第13話 神社、雨宿り、白シャツ

「あの刑部さんを撒けるとは――」

「雨が降ると匂いが消えるからじゃない?」

「警察犬かよ」


 多分だが、ここは学区から外れているのではないだろうか。基本的には真面目な刑部さんは、探索範囲を無意識に学区内に定めた。そこをはみ出した俺たちが偶然に勝利したというわけだ。


「やっと見つけたね! ふたりきりになれる場所」

「毎日ここに来るのは嫌だぞ。遠いし、人がいないのも雨のせいだろうし」

「そっか……」


 宇多見は不満げな声をあげた。横に座る彼女を見る。


「まあ、今ふたりきりなのは事実だ。雨宿りついでに、ゆっくり――ぃぃっ!?」


 俺は弾かれたように顔を正面に戻した。


「どうしたの? 変な声あげて」

「い、いや……」


 ハンカチで髪を拭っている宇多見。当然、全身もずぶ濡れ。そうすると白いシャツはぴったりと身体に貼りつき、透けてしまう。


 豊かなふたつのふくらみと、それを包むアンダーウェア。


 さすがにスカートは透けないが、濡れてくっつき、肉感的なふとももからヒップのラインが浮き彫りになっていた。


 ――本当に水色だった……。


 鼓動が早くなり、頭がぼうっとして明らかに思考力が低下する。理性が抑えこまれ本能が優位になった兆候だ。そう分かっているのに身体の変化はどうしようもない。これが本能の本能たる所以なのだろう。


「なに? 急に黙りこんで。――あ」


 視界の端で、宇多見が胸元を腕で隠した。


 気まずい沈黙。空気を変えようと、最近見つけた歌うまVtuberの話でも振ろうとした、その寸前。


「……いいよ」


 と宇多見が言って、腕を下ろした。


「な、なにが」

「見ても」

「は!?」


 思わず裏声が出た。


「いやいや! 駄目だろ」

「なんで?」

「なんでって……」


 なんでだろう。


「わたしたち恋人だよ?」

「……」


 人前ではなく、恋人であり、しかも本人からの申し出だ。駄目な理由はない。


「か、神様の前だから」

「信じてないくせに」


 躊躇する理由はなんだろう。倫理観? 恐怖心?


 ともかく正体不明のなにかが、暴れたがる獣に鎖をかけて必死に引っ張っている。


「これね」


 宇多見がシャツの上から下着に触れて、恥ずかしそうに小さな声で言う。


「昔、丸瀬が好きって言ったから、この色にしてみたんだ」


 ――あ……。


 その一言で獣が巨大化して容易に鎖を引きちぎった。


「う、宇多m――!」

「……くちっ!」


 ――『くち』?


 それは宇多見のくしゃみだった。見ると彼女の唇は血色が悪くなり、腕には鳥肌がたっている。


 ――……。


 獣がみるみる小さくなり、ちょこんと行儀よくお座りした。


 俺はサブバッグからジャージを取り出し、宇多見の肩にかける。


 きょとんとした顔で宇多見は俺を見た。俺はまた顔をそらす。


「寒いなら言えよな」

「……なんで?」


 なんかいろんな意味を含んだ『なんで?』だなあ、と感じる。


「気持ちは嬉しい。でも風邪でもひかれて何日も寝込まれたら俺が退屈するだろ。それに、帰りにじろじろ見られるかもしれないし」

「……」


 宇多見は俺を覗きこむ。


「寂しいってこと?」

「……っ」

「わたしに会えなくなるのは寂しいし、ほかの男にブラを見られるのは嫌ってこと?」


 その顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。


 ――この野郎……。


 そういう独占欲みたいな気持ちは、正直に言えばある。


「っさいな! お前のことを思ってだよ!」

「ん、まあ、そういうことにしておいてあげますか」


 満足げな顔で頷く。


「じゃあありがたくお借りします」


 と、ジャージに腕を通し、ファスナーを閉めた。


「でもそのジャージ、体育で使ったから臭いかも」

「そう?」


 宇多見は襟のあたりをくんくんと嗅いだあと、はにかんで言う。


「いい匂いだよ」

「嗅覚死んだのか?」

「生きますけど!?」


 そのとき俺たちは、先ほどまでうるさいくらいに神社の屋根や地面を叩いていた雨の音が小さくなっていることに気づいた。


 やがて軒端から落ちる水滴の音しか聞こえなくなり、それとほとんど同時に雲が切れて陽光が差しこんできた。


「よっと」


 宇多見は階段を一足飛びに降りた。


「じゃ、帰ろっか」

「元気だな」

「なんか回復した」


 と、歯を見せて笑う。


「ほら、早く行くぞ丸瀬!」


 そう言って宇多見は、きらきら光る雫を跳ね上げながら参道を駆けていった。


 ――やれやれ……。


 俺はおもむろに立ちあがり、階段を下りる。


 と、そのとき。


「やっとやみましたか」


 という声とともに刑部さんが本殿の床下からにゅっと現れた。


「うおあああああ!?」


 俺はあまりの驚きに後退りしてつまずき、階段に尻もちをついた。


「な、な……!?」

「なんですか大きな声をあげて。はしたない」

「床下から出てくるのははしたなくないのかよ!」

「しょうがないでしょう。雨宿りしつつ、おふたりを観察するポジションはそこしかなかったんですから。本殿に入るなんて罰当たりなことはできませんし」


 やはり倫理観がバグっている。


「しかし残念だったな。刑部さんの期待どおりには――」

「それはもう結構です」

「え、結構?」

「もう監視しませんという意味です」


 ――はい?


 それは大変に喜ばしいことだ。しかしこうもあっさり引き下がられると拍子抜けしてしまう。


 刑部さんは刑部さんで、いつものギラギラした感じはなく、なんだか気の抜けたような様子だ。


「どういう心変わりだ」

「わたしは『人が愛しあうさまを見たい』と言いました」

「ああ」

「だからもう結構です」

「?」

「ああもう察しが悪い人ですね! もう見てらんないっつってんですよ!!!」


 刑部さんは肩を怒らせて去っていった。


 ――……?


 理由は分からないが、刑部さんの尾行は終わりを告げたらしかった。





 翌朝、数日ぶりに堂々と宇多見と登校していると、


「おはようございます」


 と、刑部さんの声がかかり、俺たちは同時にびくりとした。


「そんなにびくびくしなくとも、もう監視をする気はありませんからご安心を」

「本当か……?」

「ええ、もちろん。――カップルはおふたりだけではありませんので」


 と、にやりと顔を歪める。背筋がぞわっとした。ホラーかよ。


「では失礼」


 俺たちの横を通りすぎるとき、


「お幸せに」


 と微笑み、刑部さんは歩いていった。


 俺と宇多見はお互いの顔を見る。


「今――」

「祝福されたな」


 こうして俺たちは課題をクリアしたのだった。

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