続・終業の日
宮崎茂人は、屋上をゆっくりと歩いていった。
ここまでは、全て上手くいっている。ペドロの計画した通りだ。だが、問題はここからである。これ以上やると、警察も黙ってはいない。さらに、世論も黙ってはいないはずだ。このままだと、射殺命令にGOサインが出かねない。
万一、ここで撃ち殺されては何もならない。派手な事件を起こし、人を何人か殺した挙げ句に投降する。それが、計画の第一段階なのだ。
宮崎は歩きながら、本の内容について考えていた。出来るだけ、同情を買うような内容のものがいい。悪いのは自分ではなく、自分を追い込んだ周囲である……というふうに。タイトルは『鞭の涙』とでもしようか。
だが、彼の妄想は長く続かなかった。不意に銃声が轟く。
撃ったのは安原である。彼は柵越しに、下にいる者たちに向けて発砲したのだ。
「お、おいヤッちゃん、もうそろそろいいんじゃねえか? そろそろ投降しないとヤバいぜ」
宮崎は、なだめるように言った。
だが、安原は無言のまま不良の方に銃を向ける。手錠で繋がれ、顔がボコボコに変形した男だ。
銃口がこちらに向いていることに気づくと、ヒイと悲鳴を上げる。
安原は、容赦なく引き金を引く。直後、男は血を吹き倒れた。
周囲の者たちが、狂ったような声をあげる──
「ちょ、ちょっと……もう、このへんにしとこうぜ。でないと、俺たち撃たれるかもしれねえぞ」
言いながら、宮崎は安原の肩を叩く。彼は不安になっていた。安原の様子はおかしい。本当に破滅を望んでいるような気がするのだ。狂人を演じている宮崎とは違う、本物の狂気に憑かれているように見えた。
すると、安原はニッコリと笑う。
「それもそうだね。ところでさ、投降の前に何か食べておかない? 逮捕されたら、臭い飯しか食べられなくなるって言うからさ」
「えっ?」
宮崎は困惑した。まさか、この状況でそんなことを言われるとは思わなかったのだ。
しかし、安原はニコニコしている。学校にいた時と同じく、愛嬌のある可愛らしい笑顔だ。
「来る前に、コンビニで買って校舎に隠しといたんだよ。サンドイッチとか菓子パンとかポテチとか、そんなのだけどさ……臭い飯よりはマシじゃん。逮捕されたら、好きな物は食えなくなるんだよ」
そう言うと、安原は階段の方に歩き出す。
その時になって、宮崎は初めて空腹を感じた。そういえば、朝からほとんど食べていない。今までは、興奮が空腹を忘れさせていたのだ。
「そういや、腹へったな。じゃあ、逮捕される前に食べとくか。腹がへっては、戦は出来ぬって言うしな」
冗談めいた口調で言いながら、宮崎は扉を開けて校舎へと入っていく。続いて、安原も入って行った。
数秒後、乾いた銃声が響き渡る。続いて、ばたりと倒れる音がした。
やがて、扉が開いた。安原が屋上に戻って来たのである。
彼は、手錠で繋がれている不良たちに銃を向ける。不良たちは狂ったように泣き叫び、許しを乞う。
だが、安原は彼らの訴えを無視した。
立て続けに、銃声が響き渡る──
屋上の死体は、十人を超えている。返り血を浴びた姿で、安原はひとり微笑む。
床は、死体から流れた血に染まりつつある。その光景は、地獄そのものであった。恐らく、屋上の様子は警察も把握していることだろう。
だが、安原の心には何も響いていない。彼は今まで、荒涼とした世界をひとり生きてきたのだから。
物心ついた時から、安原はずっと生きづらさを感じていた。
周りの人間と、自分とは違う。男は男として生き、女は女として生きている。
だが、自分はどちらでもない。体は男なのに、心は女なのだ。
安原にとって、この世は生き地獄であった。誰も自分を理解できない。
幼い時、親友だった男の子に気持ちを打ち明けたことがある。安原は、その男の子に本気で恋していたのだ。
しかし、親友は笑った。冗談だと思われたのだ。そして安原も笑った。笑うしかなかった。冗談にしてしまわなければ、自分を取り巻く全てが壊れてしまいそうな気がしたのだ。
以来、彼はずっと仮面を被り生きてきた。男という名の仮面を──
ペドロは、ただひとり安原を理解してくれた。理解だけでなく、女性として安原を愛してくれたのだ。こんな体験は、生まれて初めてだった。安原はようやく、本当の自分をさらけ出せたのだ。
