中を見る。

 金髪の、身なりの良い男が鎖に繋がれていた。口の端は切れ、腕や足に血が滲んでいる。

 投げ出された足は縄で縛られており、靴が片方なかった。

 薄明りで見ても端正な顔立ちの男だった。特に南国の海のような澄んだ青い目の色は、シーラが今欲している青色そのもので、極上の美しさを誇っている。


 だがシーラは男には取り合わず、彼が鎖でつながれている壁に向かった。

 ためつすがめつしていた緑色の目が、喜びに輝く。


「これだ!」


 彼女は懐からピッケルを取り出すと、思い切り振りかぶって壁を掘り始めた。


「おっと」


 繋がれた体を器用によじって、粉塵を避ける男。その目が好奇心を持ってシーラを見つめる。

 シーラは豪快に壁を掘っていたが、ややあってピッケルを放り出し、慎重にシルクの手袋をはめると、壁に手を突っ込んだ。

 彼女の細い指先が摘まみ上げたのは、親指の先ほどの、小さな青い石だった。


「見つけた! アンシャル石のコアだ! しかも空気に触れていないから状態が良い。素晴らしい青色が出せるぞ」


 にまにまと笑いながら、石をガラスの入れ物に収め、大事にしまう。

 すると、足元にいた男が、


「どうやら君は目的の物を見つけたようだ。おめでとう!」


 とにこやかに言った。

 そこで初めてシーラは男の顔をまじまじと見つめた。

 目的を果たしたのだから、一刻も早く帰って写本を再開したい気持ちはあったが、シーラにも好奇心というものがある。


「なぜケンデルバッハの人間がこんなところに繋がれているんだ?」

「ははっ! 私の名前と顔を知ってくれていたようで何よりだ。まあ私ほどの美男ともなれば、むしろ正体を隠す方が難しいのだが」

「いや、あなたの名前も顔も知らない。何しろ隠遁の身でな、社交界にはもう縁がないんだ」

「――ではなぜ、私がケンデルバッハの人間だと?」


 男は目を見張って尋ねる。シーラは事もなげに、


「まず、爪や手が綺麗な男というのは、金持ちか貴族と相場が決まっている。それに、そのジャケットに用いられている生地は、ノリーナ地方のものだろう。織りが独特だからすぐに分かる。高価なものだからジャケットにはあまり使われないはずだが、それを惜しみなく使っている――ということは、かなり金がある人間か、もしくは」

「ノリーナ地方を治めている貴族か、どちらかに絞られる。なるほど」


 この男、全く頭が回らないというわけではなさそうだ。

 シーラは乗りかかった船で、最後まで説明を続ける。


「加えてその靴。足裏に雌熊と子熊の紋様が入っている。ならばそれはホロヴィッツ商店の品だが、彼らは自分たちの紋様入りの品を貴族にしか売らない。とりわけ旧家の貴族にしか。――ゆえに、あなたはノリーナ地方を治めるケンデルバッハ家の人間だと推測できる」

「素晴らしい! 神はあなたに、燃えるような赤毛と類まれな美貌、そして知恵の女神に匹敵する頭脳を授けたようだ! ああ、手が縛られていなかったら拍手喝采したいところなのだが!」


 仰々しい誉め言葉を無視し、シーラは重ねて尋ねた。


「繰り返しになるが――なぜケンデルバッハの人間が、こんなところで手を縛られているんだ?」


 男はにっこりと、人好きのする笑みを浮かべた。


「その前に、美しいあなたのお名前を聞いても? ああ、私はアルフレッド・ケンデルバッハ。庶子ゆえミドルネームはない」

「シーラ。ただのシーラ」

「敏いシーラよ。あなたはきっと、世間の噂も耳に入らない、尊い場所に暮らしているのだろうね」

「というと」

「私は二年ほど前、とある事件に巻き込まれた。それから一気に有名人になってしまってね。こうして身柄を拘束されるのも何度目かもはや記憶にないが、今回は少し荒っぽかった。捕まえるにしても、もう少し紳士的に頼みたいものだね」


 なるほど、とシーラは得心する。

 囚われているにしては、やけに落ち着いていると思ったのだ。

 もっともそれは、捕まり慣れているというよりも、アルフレッド本人の性格によるところが大きそうだったが。


「なぜ捕まったかと言えば……ああ、少し私の前髪をかき上げてくれないか」

「嫌だが」

「まあそう言わずに! 素晴らしいものをお見せすると家名に誓おう。ま、庶子が家名に誓ったところで何の意味もないのだが!」


 朗らかなアルフレッドの言葉に、シーラの好奇心が少しだけ刺激される。

 彼女は指先で、アルフレッドの前髪をさらりと横に流し――彼の、左目を見た。


「……!」

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