第16話 エンバーミング
翌日。何かが鳴く声がして、エレンは目が覚めた。どうやら、近くを散歩中の犬が吠えたようだった。エレンはベッドから出て、身支度を整える。安心して眠って、朝を迎えられる。エレンは、数日前までの生活が遠い昔のことのように感じていた。
「あ、エレン。おはよう」
リビングに行くと、すでにレインが起きていた。朝ごはんのパンを焼いているようだ。
レインは、六歳とはとても思えないほど、しっかりした子どもだ。朝自分で起きられるし、ごはんも一人で食べられる。火の扱いに不安な様子はなく、包丁も危なげなく使えている。
「レイン、君は随分いろいろなことができるね」
エレンがレインくらいの年だった頃、これほどいろんなことが出来ていただろうか。きっとそれは、一般的にもそうだろう。それに、両親を失ったとは思えないほど冷静だ。失った悲しみを、こんなにも早く振り切れるものなのだろうか。
「母様も父様も、仕事が忙しかったの。だから、少しでも二人が楽になったらなって。いっぱい練習したんだ」
だから、とレインは続ける。
「母様も父様も死んじゃって、僕がやってきたことは、無駄だったのかなって思った。二人がいなくなったら、僕は一体どうしたらいいんだろうって」
彼の抱える気持ちは、当たり前のものだ。愛されて育ったのであれば、なおさら。
「でもね、今は違うの。僕には、エレンがいる」
紫陽花色の瞳が、翠色を見つめる。その色に不安はなかった。
「僕ね、エレンのことずっと前から知っていた気がするの。おかしいと言われても、仕方がないのだけれど」
「俺に?」
レインはうなづく。その言葉に、エレンも思うところがあった。ここで過ごして一週間。ずっと昔から、レインと一緒だったような。今が、自然なことのように思えて仕方がなかった。
「不思議だね。俺もなんだか、そんな気がするんだ。ふふ、おそろいだね」
「本当?嬉しい」
レインは花のように笑う。エレンもつられて笑った。
少し焦げてしまったパンを食べた後。向かいでオレンジジュースを飲んでいるレインに、エレンは尋ねた。
「そういえば、レイン。今日は、花屋と別の仕事をするのかい?」
「うん。ええっと、説明してないよね」
「詳しいことは何も。ただ、昨日レインが寝た後に、ローシュに見学してこいって言われてね」
するとレインは、可愛らしい桃色の頬を膨らませた。
「もう、ローシュったら。僕にもエレンにも説明しないで。大事なことなのに」
ローシュは、何やらレインを怒らせることをしたらしい。特に説明を受けていないエレンは、キョトンとしている。
「あのね、エレン。僕の仕事は、母様から引き継いだお花屋さんと。父様から引き継いだお仕事があるの。それは聞いた?」
「ああ、そこまでは」
「それでね、父様の仕事なんだけれど。エレン、人が死んだ後って、どうなるか知ってる?」
「死んだ後?」
エレンは考えを巡らせる。エレンが今まで見てきた死といえば、路地裏に転がる死体、己が殺した人間。少なくとも、レインが想定するような死に方をした者はいないだろう。「死んだらね、まずはお墓に入るための準備をするの。神さまのところに行くために、お祈りをしたり、友達や家族がお別れに来るんだけど。僕の仕事は、その少し前の作業なの。エレンは、エンバーミングって聞いたことある?」
エレンは首を横に振った。葬式にも参列したことがない彼には、聞いたこともない単語だ。レインは続ける。
「うーんとね、お墓に入る前に、死んだ人を綺麗にする作業なの。父様から引き継いだのは、この仕事だよ」
その言葉に、エレンは目を丸くする。聞くだけで随分難解で、レインのとても小さな身体で出来ることだとは思えなかったからだ。
「驚いたでしょう?でもね、ローシュがお花屋さんの仕事ぶりより褒めてくれたの。すごいでしょう?」
ローシュは、物腰は丁寧だが仕事には厳しい男だ。それはここ数日の様子で、エレンも察している。そのローシュが褒めたことだ。けしてお世辞ではないだろう。花屋も随分売り上げを伸ばしているのに、それよりも上をいくという、エンバーミングの仕事ぶり。
「ローシュが見学してこいっていうのも、うなづける。レインのことを知れってことだったんだね」
