第8話 思い出の味
キッチンから香ばしい匂いが漂ってきた。
(なんか……不思議だな)
基本的に自分しかいないこの家で、自分がリビングにいるのにキッチンに誰かがいる状況というのは、実はこの家に住むようになってから初めてだった。
友人が来ることはあっても、その場合キッチンに立つのは自分だ。
両親や妹が来ても、この家で食事を作ってもらったことはない。
もちろん、これまで食事を作ってくれるような
しかもキッチンに立っているのは女子高生だ。
まあこれで何か勘違いをするほど和樹もおめでたくはない。
彼女――白雪が、昨日の交通事故を回避させた和樹に恩義を感じていることはよくわかっているし、実際和樹にとっても彼女の支援は本当に助かっていた。
ややあって、炊飯器がピー、と炊き上がりを知らせる音を鳴らす。
それからも忙しなく白雪は動いていて、さらに十五分ほどすると、ようやくキッチンから出てきた。
手早くダイニングテーブルを布巾で拭いている。
「あ、そうだ。和樹さんって、お食事中は何を飲まれます? お酒とかは冷蔵庫にはなかったようですが……」
「ああ、冷蔵庫にお茶なかったかな。それでいいよ。普段あまり酒は飲まないから」
正しくは、一人では飲まない。
和樹にとって酒も食事も、お金をかけてまでする理由はどちらかというと他人との時間を楽しむためであって、それ自体にお金をかけるのはあまりしない。
たまにビールを飲みたくなったら買ってくることもあるが、月に一回あるかないかで、普段はお茶で済ませている。
ただ、お茶は親が茶道楽だったのもあって、色々なものをストックしている。
確か今冷やしてあるのは、ジャスミンティーだったはずだ。
白雪は「わかりました」と応じると、お茶をとりあえずテーブルに出してから、リビングにやってきた。
「テーブルに移動できますか?」
立ち上がろうとすると、白雪が素早く肩を貸そうとする。
「あ、いや。そのくらいは大丈夫、だから」
白雪が少し残念そうに「そうですか」というので、なぜか悪いことをした気になってしまうが、そんなはずはないわけで、とりあえずなんとか立ち上がると、足に負担がかからない様に何とかダイニングテーブルの椅子に座ることができた。
それを確認すると、白雪が次々とキッチンから盛り付け済みの食事を出してくる。
予想は出来ていたが、二人分だった。
「あ、あの、材料費は一人分でいいですので……」
和樹の視線に気づいたのか、白雪が慌てたように弁明する。
「いや、それくらいいいよ。ご馳走になるんだから、そのくらいさせてくれ。まあ俺も、一人の食事より二人のがいいし、何より玖条さん、片付けまでしてくれるつもりなら、俺が一人で食べる方が心苦しいから」
「すみません……よく考えたらちゃんと言ってなかったですね」
和樹は「問題ないよ」というと、白雪にも椅子をすすめた。
「……すごい美味しそうだ」
主菜はハンバーグステーキだ。それにソテーした野菜の付け合わせなどは、レストランで出される皿の様である。
さすがに鉄板でジュウジュウ音を立ているという事はないが、それでも湯気が見えそうな出来立てのハンバーグは、とても美味しそうだ。
スープは野菜を刻んだコンソメベース。それに白飯と生野菜のサラダ。
栄養バランスも悪くなく、見た目も完璧だ。
「冷めないうちにどうぞ」
和樹は頷くと、「いただきます」と手を――白雪も同時に――合わせる。
とりあえずいつもの習慣でサラダから手を付け――食べて驚いた。
「……これ、ドレッシング何を?」
「あ、えと、ハンバーグに使う玉ねぎを流用したものです。お口に合わなかったでしょうか?」
「いや、逆。ものすごく美味しい」
サラダでこれだけ美味しいと思ったのは初めてだ。
野菜自体は普段と同じだろうが、ドレッシングが美味しくて味が引き立っている。
これなら……とハンバーグに箸を入れると肉汁が溢れるかと思ったが、さほど出てこない。
とりあえず食べてみて――目を見張った。
「
それしか言葉が出ない。
それくらい美味しかった。
かなり粗挽きの肉を使っているのだろう。肉の食感がはっきりと残っている。
にもかかわらず食べやすい硬さである上に、咀嚼すると肉のうまみ溢れてくる絶妙な焼き加減だ。
かかっているソースも絶品だった。
正直、そこらのファミレスはもちろん、専門店にだって引けを取らないレベルだと思える。
「お口にあったようで何よりです」
そこでようやく白雪も箸をつけ始めた。
どうやら味の評価に不安があったようだが、これほど美味しいものを作れることにむしろ驚愕するレベルだ。
「本当に美味しい。目の前で作ってもらっていなければ、専門店から買ってきたのかと思うくらいだ」
「そこまで言っていただけると、作った甲斐があります」
白雪が笑った。
その表情が、とても大人びた、それでいながら透き通るような美しさすら感じさせ、一瞬和樹は呆けてしまう。
