26.次元渡り
ハクト・ピョンは固唾を飲んで見つめていた。
その視線の先に。見えない何かが揺らめいているのが見える。例えるなら湖底が見えるほど澄み切った揺らめく湖面のようだ。それを作り出したのが黒髪を後ろで束ねた長身の少女イサナキ・ゼツナ。
遠目から見てもかなり疲弊していることがわかる。ハクトには想像すら出来ないが、揺らぎを維持するのに相当の精神力が必要なのだろう。
ふいに長身の身体が少しだけふらついた。
(――あっ)
ハクトが声を上げるよりも前に、再び身体に芯が通ったように体制を整えるゼツナ。
初めて揺らぎを作り出した時にはその場に崩れ落ちるかのように気を失った彼女だったが、今はもう倒れることもない。
最初と二度目の時はハクトがすぐさま駆けつけ、【
『――ゼツナのそばに付いてやってくれない? あの娘、何をするかわからないけど、たぶん無茶をすると思うわ。きっとハクトの
彼女はその後、魔力の通りが良い場所に何やら魔術的な
「あっ!」
今度は思わず声が出た。
目の前の光景がハクトの思考を現実に切り替えさせる。揺らぎの中にゼツナが飛び込んだのだ。
「ぜ、ゼツナさん!?」
ハクトが見つめる先、ゼツナは揺らぎを通り抜けることなく水面に飛び込むかのようにその身を沈み込ませていく。最後に波紋を描いて揺らぎは消えた。
◇
そこは例えようのない世界だった。
チェシカたちと出会ってまだ数日だが、自分が本当に狭い世界しか知らなかったのだと痛感したがそれでも――と、ゼツナは思う。
そんな自分でもこの空間は他にない異常な世界なのだと理解出来る。
今日は里に戻って来て四日目の昼過ぎだったはず。天候も良く陽の光が注ぐ里の景色だったはずが、今目の前にある光景は不規則に色を変えていく。まるで水面に油を垂らしたようなゆらゆらと波打つ七色の光のように。
そして身を包み込むような軽い圧迫感。それは水中に立っているかのような感覚。動けなくはないが身体が重い。
動きが緩慢になる。
意識が緩慢になる。
思考が緩慢になる。
想いが緩慢になる。
(――わたしは なにを している どこへ いこうと している わた――し――)
自らが虚空に作り出した空間の歪みに飛び込んだことすら希薄になっていく。そしておぼろげに浮かび上がって来る情景。
自分が何かと戦っている。
独りではない。まわりには里の仲間がいた。共に戦う仲間。
しかし仲間たちはその何かによって次々と
巨大な土塊の人形。その大きさは里の
(なんだ あれ は どこ――だ わたしの さとじゃ――ない)
大魔神。
自分の主に敵対する君主が配下の妖術。
大量の死人の腐肉と
仲間たちもその巨体目掛けて火薬玉で攻撃を仕掛けているが、表面の土片が崩れ落ちるだけで、大したダメージは与えられていない。
闇雲に攻撃をしても仲間の犠牲が増えるのみ。このままでは里が全滅してしまう
(そんな こと させ――ない)
見知らぬ里で自分ではない自分が仲間に向けて何かを叫ぶ。
その声を訊いて、仲間たちは統率された動きである目的を伴った攻撃へと切り替える。全方位からだった攻撃を一面方向、大魔神の真正面からの攻撃に。
里の仲間全員が下がりながら一斉攻撃を大魔神の正面へ行うことによって、注意を前方に向けさせる。
下がる仲間を追って前のめりに歩を進める大魔神。手にした巨大な土剣を振りかぶったその瞬間――。
大魔神の土剣が七色の揺らぎに振り下ろされると同時に、その巨体が
(わたし は どこ――へ とんだ わた――私は どこへ 跳ぶつもりだった 私はッ!!)
