最悪の日

 浦田智也の自宅を訪問した翌日、小沼秀樹は険しい表情で登校した。駅を降り、商店街を抜けて学校へと向かう。

 今、何が起きているのか、全てを把握している訳ではない。しかしわかっていることもある。東邦工業のバカ共は、黒岩がやられた以上おとなしくしているとは思えない。何か仕掛けて来るはずだ。

 もっとも、秀樹に出来ることは限られている。せいぜいが、他の者に注意を促すことくらいだ。

 こうなった以上、まずは藤井たちに自分の知り得た情報を話す。次にペドロのことを調べ、大下刑事に指示を仰ぐ。もう、智也は当てにならない。自分でやるしかないのだ。

 だが、遅かった。


「おい、藤井って奴はいるか?」


 数人の少年たちが、浜川高校の生徒に絡んでいる。どうやら、東邦工業の生徒たちらしい。

 うちひとりは、さほど背は高くない。しかし肩幅が広くガッチリしており、耳が潰れている。柔道もしくはレスリングの経験者であろう。


「おい、さっさと藤井ってバカを呼んで来いや! でねえと、てめえ殺すぞ!」


 東邦工業の連中は喚きながら、浜川の生徒の襟首を掴んでいる。

 ため息をついた。こうなると、見過ごすわけにもいかない。


「おいおい、いい加減にしろ」


 言いながら、秀樹は近づいて行く。すると、彼らの視線が一斉にこちらを向いた。


「何だてめえは!」


 ひとりの少年が、喚きながら秀樹に迫る。だが、秀樹は襟首を掴むと同時に、腹に膝蹴りを叩き込む。

 次の瞬間、少年は腹を押さえて崩れ落ちた。


「お前ら、朝っぱらからご苦労だな。話だったら俺が聞いてやるよ」


「んだと……」


 低い声で唸り、前に出てきたのは耳の潰れた少年だ。秀樹は僅かに後退し、間合いを離す。この男には、掴まれたら終わりだ。

 すると、男は忌々しそうな表情を浮かべた。


「俺はトウコウ東邦工業の村上だ! さっさと藤井を呼んでこい。でねえと、てめえを先に殺すぞ!」


 鋭い目つきで凄む。秀樹は一瞬、どうしようか迷った。素直に言うことを聞いてしまっていいのだろうか。

 だが、放っておくと騒ぎが大きくなる。溜息を吐くと、村上と名乗った男を見つめた。恐らく、この男がリーダー格なのだろう。


「わかったよ。付いてきな。藤井はまだ来てないかもしれねえが、そん時は俺が相手してやる」


「はあ!? 偉そうにすんな! てめえは何モンなんだよ!?」


 村上は、またしても凄んでくる。だが、秀樹はすました顔だ。


「まあまあ。村上くんよう、お前が用があんのは藤井だろうが。俺なんか相手にしてる場合じゃねえだろ。付いてきな」


 そう言うと、秀樹はくるりと背を向け歩き出す。まずは、相手のやる気を削ぐことだ。この手のタイプは、自身の面子を重んじる。仲間の前で、敵を背中から襲うような真似はしないはずだ。


「ざけんじゃねえ! もし藤井がいなかったら、てめえをボコってやるからよ! 覚悟しとけ!」


「ああ、そん時は俺が相手してやるよ」


 冷めた口調で言葉を返し、秀樹は進んで行った。正直言うと、うっとおしくて仕方ない。こんな男など、相手にしている場合ではないのだ。

 しかし放っておくわけにもいかなかった。このままだと、村上は無差別に生徒を襲いかねない。

 面倒くさい話ではあるが、仕方ない。秀樹は東邦工業の生徒らを引き連れ、すたすたと歩いていた。

 その時、見覚えのある後ろ姿を見かける。標準の制服、妙にガッチリした体つき、さほど高くない身長。だが、どこか威圧感を感じさせる。


 もしや、あいつか?


 秀樹は、歩く速度を早めた。目当ての者に追いつき、さりげなく顔を見る。

 彼の予想通り、男はペドロであった。平然とした顔で学校に向かい、真っ直ぐ歩いている。この騒ぎに気づいていないのか、あるいは気にも留めていないのか。

 不意に、ペドロの顔がこちらを向いた。歩きながら、秀樹の目を見る。

 その瞬間、秀樹の背筋がぞくりと寒くなった。やはり、この男は普通ではない。周囲の空気の変化に、気づいていないはずがないのだ。にもかかわらず、平然としている。

 だが秀樹は、ふと思いついたことがあった。


 いっそ、村上たちをペドロにぶつけたら?