「月下さん?」
「あ、いや、何でもない。その、本当に美味しくてね。これだけ料理ができるのは、お母さんから?」
「……はい。それに父にも。小さい頃、父と母に教えてもらった一番の得意料理がこれで……思い出の味なんです」
その言葉に、何か一瞬違和感を感じたが、料理の美味しさがそれ以上の追及をさせなかった。
「うん、これは本当に美味しいよ。こんなのをご馳走になれたら、怪我もすぐ治る気がする」
「それはさすがにないと思いますが……」
「いやいや。美味しい料理ってのはそれだけで人を元気にできる。少なくとも俺はとても元気になった気がするし、ね」
スープの味付けも絶妙だった。
比較的濃い味付けのハンバーグとは違って、野菜の甘味を活かした優しい味付けで、適度に口の中の味のバランスを整える。それとサラダのドレッシングの、肉とは違う味付けで、味に飽きるということが起きない。
これに白飯が加われば、文句なしの味のローテーションが構築され、和樹は最後まで美味しさを満喫し続けた。
「ご馳走様。本当に……本当に美味しかったよ。ありがとう、玖条さん」
「いえ。お粗末様でした」
白雪も少し遅れて食べ終わる。
そのまま手早く片付けを始めた。
和樹が何もすることなく、あっという間にテーブルはきれいになって、代わりに食後のお茶が置かれていた。
「すみません、お茶、勝手に使わせていただきました」
「ああ、いいよ、いっぱいあるから」
茶道楽の親の影響で、お茶の葉は本当に色々ある。
月に一回はお茶の専門店に立ち寄るくらいには、和樹はお茶好きだ。
あまり詳しいわけではないが、色々なお茶を楽しむのは好きなのである。
ちなみにコーヒーも好きで、豆をから挽けるコーヒーメーカーも持っている。
「私もあまり見たことがないお茶ですが……結構色々お持ちなんですね」
「ああ、うん。親の影響でね。なんかいろんなお茶を買うことが多い。あまり詳しいわけではないんだが、気になったのがあったら持って行ってくれてもいいよ」
「いえ、それはさすがに…。でも、今淹れたものだけは、いただきますね」
いつの間に片付けもあらかた終わったらしい。
食洗器の稼働音が聞こえる。
フライパンなどもすでに洗ってあったのか、洗い棚に立てかけてあった。
驚くべき手際だ。
「あ、このお茶美味しい……香りがすごくいいですね」
お茶の香りに顔を綻ばせる。
そういうところは年相応に見えた。
気づくと、すでに時刻は二十時を過ぎている。
いくら同じマンションとはいえ、これ以上引き留めるのはまずいだろう。
「今日は本当にありがとう、玖条さん。おかげで助かった」
「いえ、私こそ、事故に遭うところを助けていただいて、ありがとうございました。でも、明日は大丈夫……ですか?」
「まあ、最低限歩くくらいは大丈夫だとは思う」
実際、かなり痛みは引いてきている。
下手に動かすと痛むが、気を付ければ歩くくらいは、明日には大丈夫だろうという気はする。
「まあ、あまり無理はなさらない様にして下さい。月曜日も痛むようでしたが、病院も考えていただけると。あと、ごはんはまだ炊飯器に残ってますが、そのままのがよろしいでしょうか?」
「ああ、うん。それは助かる。ご飯さえあればとは何とか」
「あと、少しですが食材を冷蔵庫に入れてありますので、よろしければ使ってください」
「……何から何まで……ありがとう、助かるよ」
さすがに時間が時間だとは、白雪も分かっているのだろう。
和樹が少し時計に目をやると、それで察したように立ち上がった。
「忘れ物はないかな?」
「大丈夫です。昼間のタッパーも回収しましたので。あ、お見送りは結構です。まだ、無理なさらずに」
立ち上がろうとする和樹を白雪が制してきた。
しばらく逡巡するが、ここは言葉に甘えることにする。
「それじゃあ、さようなら、玖条さん。またこういう機会は……いや、ない方がいいだろうけど、今回のことは本当に助かった。本当にありがとう」
「いえ、こちらこそ。お大事になさってください」
白雪は再度会釈すると、廊下に消えた。
しばらくすると、扉が開いて、それから閉じた音、続いて施錠された音が響く。
「ふぅ」
多少緊張していたのだろう。
思わずため息めいたものが漏れた。
「いい子だったな。まあ、もう関わることはないだろうけど」
同じマンションに住んでいても、基本的に会うことはない。
実際和樹はこの部屋に五年以上住んでいるが、未だに隣の部屋の住人でも顔見知りとすら言えない間柄だ。
ましてフロアが違う――それも富裕層向けのフロアに住む――白雪と、今後関わる可能性は、おそらくない。
それは白雪も分かってるだろう。
昨日から今日にかけての邂逅は、ある意味奇跡だった。
少なくともこの時、和樹はそう思っていた。
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