その瞬間、七色の揺らぎが透き通った水中のようになり鮮明になった視界は、里全体を上空から俯瞰した景色のように広がっていた。
眼下には数日前に作った仲間たちの
(あそこへ)
意識したと同時にゼツナは
「――何が……あっ」
急に力が抜け立っていられず、すとんと尻もちをつく。
「ゼツナさ~んッ!!」
遠くで自分の名を呼ぶ声に、ゆっくりと首を巡らす。たったそれだけの行為がとてつもなく億劫に感じられた。
ヒョコヒョコと白い塊が跳ねるようにこちらに向かって来る。
子供のように小さな身体をした人型の兎。
「――ポテト」
覚えていなかった。
「ハクトだウサ! 人を勝手にジャガイモ呼ばわりしないで欲しいウサッ!」
両腕をグルグルと振り回して抗議の声をあげるハクト。
「あ、そんなことより大丈夫でウサ? 今、回復術を――」
「いや、だいじょ――はッ!! そんなことよりあれからどれくらいの時間が経った! まさか満月の日は過ぎたのか!?」
ぼんやりとした記憶の中、どこにいたのかはっきりとしないがゼツナには随分と時間が経過したように感じられた。それこそ数日単位で。
「ウサ? どれくらいって一瞬だったウサ? ゼツナさんが消えたと思ったら、すぐにここに現れたウサ」
「――すぐ……だと?」
「ウサ」
コクコクと頷くハクト。
ゼツナには信じがたいことだった。
徐々にはっきりとしてきた記憶では、確かに自分は次元の揺らぎを作り出しその中へ飛び込んだ。だが、そこで記憶があいまいになり、感覚的には水中に漂っていたようなものだったが、数時間どころではない時間を揺らぎの中で過ごした感覚だったのだ。
(あの覚えのない里。大きな土人形が攻めて来て私は戦っていた。あれは夢だったのか)
ゼツナは里を見回してみる。
当然ながらゼツナの里には物見櫓などない。昔はあったというような話も訊いたことが無い。ならばやはりこの里ではなく夢の中での話――だったのだろうか。
「大丈夫ウサ? やっぱり回復聖術を使うウサ?」
「ありがとう。だけど今はいい。何というか、この心地よい気怠さをもう少し感じていたい気分なんだ」
「――マゾでウサ?」
それには答えずゼツナは並んだ
「みんな。私は会得したぞ。"次元渡り"を」
そう言うとその場で仰向けにゴロンと寝転がる。
「――兄上」
見上げた空には
二日後の夜に。
この空は満月を迎える。
◇
夕日の赤い陽光が、背まで流された艶のある黒の濡れ髪を照らしてキラキラと煌めいている。
同様、蓮の葉のように水を弾く若々しい素肌もまた神々しいほどに。
里の森にある湖。
一糸纏わぬ姿で身を清めるその裸身を、いくつもの雫が肌を這うように滑り落ちて行く。
ゼツナは沈みゆく夕日が織りなす赤と濃紺の
湖から上がると身体と髪を拭き、衣服と装備を身に付けて行く。
黒の衣装に黒く染めた
速度重視の戦闘を行うゼツナは、
腰には新しく購入した片刃の
髪はまだしっとりと湿り気を帯びているので結い上げず、背に流したままゼツナは里村へと戻る。
「ゼツナさ~ん」
村の中央にある畑でハクトが手を振ってゼツナを迎えてくれる。
「ハクト、まだいたのか?」
「え~、それってちょっと酷くないウサ?」
頬を膨らませて不満の抗議するハクト。可愛らしすぎてまったく怒っている雰囲気は出ていないが。
「いや、そうじゃなくてだな。ここはもうすぐ戦場になる。お前はもう帰った方がいい。チェシカにも言われていただろう」
「う~、そうなんだけどウサ。ちょっと魔人っていうのを見てみたいウサ」
「ダメだ。帰れ。正直いって私自身のことで手一杯だ。何が起こるかわからぬし、何が起こったとしてもお前を守る余裕などないからな」
「え~」
「――帰らぬと言うのなら、力づくでということになるが?」
構えは取らないが少しだけ"気"を強める。
「う~。分かったウサ」
「――いや、待て」
「どうしたウ――」
ハクトは途中で言葉を飲み込む。
ゼツナが真剣な表情で森の奥を伺っていたからだ。
「……気のせいだったか。いや、違う」
先ほどまでとは違う方向に視線を向ける。
今いる場所より遠く。
森の湖から引いている水の貯水槽あたりに、淡く光る魔力光と共に魔法陣が浮かび上がっていた。
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