 藤井はこの時間帯、来ているかどうか分からない。もし藤井がいなかったら、村上は自分に向かって来るだろう。

 ならば、村上をペドロにぶつけたら、どうなるだろうか。

 ペドロの喧嘩っぷりを、間近で見てみたい。


 秀樹は立ち止まった。村上の方を向き、意味ありげに目配せする。

 訝しげな表情の村上に近づき、耳元で囁いた。


「村上よう、あのペドロくんもかなり強いぜ。まずは、ペドロくんをぶっ飛ばしてみせてくれねえか」


「はあ?」


 すっとんきょうな声を上げる村上。この男、かなり単純な男のようである。ならば、このまま押してみよう。


「あのペドロはな、一年生だけど強いんだよ。まずは、藤井の前にあいつをぶっ飛ばしてみてくれ」


 そこで、秀樹はニヤリと笑う。


「それとも、あいつが怖いのか?」


「んだと……ざけんじゃねえ! あんな一年、秒殺だよ!」


 喚くと同時に、村上はつかつか近づいて行く。何のためらいもなく、ペドロの肩に手を伸ばす。

 だが次の瞬間、村上はビクンとなる。一瞬、体が痙攣したようにも見えた。まるで、電流が全身を走ったかのように。

 一方、ペドロは立ち止まった。そのまま、ゆっくりと振り返る。


「あなた方は、東邦工業の生徒さんですよね?」


「だ、だったらどうしたんだよ!」


 吠える村上だったが、明らかに動揺している。そばで見ている秀樹には、彼の変化が手に取るように分かった。

 間違いない。村上はペドロを見て、何かを感じ取ったのだ。自分と同じく、あの外国人のような風貌の裏に秘められた危険なものを……。

 しかし、何も感じなかった愚か者もいたらしい。村上の手下の雑魚Aが、肩を怒らせながら近づいて行った。


「村上さん、何やってるんすか!? こんな奴、俺がやってやりますよ!」


 怒鳴りながら、ペドロを威嚇する。臆している部分はまるでない。

 すると、ペドロは面倒くさそうな表情でそちらを向いた。


「あなた方の役目は、もう終わりなんですよ。さっさと消えてくれませんか?」


「はあ!? てめえ殺すぞ!」


 雑魚Aは、ペドロの襟首を掴む。と同時に、右手でペドロの頬を殴り付けた──

 だが、ペドロは表情ひとつ変えない。無言のまま、雑魚Aを見つめている。痛みを感じている様子はないし、怒っているようにも見えない。

 一方、殴った雑魚Aは怯えていた。今になって、ようやく目の前にいる者が普通でないことに気づいたのだ。

 しかし、それだけでは終わらなかった。


「申し訳ないんですが、もう皆さんの役目は終わりです。さっさと引き上げてくれませんかね。でないと……非常に不快な思いをすることになりますよ」


 そう言うと、ペドロは村上の方を向いた。


「この中のリーダー格は、あなたですね。さっさと引き返した方が賢明です」


 途端に、村上の背筋に冷たいものが走る──

 この男、小学生の頃から柔道をやっていた。中学の柔道部の上下関係に嫌気がさし、高校に入ってからは辞めてしまったが……それでも、並の不良などとは強さのレベルが違う。

 そんな村上だからこそ、わかるのだ。このペドロという男が、尋常ではないということに。

 もし今が、ペドロとの一対一という状況であったなら、間違いなく引いていただろう。しかし、周囲には敵である浜川高校の生徒たちがいる。さらに、後輩たちの目もある。東邦工業のナンバー2である村上は、引くわけにはいかなかったのだ。