ペドロは、こう語った。
(あなたは、来世で女性として生まれ変われるはずです。俺のいう通りにすれば、間違いありません)
そう、ここまでペドロの計画通りに進んでいる。後は、最後の仕上げだ。
安原は柵の扉を開け、ゆっくりと進んでいく。へりに立ち、下を見下ろした。
大勢の人間が見える。何やら叫び、怒鳴っているのも聞こえる。何を言っているのか、安原には分からない。確かに声は聞こえている。だが、彼はそれを雑音としてしか認識していなかった。
「ペドロ……生まれ変わったら、必ず君に会いに行くよ」
・・・
不意に浜川高校の屋上から、何かが落ちてきた。どさりという音を立て、校庭に転がっている。
それは、かつて安原だったはずのものだった。この事件を起こすまで、校内で彼を知っている者はほとんどいなかったのだ。
今はもう、肉の塊でしかない。
こうして、浜川高校・校舎立てこもり事件は幕を閉じた。多数の死者を出し、犯人の少年二人は死亡という最悪の結果で終わりを告げる。
しかし智也にとって、この事件は終わっていない。あの日、ペドロが発した言葉は、未だに智也の心に刺さっている。
二人の最期を見届けた後、ペドロはゆっくりと川の方に歩いて行く。智也は、その後を付いて行った。
やがて、ペドロは河原の草むらで立ち止まった。智也も立ち止まり、ためらいながらも口を開く。
「なあペドロ、教えてくれよ。全て、君が仕組んだことなのか?」
震える声で、智也は尋ねる。すると、ペドロは頷いた。
「はい。あなたにだけは本当のことを言いましょう。始めに僕は、この川原で伊藤信雄と金子博司を殺しました。彼らに聞いた情報を基に、計画を立てました。あとは、ご覧の通りです。僕は宮崎と安原に進むべき道を示唆し、結果として二人とも亡くなりました」
そう言うと、ペドロはにっこり微笑んだ。智也は顔を引き攣らせながら口を開く。
「ふ、二人は、何のためにあんなことをしたの?」
足の震えを、どうにか堪えて尋ねた。ペドロの言っていること、やっていること、どちらも理解不能だ。こうなった以上、彼に殺される覚悟は出来ている。
しかし、二人がなぜあんなことをしたのか……それがわからなければ、死ぬに死にきれないのだ。
必死の形相で、ペドロに迫る。すると、ペドロはくすりと笑った。
「僕はね、彼らを解放してあげたかったんですよ」
「解放?」
「そうです。宮崎さんと安原さんは自身が何者であるか、それを知ることが出来ました。生に縛られ、社会に縛られ、常識に縛られ……挙げ句、自分が何を欲しているかも分からぬまま死んでいく。それが、大半の人間の生き方です。しかし、彼らは違っていました」
ペドロは、にこやかな表情でゆっくりと語る。その口調は、今までとは違っているように感じられた。
「彼らの生は、幸せなものだった……僕は、そう信じています」
「幸せ? どこが!? あいつらは君に操られ、自ら破滅していったんじゃないか!」
足を震わせながらも、智也は怒鳴りつけた。この男は、本物の狂人なのだろうか。言っていることが無茶苦茶だ。
すると、ペドロの表情に僅かではあるが変化が生じた。この怪物にも感情が存在する、その事実が垣間見えた瞬間だった。
「今、操られて……と言いましたね。では、あなたは何者にも操られていないのですか?」
「そ、そんなこと……」
ない、と言おうとして、智也は口をつぐんだ。彼は気づいたのだ。ペドロの言葉に、反論できないことを。
一方、ペドロは笑みを浮かべる。
「気づいてくれたようですね。今の世の中、何を欲するかは……かなりの部分が他人によってコントロールされています。常識、と呼ばている概念ですら、誰かによって決められたものです。この世に存在する全ての快楽もまた、誰かが作り出したものです。我々は、それを受けとるだけ。そこに自由意思など、存在していません」
低い声で、ゆっくり丁寧に語る。それに対し、智也は何も言えなかった。今の彼は、ペドロの言葉に耳を傾けるだけの木偶人形と化していた。
「だから、僕は彼らに与えてあげたんですよ。自信と力、そして殺人の快楽と死ぬべき理由を。宮崎さんと安原さんは、幸せな気持ちのまま死ぬことが出来たでしょう」
