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顔にアザを作るようになった彼は、それでも何とかみんなの前では笑顔を作っていた。彼にとって笑顔というのは自分を守る防具だったのかも知れない、と今になって思う。
ともかく彼が隣のクラスの男子にいじめられているということは周知の事実だったにもかかわらず、誰もそれに対して何かアクションを起こそうという素振りはなかった。私は先生にそれとなく様子を伝えたのだけれど、結局先生自体がその出来事に目を瞑っていたようだ。事情は分からない。後にして思うと私たちの担任だったその若い男性教師はあまり小学校というものが好きではなかったのかも知れない。ずっと後になって学校の先生を辞めてしまったと伝え聞いた。
彼が顔にアザを作るようになって十日くらい経った頃だった。帰り道で私は彼と、その大柄な男子と手下がドブ川の橋の上で何やらもめているのを見かけた。ドブ川というのは本当にドブの川ではなく、水深の浅い、学校の近くを流れている川のことで、本当は何という名前なのかを私は知らないが、誰もがドブ川と呼ぶので正式名称があったとしても誰も覚えていないだろう。そのドブ川に架かる橋の上で、彼はあの卵の玩具を手にしていた。それがいじめていた男子に取り上げられると、えい、という声と共に宙を舞い、そのドブ川へと落ちてしまった。いつまでも大事そうに持っているから遂に捨てられてしまったのだ。手下ともども大声を上げて笑っている男子に、彼は思い切り頭突きを食らわせると、その橋からドブ川へと飛び降りた。
一体何が起こったのか、すぐには分からなかったが、橋の上で男子たちが騒ぎ出してようやく私にも状況というものが飲み込めた。彼は卵を探しに飛び降りたのだ。幸い、三メートルほどの高さしかなかったのでそこまで大事には至らなかったようで、彼は水草が茂っている中に手を突っ込んでは溜まった泥を掬ってその中に卵の玩具がないかを探していた。一方橋の上の奴らはなんだか不味いことになったと互いの顔色を見て、頭突きをされて痛そうにしている男子を連れ、逃げて行ってしまった。
私はしばらくその場に立ったまま、橋の下で彼が必死に卵を探すのを眺めていたが、彼が何故そこまでしてあの嘘の卵を守る必要があるのかということについて思いを巡らせていた。ひょっとすると誰か特別な人から貰ったとても大切なものなのだろうか。その人が彼についた嘘を、彼は守っているのだろうか。そんな想像をしてみたが、よく考えてみると彼からは嘘の人物以外の話を聞いた覚えはなかった。特に家族について、彼があれこれ言っているのを耳にしたことはない。嘘話の中ですら、彼は家族について話さなかった。
ぼんやりと二十分くらい眺めていただろうか。一向に見つかる様子がないことにだんだんと腹が立ってきて、私はランドセルを川縁に置くと、膝まくりをしてから靴を脱ぎ、そのドブ川へと足を入れた。流石にドブ川とみんなから呼ばれるだけあって、汚い。おまけに酷くぬかるんでしまい、三歩進んだところですってんころりんと見事に尻から転んでしまった。
「あ」
それを見た彼はドブ川に入ってきた私に驚いて目を丸くして、いつもならなんだかんだ笑顔を貼り付けているのにそれをすっかり忘れてしまい、本当に彼の素の表情というものを浮かべていた。
「探すんだろ、たまご」
私はそれだけ言うと、自分も彼と同じようにドブ川の底の泥に手を突っ込み、もう玩具とは呼ばないそれを探した。けれど卵を掴んだと思ったら似たような角の丸い石だったり、誰かが捨てた別の玩具の玉だったりして、なかなか出てこない。
一体二人きりでどれくらいの時間探していたのだろう。いつの間にか周囲はすっかり暗がりに包まれ、見回りをしていた警官からライトを顔に当てられ、二人して説教を食らってしまった。
結局その日、卵は見つからず、一応翌日も探してみたけれど、やはりどこにもそれはなかった。
その翌日、彼はまた「拾った」と言って別の「かいじゅうの卵」を持ってきた。今度は石のようなそれではなく、ちゃんと色が塗られている。しかも実にグロテスクに青と緑と赤とオレンジがまだら模様になっている。何かを参考にしたのだろうか。それは一代目の卵の玩具よりも少しだけ「かいじゅうの卵」ぽいと私は思った。
しかしその二代目は数日後に、いじめっ子の男子の手により二階の窓から投げ捨てられてしまった。
それでも飽きずに彼は三代目、四代目と「かいじゅうの卵」を拾ってきては、授業中、大事そうに温めていた。
十二月に入ったある日だった。突然、彼が学校を休んだ。冬に半ズボンでも全然平気そうだった彼に風邪という理由は不似合いだったが、誰も何も言わず、寧ろ厄介者がいなくて教室が平和だという空気が広がっていたことを覚えている。
結局、彼はそのまま二度と学校へは来なかった。
三学期の始まりと共にやつれた男性担任がぼそりと口にした事情は「転校した」というものだった。一体何故、どんな理由で転校になったのかは明かされず、ただ「家庭の事情」だとしか聞かされなかった。私はそれとなく、他の生徒に事情を知っていないかどうか探りを入れてみたのだけれど、一番会話をしていたのが私だったということもあり、何も情報は得られなかった。そもそも誰も彼の家を知らないし、家族のことも分からないし、何故彼があんなに嘘をついていたのかも分からないままだった。
その彼から一月くらい経って、手紙が送られてきた。手紙というか、ひと抱えもある小包だった。爆弾でも入っているのだろうかと、少しびくびくとしながら開封するとそこには「世話になった」という紙のサイズに収まりきらない手書き文字と、あのカラフルな怪獣の卵が一つ、入れられていた。大半は紙を千切りにしたような梱包材で、まるで鳥の巣のようにも見えて、私はそれを見た時に思わず笑ってしまった。その隅っこにこっそりと隠れていた手紙には両親が離婚したことと、父親に引き取られてアメリカに行くこと、それから「ともだちへ」という一言だけが添えられていた。
それを目にした時に私は彼の嘘にもう少しちゃんと付き合ってやるべきだったんだろうと、少しだけ後悔をした。
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