「おい、てめえ……ちょっと来いや。藤井の前に、てめえから片付けてやんよ」


 低い声で、ペドロに凄んだ。実のところ、内心の不安を必死で消し去ろうとしていたのだ。


 俺はこれまで、何人もの相手を葬ってきたんだ。

 こんな一年ごときに、負けるはずがねえ。

 俺はどうかしてる。

 こんな奴、アスファルトの上にぶん投げればケリが付くはずだ。


 確かに村上は強い。喧嘩なら、藤井や秀樹とやり合っても互角に近いような闘いが出来たであろう。また、それなりに自信もある。

 だが、それだけに隙も多い。しかも、少年ゆえに人生経験も少ない。自分の想像もつかないような化け物が存在することなど、知るはずもなかった。

 いや、実のところ……それとなく気づいてはいた。村上もそれなりに修羅場をくぐっている。そんな彼の勘は告げていたのだ。ペドロには勝てない、と。

 ところが村上は、その勘を信じ身を委ねることが出来なかったのだ。これまでにも、多くの不良を叩きのめしてきた。だが逆に、その経験が彼の邪魔をしていたのだ。

 その上、周囲の目もある。東邦工業にて、これまで築いてきたものは、決して小さくはない。そのため、引くわけにはいかなかったのだ。

 そんな村上を、ペドロは冷たい表情でじっと見つめる。


「わかりました。このままだと、面倒なことになりそうですね。行きましょう」


 そう言うと、ペドロは学校とは違う方向に歩き出した。少し遅れて、村上たちも付いて行く。

 さらに遅れて、秀樹も付いて行った。ペドロがどんな喧嘩をするのか……好奇心をそそられたのだ。それに、自分の勘が正しいのかどうか、確かめる必要もある。

 しかし、ペドロが振り返った。


「関係ない人たちには、来てもらいたくないんですが……そうですね、小沼さんは立会人ということで来てもらうとしましょう。後の人たちは、ここで引き上げてください」


 そう言って、ペドロは他の者たちを見回す。すると、東邦工業の生徒が騒ぎ出した。


「はあ!? ざけんじゃねえぞ!」


「るせえ! お前ら、さっさと帰れ!」


 怒鳴ったのは村上であった。


「む、村上さん……ひとりで大丈夫っスか?」


 案ずるような声をかける東邦工業の生徒たち。だが、村上は不快そうな表情を向け一喝した。


「いいから行け! 俺の言うことが聞けねえのか!」




 ペドロは、のんびりと歩いて行く。少し遅れて、秀樹と村上が後を付いて行った。

 村上の顔には、汗が浮かんでいる。緊張しているのだろう。だが、秀樹もまた同様に緊張していた。自分が闘うわけではないのに、なぜか鼓動が早くなっている。足にも、軽い震えがきていた。

 やがてペドロは、閑静な住宅地にある駐車場へと入って行く。中は広く、車が数台停まっている。だが、地面は砂利が敷かれており舗装されていない。その上、あちこちに雑草が生えている。下町によくあるタイプの駐車場だ。当然、防犯カメラなどは設置されていない。そもそも、この時代の防犯カメラは高級な場所にしか無かった。

 秀樹と村上の二人は、思わず顔を見合わせていた。ここでやり合おうというのか。

 その一瞬の間に、ペドロは動いた。

 まるでテレポートでもしたかのように、瞬時に間合いを詰める。村上の前に移動すると同時に、腹めがけ拳の一撃を放つ──

 村上は、何をされたのかすら分からなかった。だが次の瞬間、腹の中で何かが爆発したような激痛が走る。彼は声すら出せず、腹を押さえて崩れ落ちた。

 だが、ペドロの動きは止まらない。さらに村上の頭を掴み、首を小脇に抱える。そのまま首を絞め上げた。フロントチョークという絞め技だ──

 ペドロの腕が、気道と頸動脈とを同時に絞め上げる。村上は抵抗も出来ず、そのまま絞め落とされた。


 僅か数秒の出来事である。秀樹は唖然としたまま、ペドロの動きを見ていた。

 直後、ペドロは顔を上げて秀樹を見つめた。秀樹はビクッとなり、思わず後ろに飛びすさる。

 ペドロは村上の体を静かに横たえると、秀樹に向かい口を開いた。


「あなたは、いろいろ気づいているようですね。仕方ないので死んでもらいます」


 秀樹は、またしてもミスを犯した。

 今の闘いぶりを見る限り、ペドロの殺傷能力は自分を遥かに上回っている。万が一にも勝ち目はない。

 となると、秀樹が取るべき手段はひとつだった。大声を上げながら逃げること、である。ここは住宅地である。誰かがその声を聞き、警察に連絡してくれる可能性がある。また、ペドロが攻撃をやめ引き上げていた可能性もあった。

 少なくとも、まともに立ち向かおうとするよりは、遥かにマシな選択である。

 しかし、秀樹は立ち止まり構えてしまった。それは反射的な行動だったのだろう。これまで、数多くの喧嘩で勝ってきた経験が取らせた動きだ。

 しかし、その経験が裏目に出た──


 彼は、ここに至るまでに数々のミスを犯し、挙げ句に今の状況に立たされている。だが、ペドロに対し逃げなかったのは……もはや、最悪の選択としか言い様がないだろう。

 そして秀樹は、自分のミスに気づく機会を永遠に失ってしまった。






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