「うーん、そうかも?でも、大丈夫?死んだ人を見ることになるけれど」
「ああ、それは気にしないで。おそらく、もっとひどいものを見てきてるから」
その言葉にレインは首を傾げたが、エレンがいいなら、と納得することにした。
「じゃあ、案内するね」
向かったのは、花屋のある一階。その片隅にある、さらに下への階段だ。
「地下があるんだね」
「うん。本当は一階の方が、運ぶの楽なんだけれど。そうもいかないから」
すでに花屋があるから、という理由だけでもなそうな事情に、エレンは目をつむった。
「入る前に、これとこれをつけてね。父様の使ってたやつだから、ちょっと大きいかも」
レインはエレンにマスクやエプロンなど、一通りのものを渡す。レイン自身は、きちんとサイズのあったものを着ている。本当にこの仕事をしている証拠だ。
「気持ち悪くなったら、いつでも部屋を出てね」
レインは再度念押し、部屋に入る。
真っ白な部屋には、エレンの知らないもので溢れていた。病院にも行ったことのない彼には、消毒液の臭いも新鮮だ。
部屋の中央の台に、死体が寝かされている。若くも老いてもいない女性は、死体独特の土気色の顔をしている。お世辞にも、綺麗とは言えなかった。
「清潔にはなっているようだけれど。ここからさらに綺麗にするのかい?」
「うん。エンバーミングってね、綺麗にするだけじゃないの。一番は、生きていた頃の姿に近づけることなんだ」
レインはそういうと、様々な機械や器具を準備し始めた。エレンが見たことものないものばかりである。
「今からね、いらないところを取り除いて。出来るだけ、ただ眠っているだけの状態に近づけるの。ご遺体から移る病気もあるから、エレンはそこにいてね。触っちゃだめだよ」
「ああ、分かったよ」
レインは遺体の状態を一つ一つ丁寧に確認し、必要な処置を施していく。丁寧に丁寧に、祈るように施される処置。レインのその姿は、とても美しく。そして、優しさに溢れていた。
今までこんなに綺麗なものを、見たことがない。エレンは、レインから目を離せない。この美しい光景を、ずっと見ていたいと。死んだ人間を前にしているのに、そう思ってしまった。
「よし、これで大丈夫。よく頑張ったね、おつかれさま」
レインは処置を全て終えると、遺体に向かって話しかけた。物言わぬ遺体は、先ほどと違って随分顔色が良くなっている。知らない人が見たら、話しかけてしまうだろう。そのくらい、ただ眠っているだけに見えた。
「エレン、終わったよ。……エレン?」
「あ、ああ。ごめんね、集中して見すぎてた。お疲れ様、レイン」
レインに話しかけられ、エレンは自分が微動だにしていなかったことに気づいた。今見ていた光景は夢だったのではないかと思うほど。けれど、目の前の遺体が現実であることを証明している。
「エレンも、おつかれさま。ずっと立ってて、しんどかったでしょう。イス、用意してなくてごめんね。着替えたらおやつにしよ?」
二人は着ていたエプロンやマスクをとって、2階に戻る。外は陽が傾き始めていた。
「はい、どうぞ。ミルクいる?」
「いや、大丈夫。ありがとう」
昨日ステラが置いていったクッキーを食べながら、二人でくつろぐ。
「レイン、今日はありがとう。今まで見たことのないものを見たよ。美しい光景だった」
「そう?うーん、ローシュもそんなこと言ってた。僕は、ご遺体を綺麗にしているだけなんだけどなぁ。でも、エレンがそう言ってくれるなら、ちょっと嬉しい」
年相応にはにかむレインを見る。エレンはローシュが何故見学してこいと言ったのか、その真意を理解した。レインは、ただの子どもではなく、誰にも真似できない、美しいものを作る人だと。そう理解させたかったのだろう。
「あ、そういえば。ローシュが、美味しいもの買ってくるって言ってたよ!晩御飯、楽しみだね」
「ふふ、そうだね。ローシュにも、あったら色々聞かないと」
「?」
「ふふ、ひとりごとだよ。気にしないで」
クッキーを食べ切った二人は、ローシュが何を買ってくるか想像しながら、夜を待つ。穏やかな時間が、二人の間に流れた。空は、夕暮れに染まり始めていた。
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