そこで、ペドロは言葉を止めた。タバコの箱を取り出し、一本抜き取る。
火を点けると、美味そうに吸い込んだ。
「き、君はタバコを吸うのか……」
唖然とした表情で、智也は呟いた。だが、その直後に智也はクスクス笑い出す。ペドロがしでかしたこと比べれば、喫煙など取るに足らないではないか。
「そうです、僕はタバコを吸います。誰かが、タバコは緩慢なる自殺……と言っていましたが、上手いことを言うなあ、と思いますね。それはともかく、僕はもう飽きてしまいました。そろそろ、日本を去ろうと思います」
「えっ?」
聞き返す智也に、ペドロは大きく頷いてみせた。
「ええ。この国は住みやすい場所ではありますが、刺激には欠けますね。ですから、僕はメキシコに帰ります。浦田さん、気が向いたら、また会いに来ますよ。お元気で」
そう言うと、ペドロはまたしてもタバコを口に咥えた。
美味そうに煙を吐き出す。智也は今になって、この怪物にも嗜好品があるのだ……ということを知った気がした。
だが、ここで話を終わらせるわけにはいかない。
「ねえ、ペドロ……最後にひとつだけ教えて。君は何のために、こんなことをしたの?」
声を震わせながら、智也は尋ねる。だが、本当に聞きたかったのは、そのことではない。あの日、なぜあんなことをした? 君は、僕のことをどう思っている? それが聞きたかった。
だが、どうしても言えなかった。
すると、ペドロは首を傾げる。お前は何を言っているんだ、とでも言わんばかりの表情を浮かべていた。
「わからない、ですか?」
「えっ」
智也は、思わず後ずさる。わかるはずなどない。こんな、日本の犯罪史上に残るであろう大それた事件を引き起こしておきながら、振り返りもせずに去って行こうとしている。到底、理解できるものではない。
その反応を見たペドロは、苦笑しつつ口を開く。
「あなただけは、この事件の意味を理解しているかと思っていましたよ。僕の同類かと思っていたのですが……どうやら、見込み違いだったようですね」
ペドロの顔には、失望の色が浮かんでいた。その表情を見た智也は、顔を歪めてうつむく。胸の奥から、罪悪感のようなものが湧き上がっているのだ。
誰に対してのものなのか……それは、考えるまでもなかった。
「あなたは、彼らとは違う人間だと思っていました。僕のやっていることを理解している、とね。しかし結局は、あなたも彼らと同じだったわけですね」
その顔には、ある感情が浮かんでいた。智也が初めて見るであろう、ペドロという怪物の感情の発露。それは、軽蔑としか言い様のないものである。彼は蔑んだ目で、智也をじっと見つめている。
智也にとって、それは殺されるよりもずっと嫌なことだった。
「僕が、なぜこんなことをしたのか? その疑問は、あなたへの宿題としましょう。もし、この宿題を解くことが出来たなら……その時こそ、僕とあなたは真の友となることが出来るでしょう」
そこで、ペドロはにこりと笑った。
「では、この辺で失礼します。あなたが宿題を解いた暁には、僕たちは再会できるはずです。その時を、楽しみにしていますよ」
・・・
手製の銃で十人以上を殺害し、校舎の屋上にて自殺した宮崎茂人と安原則之。
二人は、日本の犯罪史上に名を残す存在となった。警察は二人の家を捜索した結果、手製の銃の設計図や分解したモデルガンの残骸などを発見する。
警察は、彼らが知恵と知識と金を出し合い、有り合わせの材料で銃を作ったと発表した。動機については、学校への復讐だと言われている。
三十年以上が経過した今となっても、この事件についての噂が囁かれることがある。いわく、宮崎と安原はとある秘密結社の一員だった。いや、実は二人は政府の関係者で、今もどこかで生きている……などといった噂が飛び交い、しまいには都市伝説の登場人物のような存在になってしまった。
だが、事件の裏に悪魔がいたことを知る者はいない。また、真相に最も近い位置にいた二人……浦田智也と小沼秀樹についても、知る者はいない。
小沼秀樹は、現在も行方不明として扱われている。
浦田智也は、その後別の高校へと編入した。
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