1-11 謝謝

 本館に戻ったその足で食堂に向かうと、岩武くんと久地、それに姉崎の三人がいて、食卓の準備を始めていた。隣の調理室からは洋食屋さんめいた良い香りが漂ってきている。


「来た来た。二人とも手を洗ったら一緒に食器の準備をしよう」


 たかがゴミ出しに随分と時間を掛けてしまったあたしたちへの不満などわずかも滲ませずに、岩武くんは笑って言った(その横で久地はまあまあ滲ませていた)。


「一人は調理班の応援に回ってもらった方が良いんじゃないか?」


 姉崎が紙食器の包装を破りながら言うと、岩武くんがすぐに「そうだね」とうなずいた。


「あっちも人手が必要だ」


「なら、私が向こうに行くよ」


 手を挙げたのは清乃だ。まああたしに夕ご飯の支度は任せられないと思ったのだろう。その判断は正しいので「任せた」と言って隣室に送り出す。


「それじゃあこっちも仕上げにかかろう」


 あたしが食堂の隅の水道場で手洗いを済ませると、姉崎が綺麗に畳まれたテーブルクロスをひらひらさせて言った。


 食堂は音楽堂ほどではないにせよ、かなりの広さだった。全てのテーブルを使えばゆうに五十人は食事ができるだろう。今回は部外者のあたしと顧問のウミセンを勘定に入れても九人しかいないので、八人掛けのテーブルを一つ用意すれば事が足りる。そんわけであたしたちは、部屋の中央にある一枚板のダイニングテーブルを四方から囲んで、テーブルクロスで覆った。


「なんかこのテーブルだけやけに高級感あるね」


 他がハウスセンターとかに雑に積まれていそうな折りたたみ式のテーブルなこともあって、これだけやけに目立っている。


「だよね。東高OBが寄付してくれたものらしいよ」


 岩武くんがすぐに反応してくれる。それに「地元の家具工場の社長さんだって話だよ」と補足するのが姉崎で、「どうせなら食堂のテーブル全部をちょっとずつ良いやつに換えてくれた方が、こっちとしても素直に賞賛してやれるんだがな」と謎に上から目線なコメントをするのが久地だ。


「今のうちでも並べられるものは並べておこう」


 姉崎が割り箸やらお皿やら駄菓子やらの袋を持ってきて、ぽいぽいとテーブルの上に滑らせながら言った。


「甘いやつも並べるのか?」


 久地がチョコレートクッキーの徳用袋をつまみ上げて言った。


「もちろん。どうせシームレスに二次会に突入するんだし、初めから開けておくのが合理的だろう?」


「……オレは飯と菓子の分けははっきりさせたいタチなんだがな」


「久地くんの席にだけ衝立でも置いておこう」


「勘弁してくれ」


 そんなこんなでテーブルの準備が万端整ったところで、岩武くんが鼻をくんとならして「そろそろ出来上がりかな?」と言った。


「手伝いに行くか」


 久地が腕まくりして言うのにあたしも小さくうなずいたところで、姉崎が小さく手を上げた。


「悪いけど男子二人は先に行っててもらえないかな」


 そう言ったのは姉崎だった。男子二人と言うからにはあたしとここに残るつもりらしい。岩武くんが訝しげに首を傾げると、姉崎は意味ありげににやりと笑って「なに、川原くんとちょっとしたがあるんだよ」と続けた。


 岩武くんと久地は一瞬顔を見合わせたが、すぐに「了解」「終わったらすぐ来いよ」と言って、すぐに調理室へと向かって行った。


「出よう」


 調理室に繋がる引き戸が閉まると、姉崎は短く言って、あたしをラウンジに連れ出した。扉の向こうで聞き耳を立てられていては困るということなのだろうが、密談のことはあたしにとっても寝耳に水の話だ。用件もわからないまま歩かされるというのはどうにも気持ちが落ち着かない。


「ねえ――」


 痺れを切らしたあたしが口火を切ろうとしたところで、姉崎が先回りするように素早くこちらを振り返った。


「ありがとう、川原くん」


 突然の謝意表明。さらに姉崎は、困惑するあたしに向かって深々と頭を下げた。


「今日のあたし、何か姉崎に感謝をされるようなことをしたっけ?」


 心当たりはない。寝耳にもう一度水を注ぎ込まれたような心持ちで目をしばたたかせていると、姉崎はゆっくりと顔を上げた。


「今日じゃなくてね。だよ」


「え? それってもしかして」


 そういうことなら心当たりはあった。花火大会のあの日、あたしは──。


「うん。その節はわたしの代わりに山辺くんを助けてくれてありがとう」


 やっぱりあの一件のことか。でも、そう言うことなら姉崎は、あの夜のということになる。


「……清乃と一緒に花火大会に来てた友達って、姉崎だったんだ」


「実はそうだったんだ。わたしから誘って出かけたのに、途中ではぐれてしまって山辺くんに怖い思いをさせてしまったこと、今でも後悔しているよ。偶然川原くんが通りがかってくれなければどうなっていたことか、想像するだけでも震えが来るくらいだ。君にはいくら感謝してもし足りない」


「大袈裟だよ。あたしは一人で困っていた清乃に声をかけて、案内所に連れて行っただけ」


 あたしが言うと、姉崎は目にゴミでも入ったかのように大げさに瞬きをした。大きな瞳が天井照明を反射して、ぬらりと光る。


「謙遜だね。それともにとってはあの程度、大したことでもなかったのかな」


 そんなことはない。ごく客観的に言って、あれは大したことだったのだ。後になって思い出す度、無茶なことをしたものだとため息をつくくらいには。


「言い方が悪かった。あたしが言いたかったのは、過ぎたことをあまり重く考えすぎないで欲しいってことだよ」


「どういうこと?」


 また、姉崎の瞳が光った。それで気がついた。姉崎の瞳は確かに大きいが、よく見ると瞳孔自体はかなり小さいのだ。大きく広がった虹彩の中央に、ある種のイヌ科動物を想起させる険しさが存在していた。


「さっき姉崎は、たまたまあたしが通りがからなければどうなっていたことかと言っていたけどさ。裏を返せば、あたしが通りがかった結果、わけでさ。姉崎だってわざと清乃を一人にしようとしたわけじゃないんだしさ、そうやっていつまでも自分を責める必要はないと思う」


「川原くん――」


「多分清乃だって今の話を聞いたら同じことを言うんじゃないかな」


 姉崎は一度目を瞑り、鼻から小さく息を吸った。再び目を開いたとき、険しさのある瞳孔と虹彩の境界は不明瞭になっていた。


「ありがとう。こんなことならもっと早く君に話しかけていれば良かったよ。今はそっちの後悔の方が大きいかな」


 どこか取って付けたような笑みではあったけれど、あたしは「これからよろしく」と言って笑い返すことにした。


「それはそれとして、ちょっと良いかな姉崎」


「なんだい?」


「さっきの『ありがとう』が本心から出た言葉だって言うんならさ、どうしても頼みたいことがあるんだ」


「わたしにできることなら」


「うん。さっきの変な二つ名のこと、一秒でも早く忘れてくれないかな!」


「変な二つ名? ああ、青須中の狼?」


「だから口に出すなっつーの! 全く、誰が言い出したのか知らないけど、あの悪名のせいでどれだけ風評被害を受けたことか……」


 こちらから喧嘩を売ったことなんて一度もないし、威張るだけで実力が伴わない先生にも間違いを指摘するくらいがせいぜい。洋食屋で味のないスパゲッティが出てきたときだって、コックさんに「塩を入れ忘れていません?」と尋ねただけなのに、何故か話に尾ひれがついて、料金以下のマズいめしを食わせる店には代金を払わないなんてしょっちゅうということになってしまった。不良のレッテルを貼られる者の身にもなって欲しい。


「悪名ねえ。私たちの中学では、正義のヒーローみたいな扱いだったんだけどな」


「それはそれで嫌」


 まったく、青須中の狼といい、ターボ女子高生といい、高校生探偵(偽)といい、あたしにつけられる二つ名はどれもこれもろくなものがない。しかし、その中でも思い出補正込みで絶対に思い出したくないのは、青須中の狼だ。


「わかったよ。川原くんがそこまで言うんなら、あの二つ名のことはく忘れることにしよう」


「疾くよろしく!」


 あたしがそう返したところで調理室のドアが開き、久地が姿を見せた。右手に手提げ袋とメモ帳の切れ端を持っている。


「まだかかりそうか?」


「ううん。今済んだところ」「任せきりにしてすまなかったね」


「謝るなよ。らしくもない」


 軽く憎まれ口を叩くと、久地はあたしたちの横を通り抜けて自販機の前に立った。


「お前らは何が飲みたい?」


「奢りってこと?」


「海野さんのな。全員分まとめて買っとくから、希望があれば言ってくれ」


 あたしは鼻をくんと鳴らして、調理室から漂ってくる匂いを嗅ぐ。デミグラスソースに、火の通った鶏肉と香味野菜。名探偵ならずとも、素晴らしいブラウンシチューが完成したと推理できる。


「あたしはミネラルウォーターで」


「わかった。姉崎はどうする?」


「みんなは何にしたの?」


 姉崎は久地の側まで行って、横からメモを覗き込む。


「決めた。お茶にしよう」


「わかったよ。それじゃ姉崎は川原と一緒に調理室に行って、食堂に料理を運ぶのを手伝ってやってくれ。オレは飲み物を買ったら海野さんを呼んでくる」


「オーケー。疾く行こうか。川原くん」


「はいはい。疾く、行きましょう」


 どうやらあたしたち二人のお気に入りのフレーズになってしまったらしい。

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